第25話 赤い色の兵器と、渦を巻く疑念

 クオンとミズコシは、食い入るようにモニターを見つめていた。

 そこに映っているのは実験室らしき部屋だ。中央には手術台があり、がっしりした体格の男が寝かされている。上半身は裸で、手足には枷がめられ、大の字に拘束されていた。意識がないのか、微動だにしない。

 台の周りには白衣姿の人物が三名おり、そのうちの一人が大振りの注射器を持って横たわる男の傍らに立った。

「川島先生……?」

 映像が荒く分かりづらいが、それは確かに川島医師だった。クオンは目を凝らして、その姿を注視した。記憶にあるよりも頭髪の白の割合が増えている。

 川島医師が手にした注射器の中の液体は、禍々しいほどの赤い色をしていた。

 ミズコシが隣で眉根を寄せる。

「なぁ、これってまるで……」

 川島医師は男の腕に注射針を刺した。赤い液体が見る間に減っていく。注射が終わると、三人はしばらく様子を見守っていた。

 それから約十秒後。男は苦悶の表情を浮かべ、激しく暴れ始めた。声にならない叫びがスピーカーから漏れてくる。

「——まるで、人体実験じゃねぇか」

 私は患者さんを実験対象と思ったことは一度もありません。初めて顔を合わせたあの日、彼は確かにそう言ったはずだ。

「嘘だろ……」

 クオンは震える声で呟いた。正体不明のざわざわとした闇が、心の中に入り込んで不安を掻き立てる。しかしその後の展開は、もっと信じ難いものだった。

 男の身体が、突如として変異し始めたのだ。

 注射を打たれた腕の血管が紫色に変わったかと思うと、そこを中心にぼこりと膨れ上がった。変色は瞬く間に皮膚全体へと拡がっていく。

 まるで血液が沸騰でもしているかの如く、血管が激しくうねり出す。張り詰めた血管は全身に絡み付く紫色の網のようでもあり、その膨らみが限界に達してとうとう破裂した。

 身体のあちこちから、血液が皮膚を突き破って外へと飛び出す。その度に男が顔を大きく歪めて咆哮を上げた。

 それはあまりにも異様な光景で、どこか現実味を欠いていた。ミズコシが唸るように言う。

「……B級のSF映画かよ」

 モニターの中の男の身体は、今やどす黒く変色した血液で覆われていた。それは既に液体ではなく、皮膚の表面で固まって岩のような質感となっている。鱗のようだ、とクオンは思った。

 男の容姿はもはや人間とは呼べないほど醜いものに変貌していた。『彼』は動きを止め、静かに横たわっている。息絶えてしまったのだろうか。

 だがしばらくすると、凝固した血液の鱗に覆われた腕がびくりと動いた。その瞬間『彼』は活動を再開し、まずは四肢を縫い留める枷をいとも簡単に引き千切った。

 拘束が解けて手足の自由を取り戻した『彼』は、一番手近にいた助手らしき人物の顔を掴んだ。その人物が抵抗するいとまもなく、頭部がぐちゃりと握り潰される。手足がだらりと垂れ、飛び散った鮮血が白衣を赤く染めた。

「もうやめてくれ……」

 クオンは頭を抱え首を振ったが、映像はまだ続いている。

 怪物へと変貌を遂げた『彼』によって助手が殺される間に、川島医師ともう一人の助手は画面から姿を消していた。

『彼』はその後も手術台の周辺で暴れ続けた。横にあった器具入れを軽々と投げ飛ばし、何かの装置を中心から真っ二つにへし折る。自身が横たえられていた台を叩き壊し、その真上にあった無影灯も払い落とした。『彼』に踏み潰された助手の遺体はズタズタだった。

