第27話 気まずい二人

「これからどうする?」

 身を起こして立ち上がったソウマが、髪や服に付いた校庭の砂を払いながら尋ねた。

「うん……」

 キッカは軽く俯いた。この状況において、ソウマに助力を求めない手はない。しかしそのための言葉は素直に出てこなかった。

「肩、いつやられた?」

「……昨日の夕方」

「手当ては?」

「一応してもらったけど、これで傷口開くの三回目」

 恐らく、キッカの所持品をあらためた時から、左肩の傷には気付いていたのだろう。カーキ色のレインコートは今や、月明かりしかない夜の闇の中でもはっきりと分かるほど、左袖の大部分が血に染まっていた。

 大きな溜め息が耳に入る。

「……付いてこい」

 ソウマはそう言うと、返事も待たずに歩き出す。キッカはしばらく、遠ざかっていくその背中をぽかんと眺めていた。

 十数メートルほど進んだところでソウマが足を止め、振り返った。

「何やってんだ。行くぞ」

 苛立ち混じりの声。キッカはそれでようやくグレネードランチャーを杖にして腰を上げ、慌てて後を追った。


 ソウマが乗ってきた車は、キッカが潜伏していた小学校から一キロほど離れた場所に停めてあった。キッカの持っていた携帯端末のGPSを目印に来たソウマは、車のエンジン音で接近を気付かれぬよう十分な距離を取って、徒歩でアプローチしたのだ。

「後ろに乗れよ」

 ソウマに促され、キッカはそのSUVのリヤドアから後部座席へと乗り込んだ。ソウマはハッチバックを開けて救急キットを取り出し、反対側のドアから入ってきた。社有車なので、車内に手当ての道具が備え付けてあるのだ。

「ところで、『アニュスデイ』の効果はどうなんだ?」

 そう問われて、キッカはこれまでの様子を思い出す。

「血が止まったり傷が塞がったりするのは、いつもよりかなり早いと思う。さすがに、瞬時に治るというほどではないけど」

「そうか。本当にあの注射一本で効果が出るものなんだな。それも、たったあれだけの量で」

 ソウマの言う通り、約ひと月前に注射された『アニュスデイ』の液はごく少量だった。だが現に今も、既に出血は止まっている。

「でも、治っていく時に傷口が妙に熱くなる。それに少し寒気と動悸もする。あと、もしかしたら眠気もそうかも」

「風邪っぽい感じってことか? 副作用で発熱することがあるって、川島博士が言ってなかったか?」

「そう言えば。そうか、そのせいなのかな」

 事前に川島博士から聞いた『アニュスデイ』の概要の中に、副作用の話もあった。回復力を高めるため一時的に血流が激しくなり、三十八度近くまで体温が上がることがある、と。キッカの感じたものがそれに伴う物理的な作用だと考えれば、確かに腑に落ちる。

 しかし、背筋をぞくりと這っていく悪寒や胸をざわつかせる動悸は、もっと心理的な要因に関わっているもののように思えた。うまく言葉にはできないが、何か自分とは別の意思が体内で働いているような感覚があるのだ。

『アニュスデイ』——神の仔羊、と名付けられたその液体は、羊の胎児から抽出した細胞エキスを加工したものであるらしい。初めて実物を目にした時、こう思った。まるで鮮血みたいな色だ、と。

 何にせよ、怪我の回復が早かったおかげでこの連戦をどうにか凌いでこられたのだ。しかし診療所や小学校で眠り込んだせいで時間をロスしたことを考えると、メリットとデメリットは半々くらいかも知れない。

 ソウマが救急キットから消毒液を取り出した。

「とりあえず消毒するから、傷を見せろ」

「分かった」

 レインコートのファスナーをゆっくりと下げ始める。しかし胸の辺りまで来た時、ふと手を止めた。

「……ちょっと、あっち向いてて」

 ソウマが身体の向きを変えるのを確認してから、再びファスナーを下ろしに掛かる。

 中は、Tシャツも下着も引き裂かれた状態だ。キッカは血で汚れたレインコートを脱ぎ、破れた服で胸元を隠した。今になって気付いたが、あの時押さえ付けられた手首が痣になっている。流したままの長い髪は全て右側に寄せた。

「……いいよ」

 振り返ったソウマが、息を呑んだのが分かった。

 薄暗い車内灯が、露わになった首筋や鎖骨の窪みを照らしている。不自然に裂けた衣服と、手首の痣。それらに目を留めたソウマは一瞬口を開きかけたが、結局何も言わなかった。

 血に染まった包帯に鋏が入る。久々に解放された自分の左肩を見やり、キッカは軽く目を細めた。抉られた傷口は、予想通り酷く乱れていた。

 ソウマは消毒液を布にたっぷり染み込ませ、キッカの左肩に当てがった。それは身構えた以上にひやりと冷たく、アルコールが傷に滲みてぴりっとした痛みが走った。身体がびくりと強張る。思わず声が漏れそうになり、慌てて右手の甲に唇を押し付けた。

 消毒が終わると、傷口に清潔なガーゼが当てられ、その上からきっちりと新しい包帯が巻かれた。ソウマの動作には迷いがなく、手際が良い。

「終わったぞ」

 抑揚のない声が、手当ての終了を告げた。

「ありがとう」

 キッカが俯きがちに小さく礼を言うと、不意に沈黙が訪れた。

 何か、言わなければ。しかし言葉が見つからない。訊きたいことも、話さなければならないこともいろいろあるはずなのに、切り出すタイミングを完全に逃してしまった。まずは服装をどうにかせねばと思ったが、何となくほんの僅かな身動きすらも躊躇ためらわれた。

 普段は余計な口ばかり聞くソウマも、こういう時に限って静かだ。どうして黙ったままなのか。軽い苛立ちが募る。

 自分の膝をじっと見つめていると、突然何かが口許に触れた。

「ここも切れてる」

 それはソウマの指先だった。キッカは思わず相手の顔を見た。久しぶりに、互いの視線がまともにぶつかる。

 ソウマはやけに真面目な表情だった。自分に注がれる眼差しが緩く熱を纏っているように感じられて、思い掛けずどぎまぎする。

「あ……いや、これは何でもないから……大丈夫」

 どうにかもごもごとそう答え、手の甲で口の端を拭う。恐らく、あの男の舌を噛み切った時に相手の血液が付いたのだろう。

「そうか」

 ソウマは小さく呟いて、視線を逸らした。そしておもむろにモッズコートを脱ぎ、キッカの方へと放る。

「着てろ」

「え、あぁ……、ありがとう」

 ソウマの意外な行動に面食らいながらも、キッカは渡されたコートに腕を通す。まだ彼の体温が残るそれは、傷付いた身体をふんわり包み込むと同時に、どことなく落ち着かない気分にもさせた。

「お前、何があった?」

 ソウマがそっと伺うような口調でそう言った。その声にはいつもの険はなく、キッカを気遣う響きがあった。

 不意に心臓がきゅっと苦しくなり、胸の中がさざめき立つ。その波に押されるようにして、目と鼻の奥がつんと詰まった。

 そのことに、自分で驚いた。これしきのことで心を乱すなんて。

 唇を引き結び、呼吸を止める。

——泣くな。泣いたって、惨めになるだけだ。

 軽く瞼を伏せる。この妙な空気を、一刻も早く終わらせたかった。

 細く長く息を吐く。ざわざわと音を立てる鼓動を少し鎮めてから視線を上げて、ソウマに向き直る。もう、いつものクールなタチバナ 菊花キッカだ。

 キッカはそして、静かに口を開いた。

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