ch.7 決着の時

第39話 その傷を受け容れる

 夢を見ていた。両親と、幼い妹と一緒に暮らしていた、十歳の頃の夢だ。

 夢の中で、キッカは自室のベッドに横になっていた。しかしなかなか寝付くことができず、そっと部屋を抜け出した。

 あぁ、これは、最後・・の夜だ。直感的にそう気付く。

 水を飲もうと階下へ向かう。居間から、両親の話し声が聞こえる。扉の隙間から漏れ出した光の向こうに、テーブルに向かい合わせで座る夫婦の姿が見える。互いに険しい表情だ。このところ二人は、夜な夜な何かを話し合っていた。

 子供心に感じた不穏なものを胸の内に隠して、そっと扉から離れる。その時にパジャマの袖がノブに引っ掛かり、かたんと音が鳴ってしまった。

 驚いた二人がこちらを向く。キッカの姿を認めると、その表情はすぐにいつもの優しい笑みに変わった。

——キッカ、まだ起きてたのね。

 母の柔らかな声にも、キッカはばつの悪い顔で、探るように言った。

——……喧嘩、してるの?

 両親は顔を見合わせ、揃って噴き出した。

——いいや、違うよ。ちょっと仕事の話をしてたんだ。

 穏やかに笑う父と、頷く母。ほっとすると同時に、自分の勘違いに恥ずかしくなり、小さく俯いた。

 母の手が頭に置かれる。

——ねぇキッカ。いつもアヤメを見ててくれてありがとうね。

——ううん、それくらい何でもないよ。

——おかげですごく助かるよ。この先もし何かあっても、アヤメのことをよろしく頼むよ。

 父にそう言われて、キッカは首を傾げる。

——それはもちろん、そのつもりだけど。

 うんと幼い頃のように母が瞳を覗き込んできて、少し居辛くなる。もう、そんな子供じゃないのに。

——キッカはいつも我慢しちゃうから。たまには周りに甘えなさいね。

 なぜ今、そんなことを言うの? まるでお別れするみたい。だけどその疑問は口には出さず、ただこくりと首を縦に振る。

 微笑む二人の顔が白く滲んでいく。そこで夢の中の遠い記憶は途切れた。


 翌朝、キッカは思いの外すっきりと目を覚ました。温かいような、どこか切ないような夢の余韻は、胸の奥に小さなざわめきだけを残してすぐに消え去った。

 顔を洗い、身支度に掛かる。目尻を軽く跳ね上げたアイラインに、鮮やかな色の口紅。自分を偽るための化粧ではない。この顔が一番、凜と背筋を伸ばしていられる気がするのだ。

 髪はいつも通り高い位置で一括りに結い留める。こうしておけば身動きの邪魔にならないし、長い髪がさらさら揺れるのが好きだった。

 ホテルのラウンジで手早く朝食を済ませ、外へと出た。

 昨夜の雨は明け方に上がり、地面は乾き始めていた。冷たい空気と湿ったアスファルトの匂いに、理由もなく寂しい気持ちになる。

揚村アゲムラ珈琲店』へと向かう道すがら、自動販売機で缶コーヒーを買った。それをちびちび飲みつつ、ゆっくりと足を運ぶ。

 こんな風に何かを口にしながら歩くなんて、キッカには珍しいことだった。この、どことなく物哀しくて、なおかつそわそわと逸るような気持ちを、一人でいるうちに噛み締めておきたい気分だったのだ。

 これから、妹の死んだ場所に行く。そこに何があるのか、平静を保っていられるのか、自分にも分からなかった。


 キッカは約束の九時よりも少し早く『揚村珈琲店』に到着した。

 店には既にクオンと川島博士が来ていた。二人ともやや緊張したような面持ちだ。カウンターの奥にはマスターがいる。

 挨拶の言葉を交わしていると、ほぼ時間通りにソウマがやってきた。キッカは表情を変えず、何事もなかったかのように声を掛ける。

「おはよ」

「あぁ……」

 ソウマはどこか気まずそうに目を逸らした。

「よし、揃ったな」

 すぐにでも出発しそうな勢いのクオンを、マスターが引き留める。

「ちょっと待って。念のために何か護身用のものを持ってった方がいいんじゃないかと思って用意したんだけど」

 と、カウンターの上に様々なものを置いていく。コンバットナイフ、伸縮式警棒、スタンガン、閃光手榴弾、自動拳銃、アサルトライフル、そしてキッカが使っていたグレネードランチャー。