 やがて天井付近からガスが噴射され、部屋全体が白い霧に覆われる。すると途端に『彼』は苦しみ悶え始めた。どうやら毒ガスであるらしい。

『彼』は瓦礫の山と化した実験室の中でのたうち回り、口からヘドロのような体液を吐き出す。そのうちに動きも弱くなっていき——

 映像は、そこで唐突に終わっていた。

「何だよ……何だよこれ……川島先生……!」

 クオンは頭を抱えた。再び静寂を取り戻した部屋に、ハードディスクの作動音が重く響く。

 あの注射器に入っていた、真っ赤な液体。あれを開発したのは、本当に川島医師なのだろうか。

 このままだと必ず恐ろしいことが起こる。そう言っていたらしい、川島医師。例え何らかの脅迫を受けていたとしても、あのようなものを作り出したなんて。

——『人間兵器』。

 一度は振り切ったはずのその言葉が、再び頭の中でぐるぐると廻り始めていた。

「……おい、何だこれ」

 ミズコシの声で、クオンははっと顔を上げた。

 モニターからは動画の再生画面が消え、中央部分に一つのウィンドウが表示されている。

 そこには『データを消去しています』の文字。作業の進捗を示すプログレスバーが、じりじりとパーセンテージを伸ばしている。

「は? 何で勝手に消そうとしてやがんだよ」

 ミズコシはマウスを操作し、アプリケーションのメニューから作業を停止させようとした。だがその進行は止まらない。

「ちょっ……と、待てよ」

 三つのキーを同時に押下する。強制終了のコマンドが出るものの、やはり反応しない。何度か試みても結果は同じだった。既に進捗は五十パーセントを超えている。

「おいおいおいおい……」

「え? え? な、何だ?」

 その尋常ではない様子に、クオンは狼狽うろたえるのみだ。

 ミズコシは画面上に真っ黒なウィンドウを表示させ、物凄いスピードで打ち込みを始めた。しかしどんなキーも受け付けられず、タスクはどんどん進む。

 バーの表示が九十パーセントとなったところで、電源ボタンに指を伸ばす。長押しする数秒の間にも、数字は増していく。だが、なぜか電源は落ちない。

「くそ、これも駄目なのかよ」

 九十八パーセントになった時、ミズコシはデスクの下に潜り込んだ。パソコンの電源プラグを掴み、引っこ抜く。

 百パーセントに達しようかというまさにその時、ようやく画面は暗転した。

 強張った表情のミズコシに、クオンは声を掛ける。

「……どうなった?」

「……今確認する」

 ミズコシは電源プラグをもう一度差し込み、パソコンを再起動する。クオンがじっと見守る中、メモリーチップのフォルダを開く。

 しかし表示されたのは、九十九パーセントのプログレスバーだった。

 それはすぐに百パーセントとなり、『データを消去しました』の文字が出現する。その瞬間、大きな叫び声が部屋じゅうにこだました。

「あーーーーもう! マジかよ!」

 クオンは恐る恐る尋ねる。

「……消えたのか?」

「あぁ、消えちまってる……畜生、なんかおかしいと思ってたのによ」

「何が起こったんだ?」

「んー……」

 ミズコシは再びパソコンを操作し始めた。画面上に、よく分からない大量の英数字が並んでいる。それをまじまじと凝視しながら、何やらぶつぶつ呟き始める。

「……何だこりゃあ……へぇぇ……おぉ、なるほど……」

「ミズコシ?」

「あぁ、そういうことか……面白ぇな……」

「おい、ミズコシ」

「ん? あぁ、悪ぃ悪ぃ」

 ミズコシははっと我に返り、クオンに向き直った。

「このチップの中に、データ消去プログラムが入れられてたんだ。それが、あの面倒臭ぇ暗号を解くことで起動するようにコマンドが設定されててな。俺らが動画見てる間に始まってたみてぇだな」

 クオンは首を捻る。

「……つまり、どういうことだ? 川島先生はこのデータを公開してほしいんじゃなかったのか?」

「センセイのメールには暗号数列のことなんか書かれてなかったよな。多分、誰かが後からいじったんだろ。そいつはセンセイが設定した八桁のパスワードが分からなかったんだろうぜ。暗号化データを削除しても、パスワードさえあれば簡単に復元できるかんな。だから完全消去するために、こんなトラップを仕込みやがったんだ」

