第17話 スワロウテイルへようこそ
診療所での戦いの後、開いてしまった傷口を診てもらってから、放心状態のユナを家まで送り届けることになった。
帝国軍兵たちの死体はどうすれば良いのか気掛かりだったが、診療所の医師から「適当に処分しとくよ」と言われたので任せることにした。この辺りは治安が悪く、明るみに出ない事件もそこそこあるため、この手のことは慣れっこらしい。キッカの手当てをしてくれたのも、そのおかげである。
クオンの運転する車でユナの家へと向かう道すがら、遅くまで営業している何でも屋のようなマーケットに立ち寄り、服や下着を適当に調達した。今のキッカは、白地に黒のボーダー柄のTシャツに、カーキ色のナイロン地のレインコートという服装だ。豊富とは言い難い品揃えの中で、動きやすさを重視した上で見た目にもどうにか妥協できる範囲でのチョイスである。トイレで着替えるついでに、髪も再び結い上げた。
身支度を終えた時、携帯端末に着信が入った。画面に表示されているのはモリノの番号だ。キッカは即座に通話ボタンを押した。
「はい、タチバナです」
『モリノだ。連絡が遅くなって悪かった。無事か?』
「えぇ、実はさっきも襲撃を受けて……少し負傷していますが、無事です。モリノさんは?」
『あぁ、ちょっと用を足すフリして抜けてきたところだ。いろいろ追求されてるが、適当に
「今、ハママツ自治区のマーケットにいます。メモリーチップの受け取り人と落ち合いました」
『分かった、よろしく頼むよ。——と、そろそろ俺は戻らなきゃなんねぇ。また連絡する』
別れの挨拶をする間もなく、通話は切れた。
ひとまずモリノの無事が確認できたことで、ほっと胸を撫で下ろす。きっとモリノのことなので、うまく立ち回るだろう。
キッカは女子トイレを出て、クオンの車に戻った。
午後十時半。三人は『
クオンが扉をノックする。ややあって、中からバーテンダーの格好をした口髭の男性が顔を覗かせた。
「おかえりー」
「すみませんマスター、遅くなりました」
「いいんだよクオンくん、ユナの我儘に付き合わせて悪かったね」
どうやらこの男性がユナの父親らしい。後ろに撫で付けた髪は黒々としている。四十代半ばぐらいだろうか。
マスターが、今度はユナに声を掛ける。
「おかえり、ユナ」
「……ただいま」
ユナは小さな声でそう答えた。視線は斜め下を向いたままだ。
「それで、あの人は大丈夫だったの?」
そう問われたユナがちらりとこちらを振り返った。クオンの後ろから顔を出し、軽く会釈する。そこで初めてキッカの存在に気付いたらしいマスターは、少し驚いた顔をした後、照れたように口髭を撫でた。
「おっと、これは失礼。ご無事で何より。とりあえず中入ってよ」
店内に足を踏み入れると、仄かなコーヒーの香りがキッカを出迎えた。天井から吊り下がったペンダントライトには薄暗い明かりが灯っている。カウンターとテーブル席が四卓あるだけの小さな店だ。珈琲店というよりも、バーのような雰囲気である。
そしてどういう訳か、カウンターには客がいた。表には『CLOSE』の札が出ていたはずだ。
「それでクオンくん、このお嬢さんがやっぱりそうだったの?」
「そうです」
その確認をすると、マスターはカウンター席に座る先客に声を掛けた。二言三言のやり取りの後、その客は気を悪くした様子もなく、軽く片手を挙げて店を出ていった。
「はーいお待たせ。今日はもう貸し切りにしたからね」
「助かります」
今の一連の流れによって、パズルのピースが繋がった。家の近所でキッカを見つけたと言ったユナ。データの受取人であるクオンがそこに居合わせたこと。そして、ユナの自宅であるこの店——。
「すみません、この店の名前を教えて頂けますか」
自信を持って解いた問題の正誤を確かめるように、そう尋ねた。
マスターがキッカに向き直った。左手を腹に当てて西洋式の礼の真似をし、甘く響くテノールで歌うように言う。
「『スワロウテイル』へようこそ。美しいお嬢さん」
やはり。キッカは自力で目的地のごく近くまで辿り着いていたのだ。
クオンが後を引き継ぐ。
「この店、昼間は珈琲店なんだが、夜はショットバーになるんだ。それを知ってるのは常連の中でも一部だけでね」
「あぁ、だから『CLOSE』」
マスターが、そうそう、と頷く。
「僕、揚村っていうんだけど、その漢字がぱっと見『
分かるような、そうでもないような。キッカは曖昧に笑みを作って小首を傾げる。
「まぁ、僕も最初は趣味みたいな感じで始めたんだけどね。六、七年前までは、ちょっとした秘密のお話し合いみたいなことにも、ちょくちょく使ってもらってたんだよね」
六、七年前と言うと、内戦が鎮静化する以前の話だ。要するに、帝国軍政府に対する反乱分子がこの店に集っていたということだろうか。
「その頃からのお客さんばっかりだから、こんな時にも融通効いちゃうの。さぁ、座って座って」
クオンがカウンターの真ん中の席に着く。キッカもそれに倣って隣に腰掛けた。
「飲み物は? 何か作ろうか」
カウンターの内側に立ったマスターにそう訊かれ、クオンがかぶりを振る。
「いや、今日はウーロン茶で」
「じゃあ私も」
怪我のこともあるし、それにいつまた刺客がやってこないとも限らない。胸にさっと暗い影が