「……え?」

 ソウマがフリーズしている。その気持ちはよく分かる。

「やっぱり、若い人はもっと派手な感じのやつがたくさんあった方がいいよねぇ。でも、小回り効くやつの方が使い勝手がいいのかな?」

「いや……えぇ?」

 ソウマが問い掛けるようにクオンを見た。彼は薄っすらと笑みを返している。

「マスター、ありがとうございます。念のために借りていきます」

 クオンの言葉に、マスターは満足そうに頷いた。


 一行がトヨハシ自治区に着いたのは、午前十時半頃だった。大通りに車を停め、外へ出る。それぞれ、マスターから借りた武器を装備していた。

 昼間だというのに、辺りは水を打ったような静けさだ。港湾部が近いためか、目に入る建造物は工場や物流センターが大半を占めている。内戦の影響と経年劣化により壁が崩れ落ち、屋根も錆びて朽ち果てているものが多い。どんよりした曇天と時おり吹く冷たい風が、一層の物寂しさを引き立てていた。

 川島博士が独り言のように呟く。

「あの頃も酷かったが、ますます寂れたな、ここは」

「この辺りではもう人は見掛けませんね。街の中心部だった地区はあの後ほとんど復興もされず、崩れた家なんかは犯罪者の溜まり場みたいになってます」

「こんな場所に、病院が……?」

 キッカが訝しげに尋ねた。クオンがそれに答える。

「ちょっと分かりづらい場所にあるんだ。人の出入りがあっても目立たないように」

「病院と言っても、研究施設をちょっと改装したようなもんだったがね」

 川島博士が後を継いで言った。遠くを見つめるその横顔からは、何の感情も読み取れなかった。

 車を停めた場所から細い路地に入って数区画歩いたところで、先頭を行くクオンが立ち止まる。

「ここだよ」

 病院と言われなければ分からない、学校の校舎のようにも見える佇まい。その三階建ての壁はひび割れて灰色にくすんでおり、建物を囲う塀はところどころ文字とも絵ともつかない落書きで汚されていた。固く閉ざされた鉄格子の門には大振りの南京錠が掛かっている。

「戸締りをしっかりしとかないと、浮浪者の溜まり場になるからな」

 クオンがぽつりと言った。

 川島博士が息を呑む。恐らく、この建物の雰囲気は彼らのいた頃からすっかり様変わりしているのだろう。

 ひゅるり、と冷たい風が抜けていく。八年前、ここで一人の少女が死に、酷い虐殺があったのだ。錆びた鉄格子の向こうから何か禍々しいものが漂ってくるような気がした。誰一人言葉もなく、一行はしばらくその場に留まっていた。

 それまで黙っていたソウマが、痺れを切らしたように口を開く。

「入らないんですか?」

 その一言で、止まっていた時間が動き出す。

「あぁ……そうだな」

 川島博士がゆっくりと足を踏み出した。一瞬遅れたクオンが博士を追い越し、門と扉の鍵を開けた。


 建物の中は、埃と黴の混ざった臭いがした。長年誰も住んでおらず、水周りが停滞しているせいだろう。玄関ロビーに入って右手にあるエレベーターは扉が錆び付いていた。

 すぐにソウマが足を止めた。

「俺、入り口を見張ってます」

「ソウマくん、ありがとう。助かるよ」

 一行はソウマを残し、クオンを先頭にして、玄関から向かって右へと進んでいく。三人の足音が長い廊下に響き渡り、虚ろにこだましていた。

「片付いてるな」

「目覚めた後しばらくしてから、ハルカの様子を見に何度もここへ来ました。その時に、少しずつ。亡くなっていた人たちは裏庭に埋めました。もっとマシな墓でも作ってやれたら良かったんですが」

 二人の会話を聞きながら、キッカは辺りを見回した。廊下には埃が積もっていたが、話に聞いていたような虐殺の痕は何もない。それよりも、かつてここで生活していた人たちが付けたと思われる傷や汚れがあちこちに残っていた。外観から感じた禍々しさはとうに消え失せ、善良な人々の営みの足跡にただ胸が痛んだ。

「ありがとう、ケイイチくん。本当はここへ来るのがとても怖かったんだ。君には辛いことをさせてしまった」

「……ここは僕にとって、家みたいなものですから」

 クオンの声には深い慈しみの響きがあった。

 やがて東の端に行き着くと、クオンはキッカを振り返った。

「この部屋で、アヤメちゃんは亡くなったんだ」

 端の部屋のドアには『105』と書かれたプレートが貼り付いていた。鼓動が足を速める。キッカは少し躊躇ためらってから、ドアノブを回して中に入った。

 そこは、パイプベッドと物入れの棚があるだけの何の変哲もない病室だった。シーツの上を一面の埃が覆っている。ここに横たわる妹の姿を、うまく想像することができなかった。

