第44話 侵された神の領域
なぜ、きちんと確認して拘束するなりとどめを刺すなりしなかったのか。後悔の念と共に、緊張が全身に
広い地下室をぐるりと見回す。冷凍睡眠装置、キッカが倒した男、手術台、事務机、ソウマが倒した男、ホルマリンの瓶が置かれた棚の列、地上へと続く階段。先ほどソウマが身を隠していた事務机を回り込んで裏側を覗く。モリノの姿はない。
次の瞬間。
壁際に並んだ棚の陰、ちょうど死角になっていた場所から、モリノが飛び出すように姿を現した。手にはあの古めかしい回転式拳銃。狙いは背を向けていたキッカだ。
銃声が耳を
「タチバナ!」
いち早く反応したソウマが、キッカに腕を伸ばす。気付けば、彼に押し倒されるような格好で横たわっていた。
ソウマが小さく呻き、顔を
「ソウマ……!」
「……かすり傷だ」
ソウマを支えながら身を起こしかけた時、束ねた髪を乱暴に引っ張られた。
「おい、どさくさに紛れてイチャつくな」
モリノがソウマの傷口を踏み
キッカは髪を掴まれて無理やり立たされ、こめかみに銃口を突き付けられる。
「あぁ、本当にお前らは最後の最後で詰めが甘ぇな。完全体を倒したのはマグレだったか?」
「モリノ、さん……」
髪を下向きに強く引かれてバランスを崩したところを、背後から左腕一本で抱き
モリノがキッカの耳に唇を押し当て、凄みのある低い声で言った。
「タチバナ、さっきはよくもやってくれたな。『自由を勝ち取る』だと? お前は死ぬまで俺の掌の上だ。逃がしゃしねぇよ」
ぞくり、と言い知れぬ悪寒が背筋を這い上る。銃口を捻じ込むように押し付けられ、キッカは歯を食い縛った。
「やっぱりあんたは背中を狙うんだな。しかも女性に手を上げる、最低の悪役だ」
クオンが抑えた声で言うと、モリノはそれを一笑に付した。
「こいつは男を
川島博士がかぶりを振った。
「モリノくん、もうやめるんだ。完全体の戦闘データは充分に取れただろう。二人を解放してくれ」
「……川島博士、『アニュスデイ』は素晴らしいですね。私もこいつらと一緒に接種しておいて正解でした。おかげでこいつに殴られた顎も痛みの引きが早い」
そう言って、キッカの細身の身体を更に締め上げる。肺ごときりきりと軋んで呼気が漏れ、痛みと息苦しさに涙が滲んだ。腰に当たったものの感触で、モリノが酷く興奮していることを知る。嫌悪感と恐怖が、瞬時に湧き上がった。
半身を起こしたソウマが、怒りに唇を
「おい、やめろ……」
モリノは嗜虐的な笑みを浮かべる。
「まだデータが足りねぇんだ。『アニュスデイ』が戦闘用生体義肢の性能を上回ったというデータがな。こんなこともあろうかと、準備しといて良かった」
モリノは銃口の位置を、キッカのこめかみから右大腿に移す。そして、何の
脚を貫く鋭い痛みが脳天まで
「ああああああ!」
堪らず、甲高く悲鳴を上げた。
膝から崩れ落ちたキッカは、ようやく解放されて突き飛ばされた。
「タチバナ!」
ソウマに受け止められる。そのまま抱きかかえられるような格好で、身を預けて脚を投げ出した。
「おい、大丈夫か? しっかりしろ」
「だ……じょぶ……」
肩で息をしながら、痛みの波が去るのを待つ。出血は思ったよりも少ない。額に脂汗を浮かべ、モリノに目を向けた。
二人を見下ろすモリノは、口許を凶悪な笑みの形に歪めた。
「よーく目に焼き付けとけ。自分たちを超える存在をな」
モリノが懐から何かを取り出した。
それは、一本の注射器だった。中には禍々しいほどの赤い液体が入っている。
居合わせた誰もが、息を呑んだ。
