第37話 崩壊寸前
『
あまり歩き回る体力もないので、目に付いたものを手早く選ぶ。白の七分袖カットソー、黒のショートパンツとタイツ、それに淡いカーキのミリタリージャケットを合わせた。下着や最低限の化粧品も買い、ビジネスホテルへと赴く。
チェックインを済ませると、ざっとシャワーを浴びて身体を洗い流した。新しい服に身を包み、髪は緩く右サイドで纏めて肩口に垂らして、今度は診療所へと出掛ける。
昨晩、帝国軍兵の襲撃を受けて死人まで出たにも関わらず、診療所は通常通り開いていた。混雑する待合室で小一時間待たされてから、ようやく昨日の医師に左肩を診せる。
「たった一日なのに、ほとんど傷が塞がってるよ。もう痛みもないでしょ。只者じゃないとは思ったけど、ちょっと回復が早すぎるね」
怪訝な表情の医師を軽い笑みで
診療所を出ると、頭上には夕焼け空が広がっていた。昨日の同時間帯に国道一号線を西へと進んでいたことを、遠い昔のことのように思い出した。
ホテルのロビーで、夕飯に出掛けるクオンと川島博士と入れ違いになった。
「ソウマくんにも声を掛けたんだけど、ルームサービスで済ますってさ」
クオンがそう言った。
「そうですか。じゃあ私もそうします」
「仲良いんだな」
「いや、そういう訳では」
もちろんソウマと一緒に食べるという意味ではない。川島博士との久々の再会で積もる話もあるだろうと気を遣ったつもりが、別の方向に勘違いをされてしまった。クオンはちょっと天然なのかも知れない。
部屋に戻って、ルームサービスで料理を注文した。何も考えずに手と口を動かす。チャーハンは脂っこく、カルボナーラは味気なく、サンドイッチはパサついていた。途中から何を食べているのかもよく分からなくなったが、気付けば皿は全て空だった。食事の後は時間を掛けて丁寧に歯を磨いた。
そこまで終えると、とうとうすることがなくなってしまった。すると、たちまち胸の奥で不穏な陰が疼き出す。キッカはそれを振り切るように、本日二度目のシャワーへと向かった。
髪を解き、一糸纏わぬ姿となって、狭いユニットバスの扉を閉める。空の湯船に入ってシャワーカーテンを引き、蛇口を捻った。
閉ざされた空間に水音が響く。勢いのない温いシャワーが、きめの細かい肌と艶やかな長い黒髪をしっとりと濡らす。透明な水の帯が肩甲骨の間をすり抜け、背筋の窪みを伝って滑り落ちた。形の良い双丘を、柔らかな曲線を描く腰を、元の身体と遜色のないすらりとした手脚を、水のヴェールが覆っていく。
キッカは正面の鏡を手で拭った。水滴の流れる鏡は、濡れそぼった女の姿を映し出している。
女は酷く不安げな表情だった。それは個性の埋没した地味な会社員のものでもなければ、目的のためには手段を選ばぬ怜悧な工作員のものでもない。行く先も分からずただ立ち尽くすだけの、一人では何もできない少女のような顔だった。
これまでのキッカは、常に隙のない化粧で素顔を隠し、状況に応じて服装を変え、必要とあらば自分とは全く別の人格を演じてきた。だがそれらの覆いを取り去ってしまえば、後に残されたのは妹を
——アヤメ。
アヤメが今のキッカを見たら、どう思うだろうか。たった一人の妹の死を見過ごし、知らなかったとは言え妹の
一体どこで道を誤ったのだろう。何が原因で、自分の人生はこんなにも狂ってしまったのだろう。
アヤメを助けられなかったことが全ての始まりなのは、もはや疑う余地もない。だがそれ以降も、自分は何か致命的なミスを犯したのではないか。
ナショナル・エイド社に入り、特殊工作員になったことか。
キッカをスカウトした男——妹の手術の件で担当者だった総務部の男の顔を思い出す。それが、初めての相手だった。彼から与えられるものを、愛か何かと思い込んだのが間違いだったのかも知れない。既婚者だったし、相手の転勤でそれきりになってしまったのだが、今ならはっきり分かる。彼はキッカをプロジェクトの被験者にするために、弱り目に付け込んで
ハニートラップのようなことを始めたのは、その男と別れてからだった。重要な情報を確実な筋から入手するためと称して、自らそれを打診した。おかげで仕事の幅は拡がり評価も上がったが、果たして純粋に任務のためだったと言い切れるだろうか。身体と心の寂しさを、ターゲットが手中に落ちていく快感で紛らわしたかっただけではないのか。今まで自分が騙し、そして殺した相手の顔は、一人として忘れることができなかった。
それとも、川島博士に父親の影を重ねるようなことをしたのがいけなかったのだろうか。穏やかで親切だった川島博士。しかし、キッカのことを自らの手で死に至らしめた少女の姉だと承知した上での態度だと考えると、その意味合いは少し違ってくる。
キッカとて、何も研究者と被験者という関係以上のことを望んでいた訳ではない。だが、川島博士は妻を人質に取られて信念に
モリノは、そんなキッカをどう見ていたのか。彼はキッカが被験者として採用された事情も知っていたはずだ。良き理解者のような顔で接しておきながら、憐れで愚かな女だとでも思っていたのだろうか。そうでなければ、キッカのことをこんなに手酷く陥れはしないだろう。
アヤメやこれまで手に掛けてきた人々が、キッカのことを責め立てている。信頼していたはずの人々は、キッカに背を向けてしまった。
今までずっと独りだったのだ。妹を亡くした時から、変わらずずっと。清算できない過ちを重ねて、誰かの手を取ることもできない。そのことに、どうして気付かずいられたのか。
蛇口を締め、シャワーを止める。鏡に映った女の顔の上を、無数の雫が伝っている。その虚ろな瞳から目を逸らし、身体を拭いてユニットバスを出た。
下着を着け、カットソーとショートパンツを身に付けてから、長い髪を丁寧に乾かす。顔の隅々までたっぷりと化粧水を塗り、部屋の冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出して一気に半分ほど飲む。そして逃げ込むようにベッドに潜った。
時刻は午後九時過ぎ。身体は疲れているはずなのに、眠気はなかなか訪れてくれない。気を抜くとすぐ、氷のように冷たい心の暗闇に囚われそうになる。光から
眠ることを諦め、身を起こす。ふと、椅子の背もたれに掛かったコートに目が留まった。
ソウマに借りたままのモッズコート。研究棟に侵入する前に「無事に帰って必ず返す」と約束したものだ。
キッカと同じ、もう一人の戦闘用生体義肢の被験者。ソウマもまた、自分の身体を犠牲にしておきながら、会社を離反した立場に追い込まれている。彼はこの状況をどのような心境で過ごしているのだろうか。
コートを返すなら今日のうちの方がいい。明日の朝では、ここを出発するタイミングが合わない可能性がある。だが、ソウマとて徹夜だったので、もう寝ているかも知れない。それに、こんな時間に一人で男の部屋を訪ねるのはあまりに不用心だ。
シーツを握り締める。抱えた膝に顔を埋め、軽く目を伏せて、静かに呼吸を繰り返す。
——駄目だ。
油断なく滑り込んでくる思考のループに堪え切れなくなり、ベッドから這い出た。
約束通り、借りたものを返しに行くだけだから。
キッカはコートを手に取ると、そろりと部屋を後にした。
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