第34話 研究棟からの脱出
耳を
「博士!」
短く声を掛け、足を速める。どうにかシャッターが降り切る前に一階の廊下へと出ることができた。
ベルの音に気が急いて、川島博士の腕を取って出口へと向かう。だがその状態では全速力を出す訳にもいかない。
駆け足で廊下を進み、どうにか非常口に到着したその時だった。
「止まれ!」
背後から二人の警備員が追ってきた。この棟の表玄関にいた者と、恐らくはオフィス棟に配備されていた者。非常ベルが作動したことで応援に駆け付けたのだろう。
今ここで外へ出ても、逃走経路がバレては意味がない。
キッカは床を蹴った。人工筋肉がしなり、細身の身体が跳躍する。向かって右側の警備員の顔面へ、一切の
着地と同時に手を突いて立ち上がる。ちょうど、もう一人の男が手にした警棒を振り上げたところだった。
相手が武器を打ち下ろそうとした瞬間、キッカはその腕を左手で掴みながら詰め寄った。男の背中が、壁に強く押し付けられる。衝撃で怯んだ彼の腕を引き寄せてバランスを崩すと、隙だらけとなった首筋に素早く手刀を打ち込む。彼は一瞬で気絶し、その場に崩れ落ちた。
五秒も経たぬうちに二人を片付けたキッカは、川島博士の元へ戻ろうと振り返る。
突然、非常扉が開いた。
外から入ってきた人物の手が博士の腕を捕らえる。キッカは思わず叫んだ。
「博士!」
それは、先ほど手足を縛ったはずの、特別情報課の同僚だった。彼は川島博士の腕を左手で拘束したまま、スーツの内側のショルダーホルスターから拳銃を抜いた。
「タチバナ、逃避行はここまでだ」
まともに銃口を向けられては、さすがに身動きが取れない。
あの時、急いでいて確認しなかったが、この男はナイフでも持っていたのかも知れない。何らかの方法で拘束を解き、そして非常ベルのボタンを押したのだろう。建物内の階段は防火シャッターが下がっていて通れないため、外の非常階段を使ったようだ。
ベルは未だに
自分は痴情の
キッカは冷静に、しかし声を張って言った。
「この件、まだ公になってないんでしょ。こんなところで銃なんて撃ったらますます大騒ぎになる。うちの課のことも表沙汰になるかも知れない」
男が表情を強張らせながら口を開く。
「……もうすぐモリノさんが帰ってくる。お前の処遇はモリノさんが決めるだろう。手を頭の後ろで組んで
怖気付いたのか、それともキッカの言い分に納得したのか。いずれにせよ即座に撃たれる危険性がないのであれば、指示に従うこともない。相手を睨み据え、チャンスを探る。
動かないキッカに痺れを切らした同僚は、銃口を川島博士へと突き付けた。
「失礼します、博士。こうでもしないとあいつは動かないんで」
小さく舌を打つ。いくら撃つ気がなくとも、こちらが下手な動きを見せたら、その拍子に誤って引き金を引いてしまうかも知れない。仕方なく、両手を頭の後ろにやる。
一旦降参したふりをして、巻き返す隙を窺うか。自分一人であればどうとでもなるが、果たして川島博士を連れた状態で無事に逃げられるのか。ソウマとの約束の時間が、刻一刻と迫っていた。
「早く跪け」
苛立ち混じりの声に急かされる。油断なく相手に視線を注いだまま、ゆっくりと膝を突く。
その時、半開きになった非常扉の向こうに、ちらりと何かが動くのが見えた。
刹那、キッカは立ち上がりざま男に向かって走り出した。反射的に、銃口がこちらに向く。それが火を噴くと同時に、身体をさっと
続く二撃目が発射されようかという次の瞬間。
男の背後から伸びてきた二本の腕が、その上半身を羽交い締めにした。
間髪入れず右腕の関節を
男が床に伏し、彼を昏倒させた人物が姿を現わす。
「非常ベルの音が聞こえたから来てみれば」
ソウマだった。呆れたような声でそう言ってから、川島博士に向き直る。
「ご無事ですか、博士」
「あ、あぁ……ありがとう、ソウマくん」
キッカは小さく安堵の息をついた。
「……ソウマ」
「お前な、もう少し穏やかに撤退しろよ」
非常ベルの音は、今や聴覚を麻痺させつつあった。ソウマは腕時計を見やる。
「八時八分。所要時間としてはまずまずだな」
なぜこの男は上から目線なのか。キッカは軽く眉根を寄せる。
「……約束は守る」
「上等だ」
不敵な笑みがそれに応えた。