その液体こそ、少量なら怪我の回復を早め、過剰投与すれば人間を怪物へと変化させ、ある一定量で強靭な肉体を誇る完全体の兵士を作り出す化学兵器——
そして今も冷凍睡眠装置で眠るハルカを目覚めさせるための、唯一の可能性——
クオンが呟く。
「『アニュスデイ』……!」
モリノは銃を二人に向けたまま右腕の袖を捲り上げる。注射器のキャップを口で外すと、その太い腕に針を突き刺した。ピストンが押し下げられ、赤い液体が体内へと入っていく。
刹那、クオンが床を蹴った。コンバットナイフを手に、モリノに向かって突進する。
左手を伸ばし、注射器を掴む。それを引き抜きながら、ナイフをモリノの脇腹へと突き刺した。
銃声が響く。
クオンの身体がびくりと震える。モリノに蹴り飛ばされ、抵抗することなくそのまま仰向けに倒れた。
「クオンさん!」
「ケイイチくん!」
キッカと川島博士が同時に叫んだ。
クオンの左胸からは大量の血液が溢れ出していた。左手にはしっかりと注射器が握り締められている。川島博士がクオンに駆け寄り、しゃがみ込んだ。
「ケイイチくん……何ということだ」
「お、おい……」
ソウマに肩を揺すられ、モリノを見上げる。
モリノはクオンを撃った銃を放り出し、脇腹からナイフを生やしたまま、仁王立ちして薄ら笑いを浮かべていた。
次の瞬間、注射した右腕の筋肉がぼこりと膨れ上がる。その部分から波紋の拡がるが如く、モリノの身体はめきめきと音を立てて大きくなった。パーカーのファスナーが裂け、中に着ていた防弾ベストのベルトが引き千切れる。
モリノが咆哮した。それはまるで、満月を目にして変身を遂げる狼男のようだった。
キッカとソウマは同時に銃を抜き去り、即座に発砲した。しかし既にモリノの皮膚は硬化を終え、銃弾を弾いてしまう。仔羊から精製された細胞を身の内に取り込んだ狼男には、もう銀の弾丸すらも通用しない。
身体じゅうの筋肉が暴力的に盛り上がり、瞳に狂気を宿したモリノが、二人を見下ろして立ちはだかっていた。
キッカは身構えようとした。だが撃たれた右脚が言うことを聞かない。ソウマの右手が背中に回り、腋の下で支えられる。
「逃げるぞ」
正面を向いたままのソウマの呟きに、小さな声で同意する。
兵士との戦いで疲弊した身体が、ただただ重かった。その上この負傷した脚では、とてもではないが『アニュスデイ』で完全体と化したモリノに対抗する術はない。ソウマとて左腕をやられている。この状況で川島博士と倒れたクオンを連れて、ここから脱出する——残されていたのは、成功をイメージすることすらできない絶望的な選択肢のみだった。
モリノが一歩を踏み出す。まだ変化した身体のバランスに慣れていないような歩き方だ。
「掴まってろよ」
そう言われて、キッカはソウマの腰の辺りにしがみ付く。
それとほぼ同じタイミングで、モリノが走り出した。
ほとんど抱え上げられるような状態で方向転換して、階段へと向かう。しかしその途中、ソウマが何かに爪先を引っ掛けて
ソウマと共に立ち上がろうとしたが、間に合わない。
怪物じみた巨軀が迫る。硬く膨れた腕が伸びる。
モリノはソウマをキッカから引き剥がすと、鳩尾に拳を叩き込んだ。その身体は衝撃で吹っ飛ばされ、壁に激突する。ソウマは血を吐き出し、咳き込みながら床に這い
「おい、ソウマ。今から面白ぇもん見せてやるよ」
モリノはそう言うと、今度はキッカに向き直る。陰惨たる欲望に滾った目が、未だ動けずにいるキッカを捉えた。
「なぁタチバナ。俺はお前を、ずっと可愛がってやってたよな……」
