第36話 川島博士の独白

「私はかつてトヨハシ自治区の無認可病院で、内戦の負傷者に対して生体義肢の移植手術を行なっていた。あの頃はゲリラ攻撃や地雷の爆発で、手足を失う者が多かったんだ。自衛隊員だったケイイチくんも患者の一人だった。……昔、内戦で息子を亡くしてね。だから、一人でも多くの命を救いたかった」

 川島博士の話は、そんな風に始まった。

「今から八年前——ケイイチくんがスタッフになって、しばらく経ったある日のことだ。ナショナル・エイド社から私宛てに電話が掛かってきた。生体義肢の技術を、もっと大きなことに活かさないか、と」

 眼鏡の奥の瞳は静謐そのものだ。

「あの会社に勤めていた妻から物資を横流ししてもらっていたのがバレて、そこから知れたようだった。その件を黙殺する代わりに、技術の提供を要求された。私は断った。そもそもこの技術を帝国軍政府のために使いたくなくて、無認可でやっていた訳だからな」

 川島博士の独白を遮る者はいない。今日は店内のBGMも止められている。

「するとあの会社は、折衷案と称して新たな話を持ちかけてきた。トヨハシでの治療は続けていい、ただし新技術の研究には協力しろと。命じられたのは、あの会社が独自に開発していた特殊素材の人工筋肉や骨——それを組み込んだ義肢、つまり戦闘用生体義肢の実用化実験だった」

 心臓が、ざわりと音を立てる。キッカの正面に座ったソウマが僅かに身じろぎするのが分かった。

「もちろん、私はそれも頑として断ったよ。実用化実験とは、つまり人体実験を意味する。そんなことを承諾できるはずもない。私が梃子てこでも動かないと知った会社側は、今度は妻を拘束したと言ってきた。一日に何度も電話があり、従わなければ妻の身に危険が及ぶと脅迫された。それすらも無視し続けたある日、私の元にあるものが届いた。それは——切断された、妻の指先だった」

 誰かの、固唾を呑む音が聞こえた。

「脅しがハッタリではないことを知り、私は被験者を受け容れざるを得なくなった。送られてきたのは、右手の不自由な十歳の少女——そこにいるタチバナくんの妹さんである、タチバナ 絢芽アヤメさんだった」

 その場にいる全員の視線がキッカに向けられる。

「え?」

 クオンが驚いて腰を浮かせた。

「君が、あの子のお姉さん?」

「……私も、さっき知りました」

 キッカが無表情のまま呟くように言った。川島博士の話は続く。

「……アヤメさんは孤児だと聞かされていた。しかしそんなことには関係なく、私は普段通りに義手の移植手術を行なった。だが結果は……ケイイチくんも知っての通りだ。義肢に使われていた材質が人体に適合するものではなかったのだろう。アヤメさんの身体は義手に拒絶反応を起こし、手術から三日後に亡くなった」

 クオンが沈痛な面持ちで言い添える。

「やっぱり、そういうことだったんですね。アヤメちゃんの件がずっと引っ掛かってたんです」

 頭の中に霞が掛かる。先刻も聞いた話だったが、まだ脳が理解を拒んでいた。それは本当に、妹の身に起こったことなのだろうか。

「私はその日のうちに会社に宣告した。もうこれ以上の協力はできないと。妻の身を解放しないのであれば、自らの罪と共にこの件を世間に暴くと。するとあの会社は……強硬手段に出た」

 川島博士が、クオンをちらりと見やる。クオンはじっと言葉の続きを待っているようだった。

「その夜、武装した帝国軍兵が病院に侵入した。そしてアヤメさんの遺体を回収し、スタッフと入院患者を皆殺しにしていった。私に対する制裁の意味もあったのだろうが、それ以上に、生体義肢の技術そのものが外部に流出しないよう関係者の口を封じたんだ。私は辛うじて看護師だった自分の娘とケイイチくんをコールドスリープ装置に隠して、自分の身を差し出した。それ以降、妻を人質に取られたまま、あの会社で研究を強いられることになった」

