第35話 集結する仲間たち

 キッカが川島医師を連れて戻ってきたとマスターから連絡が入ったのは、午前十時半頃だった。ちょうど自宅で仮眠を取っていた時のことだ。クオンは飛び起き、ミズコシに電話を入れてから、すぐに『揚村アゲムラ珈琲店』へと向かった。

『CLOSE』の札の掛かった扉をノックすると、からんと聞き慣れた音が鳴り、朝と同じエプロン姿のマスターが顔を見せた。

「いらっしゃい、クオンくん。皆さんいらしてるよ」

 店内には、手前のテーブル席に男物のモッズコートを着たキッカと見知らぬ若い男。そしてその奥に座っていたのは——

「川島先生!」

「……ケイイチくんか」

 白衣に、銀縁眼鏡。記憶よりも年老いてはいるが、間違いなく川島医師その人であった。

 あの動画を見てからというもの、自分の中にあった彼の像が揺らいでいた。訊きたいことが——問いただしたいことが、たくさんあった。

 けれども、本人を目にした瞬間に込み上げてきたのは、胸を締め付けるような懐かしさだった。

 クオンは川島医師に駆け寄った。

「良かった、先生……お会いできて……」

「話は聞いたよ。いろいろと苦労を掛けてすまなかった。ハルカのことも……」

「いえ……」

 変わっていない。実直さをそのまま映したような瞳も、温かみのある落ち着いた声も。

 クオンはキッカを振り返り、彼女のいるテーブルまで戻った。

「タチバナさん、おかえり。……すまなかった」

 そう言って深く頭を下げる。

「君を一人で行かせてしまったことを、物凄く後悔してたんだ。携帯も繋がらないから、何かあったんじゃないかって心配で……あれからまた誰かに襲われたりしなかったか? 昨日の怪我は大丈夫か?」

 キッカが左手で口許を押さえながら頷いた。右手にはスプーン。テーブルの上にはマスター特製ふわとろオムライス。料理は既に三分の二ほどがなくなっていた。水のグラスに口を付け、飲み込んでから声を発する。

