第16話 クオンの正体

 砕けたガラス片に混じって、缶のようなものが床に落ちて転がる。

 それが何者かによって外から投げ込まれたスタングレネードだと頭で理解するより先に、キッカは叫んでいた。

「伏せろ!」

 両耳を小指で塞いで強く目を瞑り、ベッドの陰に隠れるようにして身を伏せる。

 凄まじい爆発音と眩い閃光が、狭い病室の中で炸裂した。

 耳に栓をしてもなお脳を揺るがす轟音に、たちまち全身が硬直する。薄目を開けると、少し離れた場所でキッカと同じ体勢を取るクオンが見えた。

 その時。

 髪が、肌が、ひゅっと切り裂かれるような空気の動きを感じ取った。キッカは咄嗟に身をひるがえして仰向けになり、反射的に両手で何かを掴んだ。

 それは、人間の右腕だった。その手に握られたサバイバルナイフの切っ先は、キッカの眉間までほんの数センチに迫っている。刃の向こうに、迷彩服姿の帝国軍兵が見えた。

 左腕に繋がったチューブが引っ張られ、点滴棒が倒れてくる。それが男のうなじを直撃した瞬間、ナイフを握った腕の力がほんの僅かに弱まった。

 男の右腕を身体の外側へと引く。急に力の向きを逸らされた相手はバランスを崩し、キッカの上へと倒れ込んだ。

 すかさず膝を突き上げる。股間を強打された男は、目を剥いて息を詰まらせながら呻き声を漏らした。

 兵士の手から、ナイフが落ちる。

 その隙にキッカは左手で男の胸倉を掴んで持ち上げると、その鼻っ柱を右の拳で思い切り殴り付けた。一発、二発。三発目に鼻梁が砕ける感触。相手は声も上げることなく昏倒する。

 覆い被さった男の身体を跳ね除け、すぐさま立ち上がって左腕からチューブを引き抜いた。

 はだけかけた病衣を正す暇もなく、二人目の刺客が襲い掛かってくる。

 相手の手にした伸縮型の軍用警棒が、頭部に向けて振り下ろされる。キッカはそれを、顔の上で交差させた両腕で受け止めた。

 拮抗する力。二人の動きが静止する。

 相手はキッカよりもかなり上背のある大男。さしもの戦闘用義肢を以ってしても、この体格差では防御するのが精一杯だ。

 男が空いている左手でキッカの髪を鷲掴みにした。そのまま乱暴に振り回され、床に引き倒される。仰向けで髪を床に押さえ付けられ、胴に馬乗りされてしまった。

 男が、右手に持った警棒を大きく振りかぶる。

 しかし次には、ごん、という打撃音と共に巨体がびくりと震えた。男の視線が俄かに宙を彷徨さまよう。その肩の向こうに、パイプ椅子を手にしたクオンの姿があった。

 髪を掴む男の手が緩んだ。キッカは相手の身体の下から抜け出し、素早く構えを作る。

 蹌踉よろめきながらも身を起こした大男の胴体を、間髪入れずに右脚で蹴り抜いた。防弾ベストの硬い衝撃が脛骨に響く。男は更にバランスを崩し、大きく隙を作った。

 回し蹴りの流れでくるりと一回転したキッカが、その勢いを乗せた右の拳を男の顔面に叩き込んだ。大柄な身体が、軽く吹っ飛ぶ。

 その時、尚も攻撃を繰り出そうとしていた右手から警棒がすっぽ抜け、宙へと放り出された。

 突然、病室の扉が開いた。

「クオンさん、さっきの凄い音って何——」

 ユナだった。

 男の手を離れた警棒が、入口の方向目掛けて勢いよく飛んでいく。それが立ち尽くすユナの顔に激突するか否かというまさにその瞬間。

 クオンが、ユナの細い腕を引き寄せた。華奢な身体が、たくましい腕の中にすっぽりと収まる。部屋の外へと飛び出した警棒は、廊下の壁に当たって床に転がった。

 ユナの無事を確認したキッカは、男へ視線を戻す。顎の砕けた男は、口から大量の血を零しながらも、ゆらりと立ち上がった。その足許は既に覚束おぼつかない。

 恐らく、あと一撃。

 キッカは男に向き直った。そしてとどめを刺すべく、床を蹴った。

 一歩。二歩。目標へと接近する。

 相手の間合いに踏み込み、ハイキックのモーションに入る。だが——

 いきなり、何かが軸足に絡み付いた。

 不安定な体勢から突如として均衡を失い、キッカはもんどり打って倒れた。あまりの不意打ちに受け身を取ることも適わない。見れば最初に無力化したはずの男が、這いつくばったままの姿勢でキッカの脚を抱え込んでいた。