 しばらくの間、誰も口をきかなかった。ナショナル・エイド社のやり方はあまりにも非情だ。

 その傍らで、妹の名前が出た辺りからキッカの心拍数は上がっていた。確かめるのが怖い。だけど、訊かずにはいられない。逡巡しゅんじゅんした末、口を開く。

「あの、すみません川島博士……妹は、インフルエンザ脳症で死んだと聞かされていました。妹が死んだ後、遺体が養護施設に戻ってきたのはほんの短時間でした。簡単な葬儀は行いましたが、火葬した覚えはありません。妹の——アヤメの遺体は、どうなったんですか」

 川島博士は一層硬い表情でキッカを見据えた。キッカは浅く短い呼吸を音もなく繰り返しながら、その視線の全てを受け止める。博士は低い声で、静かに言った。

「研究に、回したよ」

 一瞬、息が止まった。心臓が握り潰されたように痛む。

「……そうですか」

 今にも消え入りそうな、掠れた声でそれだけ言うのが精一杯だった。

 死してなお実験道具として扱われた妹。きちんと人間らしく埋葬することすら許されなかった。冷たい台の上に横たえられ、無惨に切り刻まれる妹の姿をつい想像してしまう。痺れた指先から、全身に震えが拡がった。視界に入る全てのものの輪郭がぼやけていく。

「すまない……」

 もう何度となく聞いた謝罪。到底受け容れられるものではない。しかし、だからと言って川島博士を責め立てることもできなかった。

 景色が揺れる。涙が零れ落ちそうになるのを、グラスの水を飲み干すことで誤魔化す。肺の中の空気を残らず吐き出し、呼吸を落ち着ける。

「いえ……どうぞ、お話を続けてください」

 キッカが促すと、川島博士は遠慮がちに話を再開する。

「……私は社内の開発チームに加わり、そこから二年かけて戦闘用生体義肢の技術を完成させた。そして六年前、その実用化プロジェクトが始動した。男女一名ずつの若者に義肢を移植し、特殊工作員として育てる計画だ。その被験者に選ばれたのが、ソウマくんとタチバナくんだった」

 ソウマがどこか自嘲めいた声で言う。

「実験段階から見ても、被験者には身寄りのない者が選ばれてたってことですね」

「あぁ、そうだな……あの会社のそういうところが、虫唾が走るほど嫌だったよ」

 川島博士もまた、自虐的な表情だった。

 キッカは、おや、と思った。ということは、ソウマもそうなのだろうか。

「モリノくんには、君たちの精神面のサポートも含めて、いろいろな相談に乗ってもらっていた。私は彼を信頼し切っていた。妻を人質に取られていることも、彼にだけは話していたぐらいだ」

 キッカにとってもモリノは、信頼できる先輩であり、良き理解者だった。あの豪快な笑顔にどれだけ救われたか分からない。モリノが自分を陥れようとしているとは、未だに信じられなかった。

「ともあれプロジェクトは軌道に乗り、その結果を受けて帝国本土でも兵士への戦闘用義肢の移植が進んでいった。だが、生体義肢は移植後のリハビリに時間が掛かる。そこで次に会社から要求されたのは、それを短縮するための技術の開発だった」

 川島博士はグラスの水を一口飲んでから続ける。

「数年に渡って研究を重ね、それは一ヶ月ほど前にようやく完成した。人間に備わっている治癒能力を活性化する細胞エキスを、注射によって体内へ組み込む方法だ。羊の胎児から抽出した細胞を基にして作り出したそれを、私はこう名付けた——『アニュスデイ』と」

 思わず視線を上げると、ソウマと目が合った。

「既に美容形成の分野で確立されていた細胞再生の治療法に改良を加えたんだ。これにより生身の身体の骨や筋肉、それから神経系統の、義肢との接続を早めることができるようになった。君たちに投与したのも同じものだ。生体義肢の継ぎ目に限らず、通常の怪我にも効果を発揮する」

