第38話 向かい合わせの二人
ソウマの部屋は、真ん中に川島博士の部屋を挟んでその隣だった。キッカは小さく息を吐き、扉をノックした。すぐに中から反応がある。
「はい?」
「あ、私……タチバナです」
ややあって扉が開き、Tシャツ姿のソウマが顔を出した。シャワーを浴びたばかりなのか、髪が湿っている。
「おう、どうした?」
「遅い時間にごめん。これ、返そうと思って。ありがとう、すごく助かった」
「あぁ」
ソウマは頷き、コートを受け取った。
彼の顔を見た瞬間、心のどこかでほっとした自分に気付く。闇の
「……何だ? まだ何かあるのか?」
立ち去ろうとしないキッカに、ソウマは怪訝な様子だ。キッカは視線を落としたまま、小さな声で言う。
「……少し、いいかな。ちょっと訊きたいことがあって」
「……おう」
扉が引かれ、部屋の中へと進み入る。馬鹿なことをしている自覚はあった。こんな気分の時に男が絡むとロクなことにはならない、という自覚も。
ソウマは一瞬迷ってから、壁際の机にセットされた椅子を反対向きに動かし、キッカに勧めた。
「まぁ座れよ」
そして自分はベッドに腰を下ろし、キッカと向かい合わせになる。
「何だよ、訊きたいことって」
「ん……」
自分から言い出したものの、いざ問われると何を訊きたいのか、そもそも何をしに来たのかすらもよく分からなかった。両手を膝の上に揃え、使い捨てスリッパの爪先をじっと見つめる。そのまま黙っていると、ソウマが先に口を開いた。
「妹、いたんだな」
「……うん」
「お前も孤児だったのか」
「そう。十歳の時、両親がゲリラに巻き込まれて死んで……二人とも保健省勤めだったから、その関係でうちの会社の経営する養護施設にいた」
「そうか」
この話をすると、多くの人は申し訳なさそうな、キッカを憐れむような顔をする。それが嫌で、敢えてさっぱりした口調で簡潔に説明するようにしていた。
しかしソウマはまるで天気の話でもしているかのようにフラットな反応だ。
お前も孤児だったのか——ソウマは今そう口にした。今日の昼間にも、彼は気になることを言ってはいなかったか。
「……ソウマの家族は?」
「さぁな、忘れたよ」
「そう……」
再び静寂が横たわる。冷蔵庫の低い唸り声が耳につく。訊いてはいけないことだったのだろうか。空気が気まずくなってしまった。
沈黙を破ったのは、ソウマの方だった。
「クソ面白くもない話だが、聞くか?」
顔を上げると、どことなく困ったような表情の彼と目が合った。無言の時間に耐えかねたのか、それともこちらの事情を知ったせいなのか。真意は不明だが、少なくとも地雷を踏んだ訳ではなさそうだった。キッカは控え目に頷いた。
「俺はある政治家の私生児なんだよ」
挙げられた名前には聞き覚えがあった。現職の国防大臣補佐官の名だ。意外な素性に内心驚く。
「兄貴が一人いるらしい。会ったこともないがな。俺は小さい頃から母親と二人暮らしだった。『
ソウマの顔が自嘲気味に歪む。
「母親は俺が十七の時に死んだ。ある日の明け方、勤めが終わって帰る途中に、泥酔して橋から転落したと聞かされた。……大方あの男の差し金で殺されたんじゃないかと思ってるけどな」
「そう、だったんだ」
全然知らなかった。思えばこの六年間ずっと同じ環境にいたのに、こんな風にお互いのことを話したのはこれが初めてだ。深入りしないように、されないように、敢えて距離を取っていたのだ。
なんだか不思議な気分だった。ソウマと自分には、奇妙な共通点がある。政府関係者を親に持つこと。その親は死亡、もしくは関わり合いがないということ。
人体実験の被験者には孤児が選ばれていた。けれども、ただ身寄りのない者というだけなら、他にいくらでもいるはずだ。
