ケイイチ編

君の声がきこえる①

 瞼を撫でる淡い陽光に、彼は目を覚ました。

 頬に当たった日差しの温もりが、冬の終わりが近いことを教えている。窓越しに小鳥の囀る声が聞こえた。あぁ、今日も朝が来た。

 ふと左に顔を向ける。

 隣に眠る彼女の横顔の輪郭が、光の中に浮かび上がっている。

「ハルカ」

 彼は小さく声を掛ける。返答はない。

 身を起こして、真上から覗き込む。薄紅色の唇はきっちりと閉ざされたまま、微動だにしない。

「ハルカ?」

 再び、その名を呼ぶ。微かに胸がざわめき始める。

 恐る恐る、透き通るような白い頬に指を伸ばす。それは極めて緩い熱だったが、確かに血の通った人間の体温を持っていた。

 触れられたことで彼女は僅かに頭を動かし、小さな呻き声を漏らす。

 彼はほっとして、思わず彼女を抱き寄せた。栗色の長い髪に、そっと顔をうずめる。シャンプーの甘い香りと、微かに混じる汗の匂い。その身体はしっとりと柔らかく、温かかった。

「ん……ケイイチさん……?」

 ハルカがケイイチの腕の中で身じろぎする。そして首を動かし、寝惚けまなこで彼の顔を見上げた。

「……どしたの?」

 生きている。ただその事実だけで、心が締め付けられる。良かった。今日も生きている。

「……苦しいよぉ」

 知らぬ間に力が入っていたらしい。慌てて腕を離すと、ハルカはふぅと息をついて、淡く微笑んだ。

「おはよ……ケイイチさん」

「おはよう、ハルカ」

 生きている。いつもの朝だ。


 ハルカは寝起きが悪い。

 川島病院で看護師をしていた頃はどの時間帯でもきびきびと働いていた。今は長期に渡るコールドスリープと『アニュスデイ』の影響で心臓に負担が掛かりやすい状態になっており、低血圧もそのせいだと彼女の父親が言っていた。

 たっぷり時間を掛けてベッドから這い出ると、まずは洗面所で順番に顔を洗う。筋力が衰えているハルカは、些細なことで身体のバランスを崩しがちだ。たかだか洗顔とはいえ、決して侮れるものではない。前屈みの状態になるだけでも腹部から下半身にかけて多くの筋肉を使うのだ。彼女にとってはかなりの重労働である。

 それが終わると、今度は二人で並んで歯を磨く。この段階でもハルカは未だに寝惚けており、目などほとんど閉じている。瞼もむくみ気味で、お世辞にも可愛いとは言えない顔だ。

 早々に歯磨きを終えたケイイチは、のっそりとした動作で歯ブラシを動かすハルカに声を掛けた。

「ハルカ」

「んー……?」

 歯ブラシを口に突っ込んだまま、もにゃもにゃとした声で彼女は応える。

「起きろ」

「んー」

 肯定なのか否定なのかも分からぬ返答だが、そのやり取りを切っ掛けにハルカは歯磨きを終えた。コップの水で口をゆすいで、首に掛けたタオルで口許を拭う。

 その直後、ハルカはふらりとバランスを失った。咄嗟にそれを抱き止める。ひゅっと冷たいものが胸を横切り、一瞬心臓が止まったような気がした。しかし——

「……眠い……」

 それは全くの杞憂だったと知る。ハルカはケイイチの袖をそっと掴み、甘えた声で呟く。

「もう少し、寝かせて……」

「駄目。もう起きなさい」

 ケイイチは笑みを含んだ声でそう言って、大きな手でハルカのほつれた髪をぐしゃぐしゃと撫でた。無事に鼓動を再開した心臓が、温かい血を再び全身に巡らせていった。

 大丈夫だ、生きている。

 こんなことはしょっちゅう起こる。しかし到底慣れるものではない。その度に胆を冷やしては、ほっとする。心臓がいくつあっても足りやしない。


「ミズコシさん、元気だった?」

 ようやく覚醒したハルカが、朝食のトーストを齧りながら訊ねてくる。

「あぁ、相変わらずだよ。最近また忙しいらしい」

 昨夜、ミズコシと二人で、マスターの店——つまり『スワロウテイル』で飲んだのだ。最近よくニュースで目にするナショナル・エイド社の抗ガン剤に対する薬害訴訟の関連で、仕事が立て込んできているらしい。