 キッカは左肩に手をやった。傷の痛みはもうほとんど感じない。

「ただし、この細胞エキスは諸刃の剣だ。投与がある一定量を超えると、人体に対して非常に恐ろしい害を及ぼす。血液は完全に変質して皮膚を突き破り、身体の表面を覆って岩のような塊となる。改変された羊の細胞は脳にまで入り込み、理性をも奪う。恐らく、君たち二人を襲ったのは、細胞エキスの過剰投与によって変異した人間だ」

 川島博士は表情を歪める。

「『Agnus Dei』——神の仔羊。人間の罪に対するあがないのための生贄を意味する言葉だ。私はあれを、一般の生体義肢移植者の治療にも活かせるならばと……それが自分の犯してしまった過ちの、せめてもの償いになればという思いで開発に当たっていた。だが皮肉なことに私は……人間を恐ろしい怪物に変異させるという、新たな罪を生み出してしまったんだ」

 クオンが口を開く。

「あのメモリーチップに入っていたのは、その実験の記録映像だったんですね」

「そうだ。あれをどうにか世に暴きたかったんだが……」

 メモリーチップに書かれた『Aファイル』の文字は、『アニュスデイ・ファイル』を意味していたのだろう。

「あの、博士。ソウマと一緒に怪物に襲われる前、私一人でいる時に、おかしな男に襲撃されたんです。その男は一見普通の人間だったんですが、拳でアスファルトを貫いたり、皮膚で銃弾を弾いたりしていました。あれは何なんですか?」

 キッカの問いに、川島博士は軽く目を見開く。

「……あれも実働しているのか。あれは、『アニュスデイ』の投与を臨界点の一歩手前で留めた時にのみ起こる変化だ。人間らしい外観と理性を保ったまま、体内組織だけの変質を可能にする。言わば判断力を持った怪物だ。帝国軍は現在、そうした兵士を量産する方針へと鞍替えしつつある。だが投与量の調整が非常に難しく、まだ数人しか成功例がない。何にせよ、タチバナくんが無事で良かった」

「……運が良かったんです、いろいろと」

 キッカは目を逸らしつつそう言った。あの男に残されていた『理性』こそがあだとなった訳だが、もう思い出したくもない。

「……私は研究者として、人として許されない、人智を超えた研究を行なった。どんな理由であろうともあの会社の要求など拒むべきだったんだ。全てのわざわいは私が招いたことだ。本来ならもう生きる資格すらないと思ったが……娘が——ハルカが、コールドスリープから目覚めないと聞いて……」

