ch.5 名前のない関係

第26話 それは人の形をした

 キッカに向けられた銃口から、今にも銃弾が発射されようかというまさにその時。

 どこからともなく、低く唸るような音が聞こえてきた。連続する細かな破裂音——ヘリコプターの音だ。

 ソウマは僅かに視線をずらす。キッカは相変わらず床に座り込んだままだ。

 ヘリコプターはかなりの速度でこちらに接近しているようだ。音はどんどん大きさを増し、然程もしないうちに凄まじい爆音へと膨れ上がった。建物が共鳴して震え、窓ガラスが激しく振動している。その衝撃が、身体と脳を直接的に揺さぶっていた。

 呆然としていたキッカも顔を上げ、耳を塞いで辺りを見回し始めた。ソウマが何かを叫んだが、聞き取ることはできなかった。

 不意に、がしゃん、とガラスの割れる音が耳に入った気がした。それとほぼ同時に、腕を強く引っ張られる。気付けばソウマに手繰り寄せられ、キッカは半ば吊り上げられるような格好で支えられて立っていた。

 今の今まで自分がいた場所を振り返る。床に散らばったガラス片の中に、大柄な人影がうずくまっていた。

 まさか、また襲撃なのか。

 そう認識した次の瞬間、今度は廊下側の窓が破られ、何者かが教室に転がり込んできた。

 ヘリコプターが離れていく。騒音は徐々に小さくなり、振動が収まる。月光が照らす夜の闇を、舞い散る粉塵が汚している。

 硬直する二人を挟み撃ちした侵入者たちがゆっくりと身を起こし、その全体像が明らかになる。

 そこにいたのは、人の形をした醜い怪物だった。

 全身どす黒い赤紫色をしており、皮膚の表面は岩のような鱗で覆われている。肩の部分は大きく隆起し、まるで瘤のようだ。開いたままの口からは涎が垂れ、不気味な呻き声が漏れ出ていた。辺りには生物の死骸が腐敗したような耐え難い悪臭が漂っている。目許を覆った帝国軍の暗視ゴーグルだけが、不自然に人間らしい。

 窓際の一体に対して、ソウマが躊躇ためらうことなく発砲する。銃弾は相手の額に命中したが、かすり傷すら付けることなく弾かれてしまう。見た目通りの硬度である。軽い舌打ちを一つ。

 攻撃を受けてソウマを敵と見なしたのか、怪物が殴りかかってきた。ソウマはキッカを突き飛ばしつつそれを避ける。その勢いでキッカはたたらを踏んで蹌踉よろめいた。

「ぼさっとするなタチバナ!」

 ソウマから檄が飛び、キッカは思わずむっとして彼を睨み付けた。つい先ほどまで自分を殺そうとしていたくせに。しかしその苛立ちのおかげで、正気が戻ってきた。

 二体の怪物がソウマに向かっていく。ソウマは突撃してきた最初の一体をかわし、続くもう一体の繰り出す打撃も難なく避けた。試しに二体目に向けてもう一度引き金を引いたが、結果は同じだった。

 銃弾にも怯むことのない怪物は、銃撃のモーションの間に再びソウマに詰め寄る。教室の隅に追いやられる形となったソウマだが、床を蹴って高く跳躍し、怪物の頭を軽々と飛び越えて逃れた。

 勢い余った怪物の拳が、教室の壁を抉る。大して強度のない材質とはいえ、それは粉々に砕け散った。

 その打撃の破壊力に一瞬気を取られたソウマに、もう一体が襲い掛かる。キッカは咄嗟に、見張りに使っていた窓際の椅子を掴んで投げ付けた。回転しながら飛ぶ椅子が、怪物の頭部を直撃する。もちろんダメージを与えることはできなかったが、注意を引き付けることには成功した。

 その怪物が、今度はキッカに向かってくる。こいつらには明らかに理性がなく、攻撃を加えてきた相手を敵と認識するらしい。しかし銃弾を無効化する皮膚や異常なパワーは、国道一号線で襲ってきた男と類似していた。

 あの男は、舌は普通の人間と同じだった。こいつらはどうだろう。幸い口は開きっ放しだ。

 キッカは身をひるがえしながら怪物の突進を避ける。相手はそのまま教室後方に寄せられた机の林に突っ込んでいった。

 敵が崩れた机や椅子にまみれている間に、愛銃の在り処を確認する。しかしそれは運悪く、もがく相手のすぐ傍、それも折り重なった机の下に転がっていた。今あれを取ろうとするのは自殺行為だ。

 ソウマの方へ目を向ける。彼は怪物の打撃を躱して懐に潜り込み、腕を取って背負い投げを決めたところだった。

「ソウマ! 口だ!」

 その言葉の意図を一瞬のうちに理解したソウマは、一旦ホルスターに戻していた拳銃を素早く抜き、床に倒れた怪物を狙った。立て続けに三発の銃声が響く。しかしすぐさま相手が身を捩ったため、いずれの銃弾も口を逸れてしまう。

 キッカは床を蹴った。窓の下に横たわるショルダーホルスターを拾いつつ、ソウマの相手へと詰め寄る。身を起こそうとしていた敵の首にサスペンダー部分を巻き付け、それを自分の肩で背負うように全体重を掛けて引き付ける。不安定な体勢にあった巨軀はたちまちバランスを崩し、仰向けに倒れた。

 大きく開いた口にソウマが銃を突っ込み、再び三発の銃弾を撃ち込む。怪物は鋭い叫び声を上げ、ヘドロのような体液を吐き出して動きを止めた。しかし次の瞬間には、痛みに悶えるように床を転げ回り始める。