家族の話をするソウマは、自分に血縁者がいたこと自体を恥じているような様子だった。
キッカはどうだろう。まだ家族で暮らしていた頃の記憶はもう随分と色褪せてしまっている。家族が揃っていた最後の夜、両親から何か大事なことを言われた気がする。だがそれが何だったのか、どうしても思い出せない。まるで時間が経つごとにそっと頭の中から消えていく、明け方の夢の情景のように。
「訊きたいことっていうのは、このことか?」
「いや……」
キッカは一旦口ごもったが、そろりと切り出す。
「……ソウマは、どうして被験者になったの」
「あぁ……母親が死んでから、大して多くもない保険金とバイトでどうにか食い繋いでたんだが、ある日トラブルを起こしてバイトをクビになってな。その帰り道に、知らない男から声を掛けられたんだよ。『君の力が必要だ。世の中を変えてみないか』って」
「え、何それ。まさかそれで引き受けた訳?」
「……行くだろ、男なら」
「いや、よく分からないけど」
「まぁ、俺も最初は怪しいと思ったんだが、話を聞けばナショナル・エイド社の名前が出てくるだろ? バイトはクビで金もないし、とにかく食っていかなきゃいけなかったからな。断る理由がなかったんだよ。そう言うお前は?」
「えぇと……」
キッカは動揺を隠してさっと頭の中を検索し、当たり障りのない言葉を選んだ。
「……妹が死んだ後、いろいろ相談に乗ってくれた人から、勧められて」
「へぇ。しかし、今こういう状況になってみると、かなり胡散臭い話だよな」
「まぁ……」
一瞬ぎくりとしたのを気取られないように表情を固めつつ、それとなく話題を逸らす。
「……それでソウマは、実際に任務を与えられてどう思った?」
「どうって……そういう仕事だってのは聞いてたしな。それまでのクソみたいな暮らしからしたら余程マシだったよ。それに——」
口許に不敵な笑みが浮かぶ。
「特別な力を使って任務をこなして、それが正当に評価されるってのはなかなか気分が良かった。それが俺にしかできないことだと認められたってことだからな」
曖昧に相槌を打つ。キッカにもそうした承認欲求がない訳ではなかったが、自分の行動原理はもっと別のところにあった。
「お前はどうなんだ」
再び水を向けられ、心臓がざわりと音を立てる。ゆっくり瞬きをして、うまく返事ができずに視線を落とした。何を、どう説明したらいいのか。
「『川島博士のためだと思って頑張ってた』?」
弾かれたように顔を上げた。ソウマは脚を組み、斜に構えてキッカを眺めている。
「図星か。大方その辺りのことでうじうじ悩んでたんだろ」
その声は揶揄するような色を伴っていた。思わずむっとして眉根を寄せる。
「……悪い?」
「いいも悪いも……ついでだから言うが、本当はお前、あんな仕事したくないと思ってただろ」
氷のように冷え切った心に、きりりと痛みが走る。
「そりゃあ当然だ。とても人に誇れるような仕事じゃないもんな。お前はそれを、川島博士のためだと思い込むことで、自分を誤魔化してたんだよ」
「……違う」
「違わねぇだろ。そうじゃなきゃ人を殺したり、男を
ぴしり。心に入った亀裂が、一段と大きく深くなる。
「お前のそういうところ、見てるとイライラするよ。そんなんだからモリノさんに
語調を強めたソウマの言葉が、胸の奥を深く抉る。
分かっている。そんなこと、自分でとっくに分かっている。
「平気なふりして、聞き分けのいいふりして、何でもかんでも我慢してんじゃねぇよ。今にも泣き出しそうな顔しやがって」
——もう、やめて。
「代わりに言ってやるよ。『川島博士のため』なんかじゃない。『川島博士のせい』でこんなことになってるんだ」