「何でそんな面倒なことをしたんだ。メモリーチップを空のものにすり替えるとか、他にも手はあるだろ」

「それができなかったんだろうよ」

 そう言って、メモリーチップをスロットから抜く。

「この字は、センセイの手書きなんじゃねぇの?」

 銀色のインクで書かれた、やや掠れた『Aファイル』の文字。少し癖のあるそれが川島医師の筆跡かどうか、今となっては記憶に紗が掛かっている。

「だけど、こんな手の込んだ仕掛けができるなら、その犯人が自分でデータを消すことだってできたんじゃないか?」

「もちろんデータ消去用のソフトってのはあるんだがよ。考えられるとすれば、時間がなかったんじゃねぇかな。完全消去すんのにちょいと掛かんだよ。その点プログラムをメモリーチップに入れるんなら、予め作っといたコードをコピーするだけだかんな」

「あぁ、なるほど」

「あの暗号数列は、そもそも解けなきゃデータが見られねぇってのもあるがな、チップに仕込んだ消去プログラムを、そうと気付かれずに起動させるためのキーも兼ねてたんだ。要は二重三重にガードが掛かってたってこったな」

「誰が、何のために……?」

 ミズコシは脚を組み、背もたれに身を預けた。

「なぁクオン。川島センセイはプログラミング関係にはそんなに詳しくねぇんじゃねぇか? 精々、八桁パスワード掛けるくらいが関の山で」

「あぁ、多分。先生がパソコンを触ってた記憶もほとんどないくらいだ」

「そんな人間が社外秘のデータを外部に流出させようとするんなら、誰か詳しい奴に訊くはずだよな。もちろん信頼の置ける相手ってのが大前提だけどよ」

「——あ……」

 社内でこの件を知っている先輩がいる。キッカの言葉を思い出す。

「大体な、こういう複雑なプログラムを組める奴なら、わざわざデータをこんな方法で運ばせなくたって、他にいくらでもやり様があんだろうよ。それをこんなちっこいチップに入れて変な細工して、敢えて外に持ち出すように仕向けた。俺にはそんな風に思えてなんねぇんだが」

 クオンは低く唸った。ひやりとした何かが脳内に入り込んでくる。

「……彼女、言ってたんだ。『あいつら完全に私を殺しに来てた』って」

 難解な暗号を解いても結局は消去されてしまうデータなら、わざわざ奪還する必要もないはずだ。

 ならばなぜ、キッカは命を狙われていたのだろう。

 データに細工をしたのと、彼女に追っ手を掛けたのは別の手の者ということなのか。

 それとも——

「一体、何が起こってるんだ……」

「さぁな。しっかし何にせよ、これを運んできた女もとんでもねぇもん掴まされたな」

「あぁ、そうだな……」

 自分たちの計画の裏側で、別の何かが起きているのかも知れない。

 キッカが心配だった。例の先輩とやらが犯人ならば、その相手に協力を求めるのは自分から罠に掛かりに行くようなものである。

 やはり無理を押し通してでも同行すれば良かったのだ。表に出てきた後悔が、今や頭の中で嵐のように吹き荒れていた。

 ハルカを目覚めさせること。それはもちろん、クオンが長年望んできたことに他ならない。だが、そのために無関係の女性の命を危険に曝すことになるとは。自分が川島医師に連絡を取りさえしなければ、こんなことにはならなかったはずだ。

「とりあえず、ちょっと休もうや。あんまり思い詰めんなよ」

 ミズコシにぽんと肩を叩かれ、クオンはようやく息をついた。

「あぁ、悪い……」

 呆然としたまま、デスクの上のメモリーチップを見つめる。

 ミズコシはエナジーゼリーを十秒足らずで飲み干し、空になったパッケージを部屋の隅のゴミ箱に放った。しかしそれは狙いを外れ、他のゴミと同様に床の上へ転がった。

「くっそ」

 そう吐き捨てたものの、片付ける気はないらしい。眼鏡を外して、目頭を指で揉む。

「まぁ、俺もちょっと休憩したら、どうにかデータを復旧できねぇかやってみるわ。この仕掛けを見破れなかったのは俺のミスだかんな」

「あぁ、頼むよ」

 ミズコシは再びパイプベッドに移動し、乱暴に横たわった。

 クオンは携帯端末を手に取った。時刻は午前三時四十五分だ。

 今度こそ、キッカの番号に電話を掛ける。二回のコール音の後、回線が繋がった。

『お掛けになった電話番号は、電源が入っていないか、電波の届かない——』

 聞こえてきたのは、無機質なアナウンスだった。

 目の前が、真っ暗になった気がした。

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