 川島博士は一旦口を噤んでから、震える声で言葉を続けた。

「アヤメさんの命を奪っておきながら、自分の娘の命を助けるために、タチバナくんの救いの手を取ってしまったことは、本当に……」

「もういいんです、博士」

 キッカは平らな声で遮った。

「私はクオンさんとの約束を果たしただけですから」

 我ながら卑怯な嘘だと、キッカは思った。クオンが改まった様子で深く頭を下げる。

「タチバナさん、本当に申し訳ない。辛いことをさせてしまった」

 キッカは小さく首を振り、僅かに口角を持ち上げる。

「いえ、私なら大丈夫です。早くハルカさんを助けてあげてください」

 嘘の上から、薄布のような虚栄心を重ねる。これで良かったのだ、これで。

 しばらく無言の時が流れた。その場の誰もが、微妙な均衡を保って相関するそれぞれの事情に思いを巡らせ、沈黙を守っていた。

 しかしそれは不意に、からん、という扉の鐘の音によって破られた。

「ただいまー。お父さん、今日ってお店って……」

 入ってきたのは、制服姿のユナだった。明るい外の光が店内に射し込んでくる。

「あれ、お客さんがいっぱいいる」

 少女らしいハイトーンの声が軽やかに響く。その小柄な身体は、真昼の白い光に縁取られて見えた。

「あっ……キッカさん!」

 キッカの姿を見つけたユナが駆け寄ってくる。

「戻ってきてたんですね。おかえりなさい!」

 そう言って、ぱぁっと花の咲くような笑顔になった。

「あ、うん……ただいま」

 キッカはつられて思わず微笑んだ。

「無事だったんだ、良かったぁ。ね、クオンさん、あたしの言った通りだったでしょ?」

「あぁ、そうだな」

「クオンさんってば、キッカさんに何かあったんじゃないかって、すっごい心配してたんですよ。でも、あたしはきっと大丈夫だって思ってたの」

「……だって、約束したから」

 思ったよりも柔らかい声が出て、自分で驚いた。

 ユナは初対面のソウマと川島博士に気付き、屈託のない笑顔のまま会釈をする。ずっと硬かった二人の表情が一瞬のうちに和らいだ。ソウマがぼそりと呟く。

「……似てない親子だな」

 マスターがカウンターの向こうから呼び掛ける。

「ユナおかえりー。テストはどうだった?」

「もう、いちいち訊かなくていいの!」

「ユナちゃん、勉強なら俺が教えてやるぜ」

 ニヤニヤするミズコシに、ユナが眉根を寄せる。

「えーミズコシさん、その言い方やらしいからなんか嫌ー」

 クオンが噴き出す。

「さすがだな、ユナちゃん」

「え? 何がですか?」

 つい先ほどまで張り詰めていた空気が、跡形もなく払拭されていた。

 ミズコシが立ち上がる。

「さてと。俺はそろそろ戻るぜ。早いとこどうにかしてデータ復旧させるわ」

「あぁ、わざわざ悪かったな、ミズコシ」

「いんや、ちょうど行き詰まってたとこだったしよ。美人スパイと本物の女子高生に会えただけでも来た甲斐あったぜ」

「『本物』って」

「まぁとにかく、進捗あったらまた連絡するからよ」

「頼むよ」

 軽い調子のミズコシを見送ると、クオンは川島博士に向き直った。

「川島先生、近いうちに一度ハルカの様子を見てもらえませんか。ここからトヨハシならそんなに遠くないですし、また落ち着いた頃にでも」

「あぁ、できるだけ早く行くよ。会社が私を探し始めたら、これまでの関係先にも手が回るかも知れない。あの隠し部屋が見つかる前に、ハルカを安全な場所に移動させた方がいいだろう」

 再び表情を硬くした川島博士に、キッカは静かな声で申し出た。

「博士、私も同行させてください。妹が最期にいた場所を見ておきたいんです」

「あぁ……分かった」

「それなら俺も行きますよ。固まって行動した方が何かあった時にも対処しやすいですし」

 そう口を挟んだソウマに視線を向けると、彼はつまらなそうに肩をすくめた。

「……何だよ。自分の身を守るのにも、それがベストだと思っただけだ」

「いや、何も言ってないけど」

 キッカは少しむっとした。何だかんだで手伝ってくれるのはありがたいが、いつも一言余計なのだ。

 マスターがひょいと片手を挙げる。

「あのー、またまたおじさんからの提案なんだけどさ。見たところ皆さん、かなりお疲れなんじゃない? 昨夜あんまり寝てない感じでしょ。今日のところはとりあえずゆっくり休んだら? 近くにビジネスホテルもあるしね」

 クオンが頷く。

「俺もその方がいいと思います。今日は休んで、明日の朝に出発しましょう」

「あぁ、そうしよう」

 いつの間にか自室に行っていたらしいユナが『STAFF ONLY』の扉から戻ってきた。ブレザーは脱いでおり、制服のブラウスの上からエプロンを着ける。

「あの、お昼どうします?」

 店内の壁時計は十一時半に差し掛かろうとしている。

「もうそんな時間」

 キッカが呟くと、ソウマはぎょっとした。

「お前まさか……まだ食うつもりか」

「え?」

「え? ……じゃねぇよ。お前の胃袋は一体どうなってるんだよ」

「でも三大欲求はちゃんと満たさないと」

「微妙に際どいことをさらっと言うなよ……」

 マスターが苦笑する。

「たくさん食べる女性、僕は好きだけどね。とりあえず何か作るよ。ちょっと待っててね」

 急に時間の流れが緩やかになった気がした。川島博士に呼び出しを受けてから、思えばまだ丸一日も経過していないのだ。

 カウンターの向こうで、父娘がてきぱきと動いている。キッカはそれを眺めながら、心の奥にできた大きな傷から必死に意識を逸らしていた。

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