最初に襲われた時から違和感はあった。わざわざ車から降りて徒歩で移動していたキッカに、敵は車でギリギリまで接近してきたのだ。診療所でのこともそうだ。奴らはなぜ、こちらの正確な居場所を知っていたのだろうか。
唇に手を当てて考え込むキッカに、ハイトーンの声が掛かる。
「ねぇキッカさん、お腹空いてませんか? 晩ご飯まだですよね?」
緊張続きでその自覚はなかったが、言われてみると確かにそうだ。昼休みに会社で食べたきりなので、胃の中は空っぽである。
「うん……少し」
二人の前に並べられたコルクのコースターの上に、ウーロン茶のグラスが置かれる。
「晩ご飯かぁ。すぐに出せるのはカレーくらいだけど」
「あ、はい……じゃあカレーを頂けますか」
「オーケー、ちょっと待っててね」
マスターはカウンター奥のキッチンに行き、大鍋を火に掛けた。
「この時間までカレーが残ってるなんて珍しいですね」
「確かにね。ちょうど良かったよ」
クオンとマスターがそんな言葉を交わしている間にも、カレーの良い匂いが漂ってきた。それまで意識の外にあった空腹が急激に呼び起こされる。腹の虫が鳴ってしまいそうで、キッカはウーロン茶のグラスに口を付けた。
程なくして、楕円形の皿に盛り付けられたカレーライスが目の前に出された。
「はい、お待ちどうさま。特製牛タンカレー 〜マスターの気まぐれ風〜 です」
「そんな名前でしたっけ?」
「うん、今決めた。何たって気まぐれだからね」
艶やかに輝く白飯に掛かった深いべっ甲色のカレーソース。分厚くカットされた牛タンの存在感。匂い立つ湯気が食欲をそそる。
キッカは手を合わせた。
「いただきます」
スプーンを手に取り、まずは一匙。肉は驚くほど柔らかく、スプーンで簡単に切り分けることができた。大きく掬ったカレーを口の中に入れて、思わず目を見張る。
頬ばった瞬間、爽やかなスパイスの香りが鼻腔をすり抜けていった。牛タンは舌に乗せた途端にとろりと
二口、三口。一旦食べ始めると、程良い辛さにますます食欲を刺激され、スプーンが止まらなくなった。
「どう?」
マスターに尋ねられ、キッカは口許を左手で覆ってもごもごと咀嚼しながら言った。
「おいひいえふ」
「はは、ゆっくりでいいよ」
慌てて飲み込み、口の中をクリアにしてからもう一度。
「あの、美味しいです」
マスターは破顔した。
「それは良かった。綺麗な人にそう言ってもらえると嬉しいねぇ」
その後幾ばくも経たぬうちに、皿は空になった。
「良かったらまだおかわりあるけど」
「えっ……いいんですか?」
「いいよ、今日はもうお客さん来ないから」
「じゃあ、お願いします」
すぐに先ほどと同じぐらいの量のカレーライスが盛られてきた。キッカはそれを、一杯目に劣らぬスピードで平らげていく。
ユナが呆然と呟く。
「すごい……キッカさん『少し』って言わなかったっけ」
「うん……俺より食うんだな」
クオンはむしろ感心したように同意した。
三分もしないうちに、二杯目も空になる。
「えーと、あと少し、さっきの半分くらい残ってるんだけど」
「いただきます」
三たびよそわれたカレーライスは、やはり瞬く間に消えていく。キッカは最後の一匙を名残惜しそうに口へ運ぶと、スプーンを静かに皿の上へと置いた。
スパイスの刺激のせいか、その頬はやや上気している。口の端に付いたカレーソースを親指でそっと拭い、それをちろりと舐め取る。グラスに残ったウーロン茶を一息に飲み干した後、どこか恍惚とした表情で長く吐息を漏らす。切なげに軽く目を伏せたまま、熟れたような唇から小さな呟きを零した。
「美味しかった……」
そしてまたきっちりと手を合わせる。
「ごちそうさまでした」
キッカの食事を見届けたクオンが、満足げに大きく頷いた。
「気持ちいいくらいの食いっぷりだな。なんか、いいものを見た気がする」
マスターは口許をにやつかせながら言う。
「いや、ほんともう……なんかこう、元気が出たよ。むしろありがとうございます」
そんな父親へ、ユナが冷たい視線を向ける。
「なんかやだ……なんかやらしい……」
ふと我に返ったキッカは、何だか急に恥ずかしくなった。
「なんか、すみません……そしてお待たせしました」
一同、真面目な表情に戻る。
「そろそろ本題に入るか」
「あ、その前にちょっと」
クオンを制したマスターが、ユナに顔を向ける。
「ユナはそろそろ寝なさい」
「えー、どうして?」
「明日もテストでしょ。ほら、もう十一時だよ。ここからは大人の時間」
「子供扱いしないでよ」
「子供だよ、まだまだ」
ユナがむっとした表情で父親を睨む。
「何なの、もう……分かった、部屋に戻ればいいんでしょ」
一方でキッカとクオンには笑顔を見せる。
「おやすみなさい、クオンさん。キッカさんも」
そう言うとユナは『STAFF ONLY』と書かれた扉の向こうに消えていった。マスターが溜め息をつく。
「まったく、困った娘だ」
ユナがいなくなった店内は、心持ち照明が暗くなったように感じた。ごく小さな音でジャズが掛かっていたことに、その時初めて気が付いた。
クオンがウーロン茶を一口飲み、唇を湿らせる。
「さて、何から話そうか」
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