 目の前にはそびえ立つ兵士。だが死にていの大男に、横たわるキッカを蹴り飛ばす余力はない。彼は腰からコンバットナイフを抜き、胸の前で構えた。

 血塗れの口許をにやりと歪ませた男の身体が、こちらに向かって倒れ込んでくる。掲げられた凶刃が、眼前に迫る。

 刹那。

 半身を起こしたキッカの頭上を、何かがきらりと一閃する。それはあたかも、獲物を狙って一直線に急降下するハヤブサのようにも見えた。

 虚空を切り裂いて飛ぶ刃。迷いのない軌道を描くそれは、まるで大男の左の眼球に吸い込まれるかのように、深く深く突き刺さった。

 兵士は声もなく仰け反り、コンバットナイフを取り落とす。そしてそのまま仰向けにどうと倒れた。

 絶命した男の左目から生える、床に対して垂直に突き立ったもの。それは今キッカの脚を掴んでいる一人目の敵が最初に手にしていたサバイバルナイフだった。

 縋り付く男を空いている利き足で蹴り剥がす。踵を頭部へ振り下ろし、頭骨を砕いて今度こそ完全に沈黙させる。立ち上がって、ナイフが飛んできた方向に目をやる。

 そこには、右足を半歩後ろに引いて立つ長身の男——クオンの姿があった。この世の全てを射抜くような鋭い目付きで、動かなくなった敵を静かに見下ろしている。

 キッカは際どいところまではだけた病衣の胸許を掻き合わせ、乱れ髪を指で梳いた。全身を支配していた緊張が引き、入れ替わるように左肩が痛み始める。塞がりかけていた傷が開いたのかも知れない。

「いい腕ですね」

 キッカがそう言うと、クオンは表情を緩めて口の片端を持ち上げた。

「君こそな」

「いえ、危ないところだったから。……その子も」

 ちらりと見やったユナは、顔を赤くしたままへたり込んでいた。

「立てるか?」

 クオンが手を差し伸べた。ユナはそれに掴まり、腰を上げようとする。しかし膝ががくがくと震え、結局またその場に崩れ落ちた。

「よしよし、怖かったな」

 大きな手が、ユナの頭をぽんぽんと撫でた。すると元々紅潮していた顔が、これ以上ないくらい真っ赤に染まった。

「あ、あの……あの……はい」

 消え入るような声でそう言って、とうとうユナは両手で顔を覆って俯いてしまった。

 その様子に、思わず口許が綻んだ。「ふふ」と自然な笑みが漏れる。自分の笑い声を、久しぶりに聞いた気がした。

 それにしても、このクオンという男。一目見た時から素人とは思えない印象だったが。

 スタングレネードに対する咄嗟の備え。不意に飛んできた警棒からユナを守った反射神経。そして何より、サバイバルナイフを敵の眼球へ命中させる正確な投擲とうてき

 彼は一体、何者なのか。

 キッカは静かに口を開く。

「メモリーチップは?」

「あぁ、俺が持ってる」

 クオンがまた、ポケットからメモリーチップを取り出す。

「大事なものなんだろ」

 キッカは小さく口角を上げた。そして、再び投げ掛ける。先ほどと同じ問いを、先ほどよりも柔らかな声で。

「あなたは、誰?」

 クオンがキッカに向き直り、正面から彼女を見据えて言った。

「俺は久遠クドウ 慧一ケイイチ、元自衛隊員だ」

 その素性を聞いて納得した。只者ではないはずだ。

「だが今は訳あってクオンと名乗っている。川島先生には昔お世話になった。……君は?」

タチバナ 菊花キッカ。ナショナル・エイド社の者です」

「やっぱりそうか」

「川島博士に連絡を取ったのは、あなたですね?」

「そうだ」

「そのデータは博士から託されたものです」

「あぁ……」

 クオンは手にしたメモリーチップをじっと見つめた。

 どうしてこんな場所で出会うのか。だが、とにかくこれで任務完了だ。負っていた荷を肩から下ろしたように、心が軽くなった。

 同時に、自分はこれからどうすべきなのかという疑問が滑り込んでくる。よもや、のこのこと会社に戻る訳にもいかないだろう。

「タチバナさん」

 心を見透かされたようなタイミングで、声が掛かった。

「実は君に、頼みがあるんだ」

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