玄関ホールの方が騒がしい。出社してきた研究員たちが警報に戸惑っているのだろう。こちらに来られて、逃走する姿を見られでもしたら厄介だ。
ソウマが扉を押し開ける。
「さっさと行くぞ」
非常口を通って、三人で研究棟を出た。裏庭のマンホールまで移動し、バールで蓋を外す。今度はソウマが最初に降りていった。キッカは川島博士を先に行かせ、蓋を閉めつつ後に続く。
コンクリートの地面に降り立つと、ソウマが既にタクティカルライトを点けていた。
「俺が先行する」
「了解。少しゆっくりめで」
「分かってる」
「博士、ここは視界が悪いので……」
そう言って、川島博士の手を取った。大きくて少しかさついた、温かい手だ。だがその手が握り返されることはない。心臓がきゅうっと締め付けられる。
あの熱が、欲しかった。だけどどれほど焦がれても、胸の奥はしんと冷えたままだ。
地下水路に三人分の足音が響く。前を行くソウマがキッカに問い掛けた。
「追跡は大丈夫だろうな」
「うん、携帯の電源は落としたし、発信機の類もないことを確認した」
「モリノさんは」
「まだ基地に行ってるみたい。でもやっぱり、モリノさんが博士を拘束した張本人だった」
「すまない、二人とも……私がモリノくんに相談したばかりに……」
川島博士が、また謝罪の言葉を口にする。しかし今度はキッカの心に痛みが走るより先に、ソウマがそれに答える。
「いや、とにかく今は急ぎましょう」
元来た道を戻り、出口に到達する。ソウマが先に梯子を昇り、バールで蓋を外した。僅かな隙間から辺りの様子を窺って、素早くマンホールを這い出る。それに川島博士、キッカと続き、再びきっちりと蓋を嵌める。
ソウマが建物の陰から通りを覗く。細い道とは言え、通勤時間帯なのでちらほらと人の姿があった。
「博士、その格好では目立ちます。少し冷えますが、白衣を脱いで頂けますか」
「分かった」
キッカに言われ、川島博士は白衣を脱いで手に持った。バールは行きと同じく、キッカの背に隠す。
「よし、行くぞ」
ソウマの合図で、三人は通りに出た。何食わぬ顔をして、ごく普通の速度で歩いていく。
程なくして、サイレンを鳴らしながら走る消防車とすれ違った。ナショナル・エイド社に向かっているのだろう。非常ボタンが押されたことで消防に連絡が行ったのだ。社内は大騒ぎになっているに違いない。
顔を見られた者は全員昏倒させた。監視カメラやレーザーセンサーも
三人は人通りの少ない道を選びながら、車を停めた小高い丘を目指した。
一行が車に戻ったのは、八時五十分だった。キッカはリヤドアを開けて川島博士を後部座席へと促し、自分は助手席に乗り込んだ。
運転席に座ったソウマがエンジンを掛け、シートベルトを締めながら言う。
「ハママツ自治区に向かえばいいんだな?」
「あ、うん」
キッカは思わず、ハンドルを握る同僚の横顔を見た。瞬きを一つ。
「……何だよ」
「いや、何だかんだで手伝ってくれるんだなと思って」
するとソウマは途端に面白くなさそうな顔をして、わざとらしく溜め息をつく。
「まぁ、乗りかかった船だからな。貸しにしておく」
「……覚えとく」
車はゆっくりと発進し、高台を下って通りに出る。出勤ラッシュのピークは過ぎたものの、まだ交通量の多い時間帯である。
左折の際にちらりとキッカの横顔を見たソウマが、前方に目を戻しながら言った。
「タチバナ、顔色が悪いぞ」
「……そう?」
両手で自分の頬に触れてみる。それは驚くほどひんやりしていて、凍り付いた心の冷たさを思い出させた。
妹の死の真相、川島博士が信念に
疲れた、と思った。しかしそれを口にしたら、二度と立ち上がれなくなりそうだった。
「お前、少し寝とけ。着いたら起こしてやる」
「んー……」
先ほど悪夢にうなされて寝言まで聞かれたことを考えると、容易に返事はできなかった。しかしそれとは裏腹に、凄まじい睡魔が襲ってくる。強い疲労感が身体じゅうに伸し掛かっていた。意識が溶け出していくような感覚に、キッカはとうとう抵抗を諦めた。
泥のような眠りに落ちていくその瞬間、ふと誰かの声が聞こえた気がした。
——この先もし何かあっても、アヤメのことをよろしく頼むよ。
それが誰の声なのか、とうとう思い出すことができなかった。
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