「……うるさい」
低い声で、唸るようにそう言った。全身を巡る血がざわざわと騒いでいる。凍ってひび割れた心の底で、何かが燻り始めていた。
「あんたに私の何が分かるの? 私はあの時まだ子供で、他に選ぶ道なんてなかった。気付いたらこっちの道に引き摺り込まれてたんだ」
頬が、目の奥が、かぁっと熱くなってくる。一旦零れ落ちた言葉は、止まることなく滑り出る。
「自分を誤魔化して何が悪い。そうじゃなきゃ、とても正気なんか保ってられなかった。他にどうすれば良かったって言うの?」
「俺が知るかよ」
ソウマが吐き捨てるようにそう言った。二人の視線が膠着する。心臓が暴れ、頭の中は沸騰寸前だった。
注がれた視線に、嗜虐的な色が混ざる。
「じゃあ、こういうのはどうだ」
ソウマはゆっくり立ち上がった。こちらに歩み寄り、とん、と左手を椅子の背もたれに置く。身を屈めて顔を寄せ、膝をキッカの両脚の間に割り込ませる。右手を肘掛けに添えると、まるで覆い被さるような格好になった。
「今から俺と寝てみるか。俺がその最悪な気分を誤魔化してやるよ」
甘く掠れた囁き声が耳朶を撫でる。互いの鼻先が、唇が、今にも触れてしまいそうな距離。濡れ髪の香りに混じる、男の肌の匂い。熱を纏った挑発的な眼差しが、キッカの揺らいだ瞳を捉えている。
ぞくり、と身体の芯が疼く。今この男に抱かれたら、その時だけは葛藤や息苦しさを忘れることができるだろう。この腕に縋って身を委ね、快楽に逃げ込むことは実に甘美で簡単だ。だけど——
一拍一拍を刻む鼓動が、きりきり痛む心の内側へ、強く何かを訴えていた。それに呼応するように、胸の奥底から熱いものが溢れ出してくる。その正体も分からぬまま、眼前に迫る男を睨み付け、口を開いた。
「……馬鹿に、しないで」
絞り出した声は、情けないほど震えていた。
ソウマは瞬き一つせず、低い声で呟く。
「上等だ」
身体を離し、キッカを真っ直ぐに見下ろす。
「俺は同情しないからな、
心臓が、一際大きく脈を打つ。ソウマの瞳にはいつもの皮肉めいた色も、こちらを煽り立てるような色もない。ただ、迷いのない強い光だけが灯っていた。
「さぁ、もう自分の部屋に帰れ。不用意に男の部屋なんか来るな。ほら」
そう言って、手を差し伸べる。キッカはそれを無視し、毅然として立ち上がった。
「自分で立てる」
ソウマが鼻を鳴らす。
「そうかよ。次は問答無用で押し倒すからな」
普段の調子に戻ったソウマを睨み据えたまま、キッカは部屋を後にした。
大股で廊下を進み、自分の部屋へと戻る。後ろ手に扉を閉めるなり、その場にへたり込んだ。
言いようもない激しい感情が、こんこんと腹の底から湧き上がってくる。詰めていた息を吐き出すと、ぎりぎりまで堪えていた涙がついに零れ落ちた。
膝を抱き寄せ、顔を埋める。抑えても抑え切れない嗚咽が漏れ、しゃくり上げながら泣いた。
胸の内を見透かされた気恥ずかしさと。あんなやり方で揺さぶられた悔しさと。頭の中がぐちゃぐちゃに掻き乱されて、何も考えることができなかった。
——俺は同情しないからな、橘 菊花。
ソウマの言葉が、心の最奥に突き刺さっている。そこに姿を現した何かが、強く、確かに脈動していた。
そうだ。誰かの手になど縋らなくとも、本当は一人で立ち上がれるはずなのだ。暗闇の中を迷いながらでも、進むべき道を探しながら歩いていけるはずなのだ。
腕が、脚が熱い。身体じゅうを駆け巡る血潮が、橘 菊花というただ一人の自分の存在を肯定している。
時間はゆっくりと流れていく。いつの間にか外では、音もなく雨が降り始めていた。
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