一歩、また一歩。ゆっくりと近づいてくる。
「あぁ、夢みたいだ。まさかこんな瞬間が来るなんてな……」
三日月のような形に歪んだ口許。極上の獲物を手に掛ける悦びに満ちたその形相は、さながら悪鬼のようでもあった。
「あ……」
思わず、震えた声が漏れる。キッカは尻餅をついたまま後退った。
これから自分は、どれほど手酷く
今や恐怖は全身を支配していた。身体が竦み、逃げることも叫ぶこともできない。
「やめろ……やめろよ……」
ソウマの声はもはや懇願に近い。それを耳にしたモリノは、実に
モリノがいよいよ眼前に迫る。その手が、再びキッカの髪を掴もうと伸びてきた。両腕で頭を庇い、ぎゅっと目を瞑る。
静寂が、辺りに張り詰める。
覚悟した痛みは、いつまで経ってもやってこない。
恐る恐る顔を上げる。するとどういう訳か、モリノがぴたりと動きを止めていた。目は見開かれ、表情が硬直している。
ややあって、ナイフの刺さった脇腹からしゅうしゅうと煙のようなものが上がり始める。かと思えば、そこから紫色の血液がぼこりと噴き出した。途端に屍肉の腐ったような臭いが漂ってくる。
モリノは胸を激しく掻き毟り出した。空気を求めるように口をぱくぱくと動かしている。
「え……?」
キッカは戸惑いながら、モリノから距離を取った。床を這ってきたソウマが、キッカの身体を引き寄せる。二人は無言のまま、異変の起きたモリノの様子を注視する。
どう、と巨体が倒れた。背中を丸め、苦しそうに藻掻いている。目は充血し、喉の奥からは地鳴りのような唸り声が漏れ、伸ばした手が空を切った。
呼吸もままならず、大きく開いた口には大量の泡が溜まっていく。その身体は激しく痙攣を始め、顔面は色を失う。
しばらくその状態でのたうち回っていたモリノは、苦悶の表情を貼り付けて、やがてぴくりとも動かなくなった。
二人は顔を見合わせる。思いの外、至近距離で目が合った。互いにはっとして、慌てて身体を離す。
少し離れた場所にいた川島博士が口を開いた。
「……モリノくんの身体には、皮膚の硬化が始まる前にナイフが刺さっていた。『アニュスデイ』を体内に入れた直後からその傷の治癒が始まったことで、心臓に想定外の負荷が掛かったのだろう。何しろ前例のない二回目の接種だ。その影響は計り知れない」
少量を接種しただけのキッカですら、傷を受けた後に動悸がしたのだ。皮膚が極めて頑丈な完全体や過剰投与の怪物は、そもそも傷付くこと自体が稀であり、だからこそ心臓も動いていられたのだろう。
少し落ち着きを取り戻したキッカは、クオンを振り返った。
横たわったクオンの顔は既に血の気が引き、蒼白だった。足を高く上げるため、膝の下には川島博士の丸めた上着が差し入れられている。床に拡がった血液の量から、一刻を争う事態であることが窺い知れる。
「クオンさん!」
右足を引き摺りながらクオンの傍へと移動する。
ソウマが手の甲で口許の血を拭いながら言った。
「博士、救急車呼びます。携帯ありますか?」
「あぁ、これで頼む」
川島博士から手渡された携帯端末に電源を入れ、ソウマは電波状況を確認しつつ、僅かにふらついた足取りで階段へと向かう。
だがその時、一発の銃声が響いた。放たれた弾丸がソウマのすぐ足許の床を穿つ。
「なっ……!」
「戻りなさい」
かつん、かつんと、ヒールが階段を打つ音。
地下室へと下ってきたのは——紅い唇に冷たい笑みを浮かべ、右手に握った拳銃をソウマに向けた、
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