 ぼんやりとベッドを見下ろすキッカの背中に、川島博士の声が掛かる。

「アヤメさんのことは私の力不足だった。タチバナくんには……本当にお詫びのしようもない」

「いえ……何だか実感がなくて」

 キッカは平坦な声でそう言った。

「アヤメちゃんとは大して話もできなかったけど、綺麗な子だったな。タチバナさんに似てたと思う」

 そっと言い添えるクオンに、キッカは俯いたまま口の端だけを僅かに上げた。

 今まで目を逸らし続けてきた過去に正面から向き合おうと、覚悟を決めてここへ来たのに。

 張り詰めて身構えていた心がしぼむのと同時に、どこかほっとしていることを自覚して、自己嫌悪に陥る。

 この期に及んで、まだ逃げようとしているなんて。

 その気持ちを振り払いたくて、キッカは何の痕跡もない空のベッドをじっと見つめた。妹がいたはずの、その空間を。

 ふと、枕の下から、白く細い紐の結び目のようなものが覗いていることに気付く。手を伸ばし、それを摘まみ上げてみる。

 心臓が、どくんと脈を打った。

 見覚えのある、古ぼけた御守りだった。

「これ……」

 間違いない。アヤメが施設を出る前日に、二人で神社に出掛けて買ったものだ。

 その瞬間、とある情景が鮮やかに蘇る。


 陽射しの穏やかな午後だった。

 すぐ隣では、肩の高さで切り揃えたアヤメの髪がさらさら揺れていた。キッカによく似た、艶やかで癖のない真っ直ぐの黒髪だ。

 きつい坂道を、二人で息を切らせて昇った。鬱蒼と生い茂る木々の間から伸びた神社の長い階段を、アヤメが先に駆けていく。

「お姉ちゃん、早く!」

 キッカを呼ぶ、高く明るい声。上の段に立つアヤメが差し出した左手を握る。小さくて温かな掌の感触。意外にも強い力で引っ張られる。

 賽銭箱にありったけの小銭を入れてガラガラと鈴を鳴らし、長い時間を掛けて手術の成功を祈る。その後、これまた長い時間を掛けて御守りを選んだ。アヤメはそれを大事にポケットへ仕舞った。

「ね、お姉ちゃん。戻ってきたら、またどこか遊びに連れてってね」

 そんな約束を交わした。あどけない笑顔が、陽の光を浴びてきらきらと輝いていた。

——それが記憶の中にある、大切な妹の最後の笑顔だった。


 手の中の御守りを、ぎゅっと握り締める。

 アヤメは確かにここにいた。ここで最期を迎えたのだ。

 クオンが口を開く。

「思い出した。それ、手術の前にアヤメちゃんが大事そうにずっと握ってたんだ」

 キッカは小さく嘆息を漏らす。

 きっとアヤメは不安だったのだ。不安で、堪らなかったのだ。あの日、あの子はずっとはしゃいでいたから。わざと明るく振舞って、平気なふりをしていた。いつもそうだった——姉に心配を掛けまいとして。

 幼い妹を守らなくてはと、ずっと前を見続けていたつもりだった。だけど突き当たった壁に負けて、肝腎な、一番不安な時に、傍にいてやることができなかった。

 浅い呼吸を繰り返す。指先が震えていた。

 アヤメは、自分を恨んでいないだろうか。

 アヤメは、幸せだっただろうか。

 アヤメは——……

「あの時、手術が終わったら家の人に来てもらおうと、俺はあの子に声を掛けた。そしたら——」

 クオンの穏やかな声が、そっと耳朶を撫でていく。

「アヤメちゃん、少しだけ笑ったんだ」

 心臓がまた、どくんと大きく脈を打った。

 眠りに就くその瞬間まで、アヤメが願っていたのは何だっただろうか。想っていたのは、誰のことだっただろうか。

 思い返すと苦しくて、胸が引き千切れてしまいそうだった。だから心の奥底に仕舞い込んで、努めて忘れようとした。アヤメと最後に交わした、何気ないやり取りのことを。

——戻ってきたら、またどこか遊びに連れてってね。

 なぜなら、そんな何でもないような約束ですら、もう二度と果たすことができないのだから。

——お姉ちゃん!

 声が、聞こえた気がした。笑みを含んだ、高く明るい声。立ち尽くすキッカを追い越して、先へ先へと駆けていく小柄な影の幻を見た。

 涙が、音もなく頬を伝っていった。

 胸を穿ち続けた痛みが、すうっと遠のく。まるで心にぽっかりと穴が空いたようだ。

 無力だった自分への憤りや、アヤメを手術した川島博士への割り切れぬ想いは、跡形もなく消え去っていた。

 後に残されたのは、たった一人の妹をうしなったという、純粋な哀しみだけだった。

 肩に手が置かれた。クオンだった。

 キッカは指先でそっと涙を拭って、クオンと川島博士に向き直る。

「妹が、お世話になりました」

 そう言って、深く深く頭を下げた。

「タチバナくん……」

 瞼を閉じる。暗闇の中に、アヤメの笑顔が浮かぶ。きっとこれからずっと、この愛しい欠落を抱えて生きていくのだ。

——お姉ちゃん、早く!

 アヤメに、手を引かれた気がした。進むべき道が、しっかり立った二本の足の下から真っ直ぐに伸びている。

 静かに息を吐き、目を開けて顔を上げる。そこにあるのは既に、いつもと変わらぬクールな表情だった。

「さぁ、行きましょう。ハルカさんのところへ」

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