「……いえ、大丈夫です。携帯のことはすみません、壊れてました。でももう追っ手の心配はないはずです」

 その口の端にはご飯粒。

「おいタチバナ……メシ付いてるぞ」

「えっ、嘘」

「いや、本当」

 反対側を触るキッカに、向かいに座った男が呆れた表情で手を伸ばしてそれを摘まみ取った。

「ったく……信じらんねぇ、その食欲」

 キッカがむっとした顔になる。

「……何はなくともお腹は空く」

「こんな状況でもか」

「例外はない」

 二人のやり取りに、クオンは合点がいった。

「あ、彼氏?」

「違う」

「違います」

 反応は同時だった。キッカが平らな声で続ける。

「同僚のソウマです。道中で一緒になったので、協力してもらいました」

「……どうも」

 ソウマと呼ばれた男が不遜な表情で軽い会釈をした。

 カウンターの向こうでマスターが苦笑する。

「クオンくんさ、結構ズバッと切り込むよね。僕、敢えて何も訊かずにいたのに」

「は、はぁ……」

 クオンは頭を掻いた。キッカが着ているのは彼のコートに見えるし、美男美女でお似合いだと思ったのだが。

「何はともあれ、タチバナさんが無事で本当に良かった。先生を助け出してくれてありがとう」

「いえ」

「今日は臨時休業にするからさ。ごゆっくりどうぞ」

 マスターの気遣いがありがたい。

「すみません、助かります。もうすぐミズコシも来るはずです」

「はーい了解」

 クオンは声のトーンを硬くし、そろりと切り出した。

「先生、あのメモリーチップなんですが……実は、データが消えました」

「何だって?」

「えっ?」

 今度は川島医師とキッカのタイミングが揃う。なお、オムライスの皿はいつの間にか空になっている。

「知り合いのハッカーに頼んで、中身を確認してもらってたんですが——」

 その時、からんと音がして、店の扉が開いた。

「ちわーす」

 噂をすればミズコシである。服装は昨日と同じだ。マスターが片手をひょいと上げる。

「ミズコシくんいらっしゃい。久しぶりだね」

「そうだっけか? ここ最近ちょっくら立て込んでんだよ、おかげさまで」

 クオンがミズコシを手招きする。

「ミズコシ、ちょうど良かった。今、データが消えたって話をしようとしてたところなんだ。その後どうだ?」

「いやー、復旧にはまだまだ掛かりそうだわ、アレ」

「直るのか?」

「んー、どうだろうな。いろいろやってっけどよ」

「あの……データが消えたって、どういうことですか」

 椅子から腰を上げたキッカが、強張った表情で言った。ミズコシがはっとしてクオンを見る。

「あぁ、彼女が例の、データを持ってきてくれた——」

 最後まで聞かないうちにクオンの肩をぽんと叩くと、ミズコシは急に真面目な顔を作り、キッカに向き直った。

「どうも初めまして、ミズコシです」

「あ、どうも……タチバナです」

「下の名前は?」

「キッカ」

「キッカちゃんね、よろしく」

 そう言ってにぃっと笑い、右手を差し出す。

「あ、はい」

 キッカはつられてその手を握る。後ろでソウマがどことなく憮然とした顔をしている。

「そう、あのメモリーチップな、データ消去の特殊プログラムが仕込まれてやがったんだよ。元々の暗号化データに、けったいな暗号数列が被さっててよ」

 川島医師が立ち上がる。

「暗号数列だと?」

「あんたが川島センセイか。センセイ自身はあんな面倒なことしねぇよな。何か心当たりはねぇか。あのデータを簡単に見られねぇように、見られたとしてもすぐ消去されちまうように仕組んだ奴のよ」

「……モリノくんか。まさか、そんなことまで……」

「モリノ?」

「あぁ、ケイイチくんから連絡があってすぐに相談した相手だ。この計画は全てモリノくんと打ち合わせて決めた。タチバナくんがメモリーチップを持ち出した直後、私はモリノくんに拘束され、彼の裏切りに気付いたんだ。データをコピーした後のメモリーチップの保管場所は、私とモリノくんしか知らなかったはずだ」

「じゃあそいつで間違いねぇな」

 ソウマが口を挟む。

「……道理で、おかしいと思ってたんだ。俺がモリノさんからタチバナの銃殺命令を言い渡された時、データについては何の指示もなかったんです——情報漏洩の案件だと聞かされてたにも関わらず。でも、そんな細工がされてたというなら納得できる。モリノさんはタチバナを情報漏洩の犯人に仕立て上げて、殺そうとした。恐らく、そうすることで博士を脅して、会社に縛り付けておくために」

 クオンが唸る。

「俺もあのデータが消えた時、何か裏があると思ったんだ。ソウマくんの言った通りだと考えるなら、確かに辻褄が合う。しかし銃殺命令とは酷いな……」

 キッカを見やると、彼女は再び椅子に腰掛け、唇に指を押し当てながら何かを考え込んでいた。

「タチバナさん、大丈夫か?」

「あぁ、うん、大丈夫です。……実は私も、引っ掛かってることがあって」

「と言うと?」

 キッカはソウマに目を向ける。

「なぜモリノさんは、ソウマに私を追わせたんだろう」

「それは俺じゃないとお前に対抗できないからだろ」

「もちろんそれもあるとは思う。でも、だったらどうしてソウマが一緒にいるのを分かっていながら、あの怪物をけしかけたんだろう。私を殺したいだけなら、私一人の時にあれを送り込めば良かったはずなのに」

「まぁ、それは確かにそうだが……」

「巻き添えになっても構わないということだったのか、それとも——」

 キッカは正面からソウマを見据える。

「ソウマのことも殺すつもりだったのか」

 絶句するソウマに、キッカは言い添える。

「ソウマがモリノさんから私を監視するように言われたのが一週間前。そんなに前から布石を打ってた割には、私を追わせるための指示が妙に不明瞭だ。むしろ情報漏洩案件に掛かっているという意識が強ければ余計に、その指示を不審に思うのは当然でしょ。結果的にソウマは私を殺すのを思い留まった。モリノさんはここまで見越してたんじゃないかな。命令違反を犯したという建前があれば、処分しやすくなるだろうから」

「……何のためにだよ」

「さぁ……何か他にも狙いがあるのかも。博士への脅迫以外に」

 川島医師が険しい表情で口を開く。

「タチバナくん、今、怪物と言ったか……?」

「えぇ。今日の明け方、潜伏先にヘリで送り込まれてきたんです。岩のような身体をした怪物が」

「何だって? もう実働しているとは、私は何も聞いていないぞ……」

 クオンとミズコシは顔を見合わせる。

「先生、データが消える前に、中の映像を見ました。あの人体実験はどういうことですか? 一体何が起こってるんです?」

 クオンの問い掛けに、川島医師は絶望を吐き出すかのような深い溜め息をついた。

「私の恐れていたことが、とうとう動き始めている……」

「先生……?」

 それまで様子を見守っていたマスターがひょいと片手を挙げた。

「あのさ、おじさんからちょっとした提案なんだけどね。一回、話を最初から整理してみた方がいいんじゃないかしら」

「おっ、マスター。たまにはいいこと言うじゃねぇか」

「やだなぁミズコシくん、僕はいいことしか言わないよ」

 クオンは川島医師に向き直った。

「川島先生、お話を伺ってもいいですか。八年前のあの夜、何が起きたのかを。そして今まで、先生が何をしていたのかを」

 川島医師は、硬い、しかし心を決めたような表情で頷いた。

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