第43話 背中合わせの二人

 キッカは徒手で構えを作りながら、男を睨み据えていた。相手の攻撃を避けては距離を取る、防戦一方の状況がずっと続いている。

 今のところダメージは受けていなかったが、かと言って何か反撃の手がある訳でもない。間髪入れず繰り返される攻撃に、徐々に息は上がってきている。このままでは体力切れも時間の問題である。

 もう何度目かも分からない敵の蹴りを躱して飛び退すさる。充分な間合いを取ったキッカの真後ろに、虚空をひるがえったソウマが一瞬遅れて着地する。とん、と互いの背中が触れ合った。

 キッカは肩で息をしながら問い掛ける。

「状況は」

「微妙。左腕いった」

 答えるソウマの呼吸も荒い。

「どうにか動きを止めないと」

「だな」

 背中合わせの二人の対角線上に、それぞれの相手がじりじり迫っている。

「タチバナ、後で話がある」

「こういう時にそういうこと言う奴は大抵死ぬ」

 ソウマが、は、と短く笑い声を上げた。

「俺は死なない。お前も死ぬな」

「誰に言ってるの」

 敵が、向かってくる。二人は同時に床を蹴った。


 繰り出された突きを避ける瞬間、キッカはジャケットを脱ぎ去り、相手の頭部に絡めるように覆い被せた。男が俄かに動きを止める。

 キッカにとって、それは貴重なチャンスだった。しかしちょうどその時、川島博士を人質に取ったモリノがクオンに銃を向けているのが、視界の端に映った。

 まずい。

 男が顔に巻き付いたジャケットに手間取る間、三人のいる場所へと一気に距離を縮める。モリノがキッカの接近に気付いて身構えるより先に、その胴体へ回し蹴りを叩き込んだ。防弾ベストに衝撃を吸収されたものの、モリノの大柄な身体はぐらりと揺れる。彼の銃から放たれた弾丸は軌道が逸れ、壁に当たった。

 キッカはクオンに対して声を張る。

「博士を連れて逃げろ!」

「ありがとう!」

 クオンは素早く川島博士の手を引き、道すがら床に落ちていたコンバットナイフを拾い上げつつ、階段を目指して駆けていった。

「てめぇは人の心配してる暇なんてねぇだろうが!」

 体勢を立て直したモリノが発砲する。しかしそれより早いタイミングで懐へ飛び込んだため、弾は虚空を行き過ぎる。

 パーカーの襟首を左手で掴んで締め上げる。至近距離に、モリノの顔がある。

 その瞬間、抑えていた感情が、爆発的に沸き上がった。

——信頼していたのに。

 瞳に滾った激しい怒りの焔が、自分を陥れた男の目を灼き貫く。

「クソ野郎」

 そう低い声で吐き捨てると同時に、キッカは右の拳を握り締めた。万感の思いを込めて放ったアッパーは、モリノの顎にクリーンヒットする。骨の砕ける感触。巨体が軽々と宙を舞う。

 その身体が地に落ちる直前、ソウマの声が耳に入る。

「タチバナ後ろ!」

 はっとしてきびすを返す。すぐ背後に、ようやくジャケットを振り払った兵士が迫っていた。

 男は拳をキッカの頭部に振り下ろそうとするところだった。咄嗟に身を屈め、仁王立ちの両脚の隙間に転がり込むことでそれを避けようとした。だが左足首を掴まれ、逆さに引き摺り上げられてしまう。

 そのまま軽々と振り回され、勢いよく宙に放り投げられた。身構える暇もなく、キッカは壁際のスチール棚に背中から激しく叩き付けられる。棚からいくつもの瓶詰めが落下してくる。その一つが、けたたましい音を立てて割れた。

 背骨への衝撃に、キッカは身体を丸めて呻いた。揮発したホルマリン液が目や喉に浸みて、軽く咳き込む。

 そうこうするうち、滲んだ視界の端に男が迫ってくるのが見えた。


 クオンと川島博士が傍をすり抜け、地上へ続く階段を昇っていく。ソウマはそれを横目に認め、キッカに対して警告した後、相対する兵士の攻撃を避け、少し長めに距離を取って構えた。いつまで経っても埒が明かない。

