第15話 交錯する運命

——お姉ちゃん、起きて。

 幼い少女の声が聞こえる。

——お姉ちゃんってば。

 自分をそんなふうに呼ぶのは、一人しかいない。

——休みの日にお買い物連れてってくれる約束だったでしょ?

 そうだっけ。

——だから早く起きてよ。朝ごはん、もう食堂に用意してあったよ。

 分かった、今起きるから。

 彼女はゆっくりと重い瞼を開けた。


 目覚めて真っ先に視界に入ったのは、見覚えのない白い天井だった。

 おかしいな。施設の自室で寝ていたはずなのに。休日だからと寝坊するキッカを、妹が起こしにきたのだ。

 今日は何日だっけ。電車に乗るなら身分証がいるから、先生に言って出してもらわなくては。

 起き上がろうと身じろぎすると、左肩に違和感があった。その微かな痛みで、混濁した意識が急速に覚醒していく。

 すうっと血の気が引いた。キッカは弾かれたように身を起こす。

「わっ!」

 横からハイトーンの声が聞こえた。そちらに顔を向けると、驚いた表情の見知らぬ少女と目が合った。

「あ……良かった。気が付いたんですね」

 少女が微笑んだ。ショートボブの髪に、くりっとした大きな瞳。小柄で華奢な体型で、ワンピースにエプロン姿。高校生くらいだろうか。

 瞬きを一つ。この少女は誰なのか。そして今、自分はどういう状況に置かれているのか。

「あの……」

 問い掛けるように見つめながら口を開きかけると、少女は簡潔な答えをくれた。

「あ、お姉さん、うちの近くに倒れてたんです」

「……ここ、ハママツ自治区?」

「そうです」

 あのアパートから歩き始めて以降の記憶が曖昧だった。どうやらハママツ自治区のエリアには辿り着いたようだ。キッカはほっとして、少しだけ頬を緩めた。

「助けてくれたんだ。ありがとう」

「いえ、あの、あたしは何も」

 少女は顔を赤くし、首を振った。

 可愛らしい子だ。妹が生きていたら同じぐらいだろうか。掻き消えてしまった夢の余韻を思い出し、ほんの少し胸が苦しくなる。

「あの、肩、大丈夫ですか? すごい血だったから、びっくりしました」

 そう言われて、左肩を動かしてみる。痺れに似た鈍い痛みは残るものの、傷はかなり良くなっているように思えた。縫合の糸の突っ張る感じがやや気になる程度である。

 例の、怪我の回復を促進する細胞エキス『アニュスデイ』が効果を発揮しているのかも知れない。傷口が未だに熱を持っているのもそのせいだろうか。どういう訳か、風邪の時のような寒気と軽い動悸もある。

「とりあえず大丈夫みたい。ところで、ここは?」

「うちの近くの診療所です。救急車が出払ってて、大きな病院に行けなかったから」

 時刻を確認しようと左手首に目をやるが、そこに腕時計はない。手当ての時に外されたのだろう。

 キッカは少女を見る。

「今、何時か分かる?」

 少女はエプロンのポケットから携帯端末を取り出す。

「えっと、夜の九時です」

「九時……」

 キッカは軽くこめかみを押さえた。約束の時刻を二時間も過ぎている。まずいことになった。

 そこではっとして、左胸に触れた。薄布越しに伝わる柔らかな感触。——ない。

 改めて自分の身体を見下ろす。上半身には薄緑色の病衣。その合わせから覗く左肩には、丁寧に包帯が巻かれている。下着は着けておらず、素肌の曲線が見えた。髪は解かれ、傷とは反対の右側に寄せられていた。

 左腕の内側から伸びるチューブは、高く掲げられた輸血袋に繋がっている。中身はもう空に近い。

 キッカは更に辺りを見回す。ベッド脇の小さな机の上には、腕時計とバッグとショルダーホルスター。拳銃も挿さったままだ。武器がそのまま置かれていることに一瞬ぎょっとした。こんな明らかに訳ありの女を、よく手当てしてくれたものである。