「死なねぇのかよ!」

 ソウマが吐き捨てるように言った。二人は倒れてのたうつ一体から距離を取り、机の山から起き上がったもう一体と対峙した。

 ソウマが廊下側の入り口にちらりと視線をやる。

「どうする? 隙を見て脱出するか」

「いや、殺す」

 キッカは短く答えた。殺さなければ、きっとこの怪物はどこまでも追ってくるだろう。街を逃げ回るような体力などもう残ってはいない。

「何か手はあるのか」

 キッカが窓のすぐ下を視線で示す。

「あそこにグレネードランチャーが」

「室内でか」

「発射と同時に脱出したい」

 ソウマが腰の辺りに手をやる。

「……ロープならある」

 二人が視線を交わしたのは、ほんの一瞬だった。向かってくる怪物を避け、揃って窓へと駆け寄る。

 キッカがグレネードランチャーを拾い上げる間に、ソウマは窓を開け放った。

「三秒待て」

「了解」

 キッカの返事を聞くか聞かぬかのうちに、ソウマはワイヤーロープのフックを桟に掛け、校舎の壁を一気に降りていった。

 キッカも窓枠に登り、部屋の中に向けてグレネードランチャーを構えた。

 怪物が、迫ってくる。鱗のような皮膚に覆われた手が、キッカの脚を捕らえようと伸びてくる。

——三秒だ。

 キッカは後ろ向きに窓の縁を蹴った。怪物の手が空を掴む。窓から離れると同時に引き金を引く。

 発射の反動が、空中に放り出されたキッカの身体に勢いを乗せる。一瞬遅れて轟音と熱波が襲いくる。飛び散った建物の破片が顔のすぐ横を掠め、キッカは身を縮ませた。空中にいるうちにどうにか体勢を整えたかったが、予想以上のスピードとも相まって、コントロール不能のまま落下していく。瞬きの隙もなく、地面が迫っていた。

 先行して降りていたソウマが疾走する。キッカの進行方向に沿いながら接近し、踏み切って宙へと跳躍しつつ両腕を伸ばす。

 互いの身体がぶつかったが、ソウマは空中でしっかりとキッカを抱き止めた。そのままキッカの背中側から着地する。二人は勢い余って二度三度と校庭を転がった。

 衝撃が去り、キッカは目を開けた。ソウマの腕が腰に回され、反対の手で首と頭を支えられていた。そのおかげで着地による痛みはない。

「痛ってぇ……」

 代わりにソウマが呻いた。キッカは慌てて身を起こす。

「お前な……せめて銃は放れよ」

「あ、ごめん……」

 どうやら二人の身体の間に挟まれたグレネードランチャーに胸部を圧迫されたらしい。グリップがソウマの方に向いていたのだ。

 爆破した四階の教室からはもうもうと煙が上がり、コンクリートの破片がぱらぱら崩れ落ちている。中の様子は下からでは分からないが、怪物が落ちてこないところを見るとグレネード弾で死んだようだ。

 激しい爆発音が、残響となって耳の奥に残っている。二人はそのまましばらくの間、呆然と校舎を見上げていた。

 やがて、おもむろに身を起こしたソウマが、コートの内ポケットから携帯端末を取り出した。そして液晶画面を何度かつついた後、軽く舌打ちして端末を放り捨て、再びどさりと横たわった。

「くそ、携帯死んだ」

 地面に投げ出された端末は画面が大きく割れ、もはや電源すら入らない状態だった。グレネードランチャーの突起に押されて破損してしまったのだろう。

 爆発の余韻が去り、虫の音が耳に流れ込んでくる。濃密な夜の闇が辺りに垂れ込め、曇りなき月の光が地上へと降り注いでいた。よく目を凝らせば、数多くの星がちかちかと瞬いている。

 三たび開いた左肩の傷口から血が伝って、レインコートの袖を濡らしていた。しかし傷の痛みよりも、むしろ疲労の方が身体に重く伸し掛かっている。

「畜生、何なんだよ、さっきの奴らは……」

 ソウマが独り言のように呟いた。キッカは心の中で同意する。

 あの怪物は、一体何だったのか。その前に襲ってきた男も正体不明だったが、今回の奴らは度を越している。あいつらを運んできたのは恐らく軍用ヘリだろう。

 これもモリノが手引きしたことなのだろうか。未だに信じられなかった。しかもソウマがやってきた直後であるにも関わらず、更なる刺客が送り込まれたことが引っ掛かる。

 それにしても、ソウマはキッカを殺すことをどこか躊躇っていたように感じた。キッカに対しては銃殺命令が出されていたのではなかったか。それなのにソウマは「データの在り処を言わなければ殺す」と言っていた。よもやメモリーチップさえ出せば殺さないでおくつもりだったのだろうか。それはつまり、命令違反ではないか。

 怪物が教室に飛び込んでくる瞬間、ソウマは咄嗟にキッカを引き寄せた。そうでなければ、あの時に死んでいたかも知れない。

 募っていく沈黙の中、静かに口を開く。

「……なぜ、私を助けたの」

 それもまた、独り言のようだった。隣で大の字に横たわったソウマが憮然とした表情になる。

「うるせぇな……お前を殺すのは、この俺だ」

 りーん、と虫の声が横切っていく。

 苛立ちが、俄かに湧き立った。キッカは形の良い眉を気付かれない程度にひそめ、小さく溜め息をつく。

 やはり、この男はいけ好かない。

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