 投げ飛ばされたキッカがスチール棚に激突して床に倒れるのが見えた。助けに行きたいが、そんな隙はなさそうだ。

——死ぬな。まだ俺の口から何も伝えちゃいないんだ。

 くすぶる気持ちを抑えて、相手を見据える。

 男が、ソウマを睨んでいた。ゴーグルの割れ目から覗く眼光は鋭い。小さく歯を食い縛り、頬の筋肉が僅かに動いている。その表情の変化から、相手もまた自分に対して苛立ちを募らせていることを知る。

 やおら、男が腰のホルスターから拳銃を抜いた。何発もの銃弾が、立て続けに撃ち込まれる。

「はぁ?!」

 思わず、素っ頓狂な声が漏れた。ソウマは素早く事務机の後ろに身を隠し、弾を避ける。その時に机の上から伸びるコードを腕で引っ掛け、それに引っ張られたノートパソコンが床へと落ちてくる。

 ソウマは舌打ちした。銃弾をも弾く強靭な皮膚と人間離れしたパワーを持ちながら、飛び道具まで使ってきた。一体どう太刀打ちしろと言うのだ。

 足許に、相手の放った弾丸が転がっている。何の変哲もない、先の尖った九ミリ弾用の弾頭である。あの男が使っているのは一般の帝国軍兵と同じベレッタM92なのだろう。

 ふと、脳裏に閃くものがあった。

 あの銃口に弾を撃ち込めば、暴発させることができる。銃弾を皮膚で弾くアニュスデイ兵と言えど、銃の暴発をまともに受ければさすがに何らかのダメージを喰らうのではなかろうか。

 見たところ、この距離で連射して一発も当てられないあの男の射撃の腕は然程のものではなさそうである。ただしこちらが静止しているとなれば話は別だ。自分に向けられた銃口を狙うことは、相手の的となることを意味している。一発で、しかも相手より早く決めなければならない。

 そんなことが可能だろうか。

 そう思うと同時に、ソウマの口許には不敵な笑みが浮かんでいた。胸の奥で何かがぞくりと動く。命のやり取りをする時の触れたら切れそうな緊迫感が、今この瞬間を生きているという確かな実感を与えてくれる。

 できるできないの問題ではない。やるしかないのだ。

 ソウマは床に落ちたノートパソコンに目を留めた。本体からコードを引き抜く。

 顔から笑みを消し、短く息を吐く。そして再び息を吸い込むと、意を決して事務机の陰から立ち上がった。


 距離を詰めた兵士が、倒れたキッカを蹴り飛ばそうとする。その瞬間、キッカは横たわった状態から腰を軸にして脚を回転させ、相手の足を引っ掛けた。男はバランスを崩し、スチール棚に衝突した。

 足払いの勢いを利用して立ち上がったキッカは、割れた瓶を手に取り、底に残ったホルマリン液を相手の顔に振りかけた。男が、小さく声を上げる。その隙にさっと後退して構えを作り、様子を窺った。

 兵士は両手で顔を押さえて、激しく咳き込み始めた。液が粘膜に滲みるのか、呻き声を上げながら悶絶している。『アニュスデイ』で強化された肉体でも構成物は普通の人間と同じなので、薬剤による攻撃は有効であるようだ。

 つんと鼻を衝く刺激臭が辺りに立ち籠めている。キッカ自身も目や喉にぴりぴりとした痛みが散っていた。自分もやられては本末転倒である。

 キッカは大振りの瓶詰めを手に、部屋の中央方向へ走って五メートルほど距離を取った。右手に抱え込んだ瓶を高く宙へと放り投げる。すぐさま銃を抜いて、放物線を描くそれを正確に撃ち抜く。ガラス瓶は相手の頭の直上で割れ、男は全身にホルマリン液を浴びた。くぐもった唸り声が男の口から漏れる。

 しかし薬剤による刺激だけでは大したダメージにはなり得ない。多少の身動きの自由を奪っても、致命傷を与えることができなければ意味がないだろう。

 その時、足許に何かが落ちているのに気付く。自分のミリタリージャケットだ。そのポケットに入っているもののことを思い出す。ジャケットを拾い上げてポケットを探ると、それは今朝そこに入れた時のまま収まっていた。

 マスターに借りたスタンガンだ。

 今、敵の全身を濡らしているのはホルマリン液——つまりホルムアルデヒド『水溶液』である。水は、電気を通す。濡れた衣服が皮膚に纏わり付いている今ならば、布越しでも電流が身体に伝わりやすいはずだ。