 羽織っていたトレンチコートは壁に掛けられている。左肩部分に穴が空き、そこから袖にかけては血で固まってしまっているようだ。ブーツはベッドのすぐ横に揃えて置いてあった。

 少女がおずおずと口を開く。

「あの、ひょっとして、ブラのところに入ってたものですか?」

「あ……うん、そう。あれがどこにあるか知ってる?」

「それなんですけど……えっと、今呼んできます」

 言うなり、少女はばたばたと病室を出ていってしまった。あの子の他にも誰かいるのだろうか。メモリーチップを紛失していないのであれば問題ないのだが。

 キッカはベッドから降り、ブーツを履いた。壁に掛けられたコートの内側を探って携帯端末を取り出す。時刻は午後九時五分。モリノからの連絡はない。

 早く、メモ書きにあった『スワロウテイル』という店に向かわないと。川島博士と連絡を取っていた人物はまだいるだろうか。

 気ばかりが急ぐ。メモリーチップを返してもらったら、すぐにでも出発しよう。輸血のおかげで足許のふらつく感じもなくなっている。

 ノックの音が耳に入った。キッカは「はい」と返事をする。少女に続いて部屋に入ってきたのは、背の高い男性だった。

 精悍な顔立ちに、広い肩幅。濃紺の長袖シャツに黒のジーンズというシンプルな服装だが、一目で鍛えていることが分かる体格だ。その表情にはどこか陰があり、何となく素人ではない雰囲気がある。歳の頃はキッカよりも少し上ぐらいだろう。小柄な少女と並んでいると、その男はやけに大きく見えた。

 少女が驚いて声を上げる。

「えっ、もう立ち上がって大丈夫なんですか?」

「うん、おかげさまで」

「それなら良かった。ねぇクオンさん」

「そうだな」

 少女から向けられた笑顔に、クオンと呼ばれた男は想像よりも柔らかい声で返事をした。

 キッカが軽く会釈すると、クオンは小さく笑みを作った。

「どうも」

「……あの、私の持ち物に、小さなメモリーチップがあったと思うんですが」

「あぁ、これのことかな」

 クオンはジーンズのポケットからメモリーチップを取り出す。表面には銀色の『Aファイル』の文字。間違いなく、川島博士から預かったものだ。

 キッカは内心ほっとしつつも、表情は緩めず口角だけを上げた。

「それです。ありがとうございます」

 返してくれ、という意思表示のつもりだったが、クオンはメモリーチップを手にしたまま動かない。

「先に言っとくが、これを見つけたのは俺じゃないからな。女性の看護師が君の手当てをする時に見つけたんだ」

 キッカがそれを下着に隠していたことで、気を遣っているらしい。

「大丈夫です。大事なものなので」

 だから下着に入れていた。だから早く返してほしい。渦を巻くような焦りと小さな苛立ちを抑えつつ、弁明と要求の意を込めて静かな声でそう言い募る。

 クオンは少女に言った。

「ユナちゃん、悪いけど少し席を外してくれるか。すぐ済むから」

「分かりました」

 事前に何か聞いていたのか、ユナと呼ばれた少女は素直に病室を出ていく。

 この男、どういうつもりなのか。キッカは身構え、油断のない視線をクオンに送る。

 クオンはキッカに向き直り、口を開いた。

「君に訊きたいことがあるんだ」

「……何ですか?」

「君は、川島カワシマ 征吾セイゴという医者を知っているか」

 キッカは小さく目を見張った。

 川島 征吾。キッカにメモリーチップを託した、川島博士のフルネームだ。それがたった今、目の前の男の口から出た。つまり、この男は——

「……あなた、誰?」

「俺は——」

 クオンが答えようとしたその時。

 外に面した病室の窓が、けたたましい音を立てて割れ散った。

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