ch.3 交錯する運命
第14話 宵闇に融ける影
すっかり日の暮れた街を、ユナは落ち着かない気分で歩いていた。肩から掛けた買い物袋の紐をきゅっと握り、周囲に目を配りながら父の待つ店へと向かう。
生理用品を切らしていることに気付いたのが日没間際。父に頼む気にはなれず、自分一人で買い物に出た。本当はもっと早く帰るつもりだったのに、今日に限ってマーケットの特売日で、レジがやたらと混んでいたのだ。
いくら大した距離でないとはいえ、この辺りは廃地区に近く、夕方以降はほとんど人通りもない。街灯が少ないため夜間は恐ろしく暗く、時々泥酔した浮浪者の姿を見掛けることもあった。
しかしそわそわする気持ちの原因は、それだけではない。今夜はクオンがまた店にやってくるのだ。もしかしたら、もう来ているかもしれない。ユナは制服からお気に入りのワンピースに着替えていた。
不安と期待。相反する二つの気持ちが、ユナの足を急がせる。
最後の角を曲がろうとした時、足許を何かが素早く横切っていった。思わず「ひゃっ」と声が漏れる。それは一瞬立ち止まり、ユナを振り返って「にゃあ」と一声鳴いた。近所でよく見る野良の黒猫だ。
なんだ、びっくりさせないでよ。ユナはほっと胸を撫で下ろす。
黒猫って夜だと目だけ光って見えるんだな。そう思いながら、闇に融けるそのシルエットを何の気なく眺める。
猫は道を渡り、反対側の細い路地へ入る手前で止まると、再びユナの方を振り返って「にゃあ」と鳴いた。
——なんだか、付いてこいって言ってるみたい。
普段は素っ気ない黒猫が珍しく見せた反応に、好奇心が疼く。安全とは言い難い時間帯だったが、ユナは猫の方へと足を向けた。
ほとんど光の届かない路地裏に、そろりと踏み入る。黒猫は先に行ってしまい、その姿を判別することはできなかった。
「おーい猫ちゃーん」
試しに声を掛けてみたが、返事はない。
やっぱりもう帰ろう。ユナが
なんだ、意外と手前にいたんだ。そう思って歩み寄る。だがそれは猫ではなく、靴のような形をしたものだった。
初めは、ゴミとして棄てられているものだと思った。しかし視線を進めていくと、それがブーツを履いた人間の脚だと認識できた。
人が倒れているのだと理解した瞬間、ユナは口の中で小さく悲鳴を上げた。死体のように見えたのだ。
だがよく目を凝らすと、その人物はぜいぜいと荒く呼吸をしていた。右手で反対の肩を押さえて
ユナは恐る恐る声を掛ける。
「あ、あの……大丈夫ですか?」
小さな呻き声が返ってくる。
「肩、怪我してるんですか?」
ユナは女の顔を覗き込もうと、身を屈めた。靴裏でぴちゃりと水音がする。雨なんて、ここ数日降っていないのに。しかもどういう訳か鉄のような臭いがする。そこでようやく、地面を濡らしているのが大量の血液であることに思い当たった。
「あ、あの、あたしすぐに助けを呼んできます! だから、ちょっと待ってて!」
言うなり、ユナは走り出した。
「ねぇ大変! そこの路地で女の人が倒れてるの!」
『
全力で駆けてきたせいで息が上がっていた。時刻は七時過ぎ。店内にはマスターと、既に来店していたクオンがいた。あれほど心待ちにしていた彼の姿だったが、今はそれどころではない。
「その人、怪我してて、血をたくさん流してる。早く来て!」
ユナはマスターとクオンを連れて、再び路地へと駆け付けた。女は先ほどと同じ格好のまま倒れていたが、気のせいか少し呼吸が浅くなっている。
女の傍に屈んで様子を見たクオンが、マスターを見上げて言った。
「これはまずいな。救急車呼びますか」
「そうだね」
マスターはポケットから携帯端末を取り出し、電話を掛け始めた。
クオンは女を軽々と抱え上げ、店の前の舗道へと移動させた。斜め掛けのショルダーバッグを外し、コートの前を大きく開ける。
「……ん?」
クオンが手を止め、目を見張る。
その女は、一般人には似つかわしくないショルダーホルスターを身に着けていた。ご丁寧に左脇には拳銃も収まっている。
薄い色の服の左半分が、溢れ出た血液でべったりと暗色に染まっていた。この出血量では、すぐにでも手当てをしないと命に関わるだろう。
電話を終えたマスターが渋い表情をしている。
「救急車、出払っちゃってるみたい。どうしよう、うちの車で診療所まで運ぼうか」
「俺、運転していきますよ」
クオンは再び女の身体を抱え上げた。マスターの手も借り、店の駐車場に停めてある車の後部座席に彼女を横たえる。
「あ、あの!」
運転席に乗り込もうとするクオンに、ユナは声を掛けた。
「どうした?」
「あたしも付いてっていいですか?」
「遅くなるかもしれないぞ」
「だって、その女の人のことが心配だし……」
「うーん」
「ね、お父さん、いいでしょ?」
水を向けられたマスターは眉根を寄せる。
「行ってどうするの。もう夜だよ? 明日もテストでしょ?」
「大丈夫、勉強なら帰ってからするよ。この人を見つけたのはあたしなんだから、その時の状況とか、あたしが行った方が分かりやすいだろうし」
「いや、でもそのくらいは——」
「あの、ちょっと」
放っておくといつまでも続きそうな親子のやりとりを、クオンが遮る。
「急いだ方がいいと思うんですが」
「よし、行きましょうクオンさん! じゃあ行ってきます!」
強引に押し切ろうとするユナに、マスターは溜め息をつく。
「……もう、仕方ないなぁ。邪魔だけはしないようにね。クオンくん、申し訳ないけどユナ頼める?」
「分かりました」
やった。声には出さず、心の中でガッツポーズした。女の人が心配で云々というのは、理由の半分。もう半分はもちろん、クオンと一緒にいたいからだ。
何かが始まる、非日常の気配。ユナは浮き足立つ気持ちを抑えながら、いそいそと助手席に乗り込んだ。
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