 男はまだ視力が回復していないらしい。キッカはスタンガンを手に、相手へと大股で接近した。


 ソウマは立ち上がりざま、手にしたノートパソコンを男に向かって投げ付けた。直後、ホルスターから素早く拳銃を抜く。それを両手で構え、相手を狙う。

 ほぼ一直線の軌道で飛んでいくノートパソコンが、互いの姿を一瞬隠す。男の銃口が連続で火を噴く。いくつもの銃弾を受けたノートパソコンは、相手に到達する前に破片を撒き散らしながら落下した。

 二人の間に、目隠しがなくなる。

 視線が、ついに目標を捉える。

 ノートパソコンを貫いて僅かに軌道の逸れた弾が、ソウマの頬を、腕を掠めていく。しかしそれに構わず、狙いを定めて引き金を引いた。

『アニュスデイ』によって進化した強靭な肉体にとって、発射時の反動はゼロに等しい。相手の銃口は弾丸を放った後も真っ直ぐソウマの方を向いていた。

 ソウマの銃から飛び出した九ミリパラベラム弾が、二人の間の虚空を切り裂いて飛ぶ。それはまるで吸い込まれるように、決められた場所へ戻るように、相手の構える同じ口径の銃口へと消えていった。

 一秒にも満たない、刹那の間の出来事だった。

 銃身を逆流した弾丸がマガジン内の弾を誘爆し、凄まじい音を立てて拳銃が暴発する。粉塵に包まれた巨躯はぐらりと蹌踉よろめき、とうとう床に倒れ伏した。


 キッカは右手に握ったスタンガンを、未だホルムアルデヒドの刺激に悶える男の胸部へと接触させた。スイッチを入れたその瞬間から、相手の大柄な身体は激しく痙攣を始める。

 濡れた衣服から皮膚へ、皮膚から筋肉へ、筋肉から神経へ。高圧電流が身体を駆け巡り、男の行動を封じ込める。

 スタンガンが当たっている箇所には激痛が走っていることだろう。男は目を見開き、口を大きく開け、声を出すことすら適わずに全身を細かく震わせている。

 そのまま五秒ほどが経過し、男が膝を突いた。普通の人間であれば大体このくらいの時間で昏倒するのだが、この男はまだ意識を保っているようだ。

 キッカはスタンガンを当てる位置を、胸部からうなじへと変えた。神経の集中する頸部へ、電極を接触させたまま更に五秒を数える。するとようやく、男は白目を剥いてその場にくずおれた。


 地下室の両端で、同時に銃声が響く。

 二人はそれぞれ、気を失った自分の相手の口に銃を突っ込み、数発の弾を撃ち込んだ。銃弾はアニュスデイ兵の頭部を内側から裂き、脳漿混じりの血が床の上に拡がった。たちまち鉄の饐えたようなむっとする臭いが部屋に充満する。

 キッカはゆっくり立ち上がり、ソウマを振り返った。するとソウマもちょうど、こちらを向くところだった。

 無言のまま、視線を交わし合う。小さく微笑んでみせると、ソウマもほんの僅かに口角を上げた。

 クオンと川島博士が階段を降りてくる。

「倒した……のか?」

 クオンが驚いた顔で地下室を見回す。

「口から頭を撃ち抜けば、こいつらはさすがに死にますよね? この前の過剰投与の怪物はそれでも動いてましたが」

 ソウマの問いに、川島博士は頷く。

「あぁ、それで大丈夫だ。しかし驚いたな、君たちには」

「どうにもショボい戦い方でしたけどね」

「いやいや、見事だった。経験の賜物だな」

 キッカは倒れているモリノに目をやった。彼は未だ微動だにせず、床に伏せている。それを認めてから、川島博士たちの方へと歩み寄る。

「博士はご無事ですか? クオンさんも」

「あぁ、私は無事だ。足を引っ張ってすまない」

「いや、先生があの人を牽制してくれたおかげで、僕は助かったんです。そうじゃなきゃやられてた」

 クオンが口の端に付いた血を親指で拭いながら言った。

「タチバナさんにも間一髪で助けられた」

「いえ、一昨日診療所で襲われた時に助けてもらったから。これで貸し借りなしです」

 軽く微笑んだクオンが、ふと首を捻る。

「そう言えば、あの人は?」

「あぁ、モリノさんならまだあそこに」

 キッカが部屋の奥へと顔を向ける。しかしそこにあるのは二台並んだ冷凍睡眠装置のみ。

「……え?」

 その手前に倒れていたはずのモリノは、忽然と姿を消していた。

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