——かたき討ちだなんて思ってる訳じゃねぇよ。依頼がなきゃ食っていけねぇかんな。

 かつてあの薬が原因で恋人を喪ったミズコシは、ウイスキーの水割りをちびちびやりながらそう言っていた。だが、あの会社を追い込むという目的を果たそうとしている今、彼の目に宿った炎はここへ来て激しさを増しているように思えた。

「それで時々キッカさんやソウマくんに手伝いに来てもらってるそうだ」

「そうなのね。ちょっと楽しそう」

「そうだな。何だかんだで上手くやってるみたいだな、あの三人は」

 ミズコシから三人での騒々しい作業の様子を聞いた時、ケイイチは思わずほっとした。誰かを頼りにできているのであれば、一人で暴走したり、目標を見失って動けなくなったりすることはない。ミズコシはああ見えて冷静で頭の切れる男だが、あの件はかねてからの悲願だったので、少し心配していたのだ。

「今度ハルカも含めてみんなで飲み会しようって、ミズコシが言ってたよ」

「えっ、私もいいの?」

「もちろん」

 それを聞いて、ハルカの顔がぱぁっと輝いた。

「行きたい! 私、ソフトドリンクだけになっちゃうけど」

「大丈夫、飲むよりもひたすら食べてるだけの人もいるはずだから」

「そうなの? 誰?」

「キッカさん」

「えっ、あんなに細いのに?」

「そう思うだろ? それが凄いんだよ。俺も最初見た時びっくりした」

「羨ましい……食べても太らないなんて」

「そっち?」

「そうよ。私なんて食べたら食べただけ身になっちゃうんだから」

 ハルカが眉根を寄せて口を尖らせた。ケイイチは、はは、と軽く笑みを漏らす。

「そんなハルカの耳には毒かも知れないんだが、『揚村珈琲店』で今日の午後、新メニューの試食をキッカさんにしてもらうらしいんだ。良かったら一緒にどうかってマスターから言われたんだけど」

「いいの? 行きたい」

 即答である。恐らく、食事もそうだが、外へ出て誰かに会いたいのだろう。

「じゃあマスターに連絡しとくよ。俺も今日は仕事休みだし」

「やったぁ」

 ハルカがくしゃりとした顔で笑った。口許にはえくぼができている。

 相手に安心感を与える、変わらない笑顔。七年もの間、焦がれてやまなかったものが、今は何気ない日常の中にあるのだ。


 掃除や洗濯を午前中に終わらせ、近所に買い物へ出掛けたついでに軽く昼食を摂った。一旦家に戻って簡単に身支度をしてから、暖かな午後の日差しの中へと踏み出す。

 車椅子に座れば、と勧めたのだが、歩かないと訓練にならないからと、ハルカは断った。ケイイチが押す車椅子には、ちょっとした荷物だけが乗っている。ハルカは彼の腕に掴まって、ゆっくりと一歩一歩確かめるように足を運んでいた。

 目的地までは途中、坂を上る場所がある。ハルカは少し息を切らせながら、より一層慎重な足取りで地面を踏み締めていく。

 やがて坂を上り切ると、ハルカはケイイチの腕に抱きついて体重を預け、ふぅと息をついた。ほんの少し、額に汗が滲んでいる。

「お疲れさま」

「うん、やっぱり坂はちょっと大変。平らな道を長く歩くようにした方がいいかしら」

「まぁ、そうだろうな。座ってくか?」

 視線で車椅子を示すと、ハルカは首を振る。

「もう少しだもん。自分の脚で歩くわ」

 そう言って、笑顔を見せた。

 柔らかな手を取り、再び歩き出す。ゆったりとした時間が流れていた。陽の当たる道で、爽やかな風に背を押されて、確かな体温を持つ彼女の隣で。

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