第45話 悲劇の終焉

 川島博士が、その名を呼ぶ。

「メイコ……」

「ここから勝手に出ることは許さないわ」

 ソウマがじりじりと後退しながら、ホルスターの銃に手を伸ばす。

「……怪我人がいるんだ」

「駄目よ」

 メイコは銃口をソウマに向けたまま、再び地下室の床に降り立った。その表情は冷徹そのものだ。

「ねぇ、せっかくの『アニュスデイ』も、案外大したことなかったわね。やっぱりこれまで通り戦闘用義肢を使った方がいいのかしら」

「あんたな……!」

「メイコ、もうやめるんだ」

「動かないで」

 銃口が川島博士に向く。その瞬間、ソウマが拳銃を抜いた。

「……ソウマくん、少し妻と話がしたい」

 川島博士に言われ、ソウマはしぶしぶ武器を下ろす。だが、メイコは相変わらず夫を狙い続けている。

川島カワシマ 征吾セイゴ博士。引き続き生体兵器の開発のため、会社に戻ってもらいます」

「断る、そう言ったはずだ」

「あなたも強情ね。もしあなたが戻るのなら、ハルカを最新設備の元で目覚めさせるわ。何ならこの戦闘用義肢の子たちの面倒も見てあげる。ちょっと、そこの人は助からないかも知れないけど」

 そう言って、倒れたクオンを顎でしゃくった。床の血液は今もじりじりと拡がりつつある。

「メイコ……なぜ、こんなことをするんだ。君は私の想いに賛同してくれているものだとばかり思っていた」

「私はただ、物資を提供していただけよ。技術があるなら然るべき道に活かさなきゃ。軍事力を強化することが平和への近道だわ」

「どうして……一言でも相談をくれなかったんだ」

「さっきも言ったけど、私の口からどう話をしたとしても、あなたは了承しなかったでしょう? 帝国軍政府に傾倒するうちの会社のこと、心底軽蔑してたものね」

「しかし……コウキが内戦で犠牲になって、私たちは心を一つにしたはずだっただろう。一人でも多くの命を救おう、と」

 コウキというのは、川島医師がここで病院を始める以前に内戦で命を落としたという、夫妻の息子——ハルカの兄のことだろう。

「だから、反乱軍さえ抑えられていたら、コウキは死なずに済んだのよ。軍政府の力が強ければ内戦も沈静化させられる。現に今は平和でしょう? 戦場近くでたくさんの症例をこなして技術の精度を上げられるのなら後々何かの役に立つかも知れないと思って、私はあなたを送り出したのよ」

 川島博士は強張った表情で妻を見据えた。

「君は間違っている。見なさい、この現実を。こんなに恐ろしい光景を作り出すものが平和になど繋がるものか」

 そう言って、倒れたモリノや兵士たちの方を示す。いずれも筋肉が不自然に膨れ上がった異常な姿で事切れていた。モリノに至っては凄絶な苦悶の表情を浮かべたままだ。だが、メイコは辺りに漂う腐臭にも動じない。

「大義を成すために多少の犠牲は付きものだわ」

「……どうしても相容れないな。まさか、君からこんな裏切りを受けるとは」

「裏切り、ですって? 先に裏切ったのはあなたじゃないの」

 メイコの顔が、どこか自虐的に歪む。

「……私が人質にされたと聞いても、会社への協力を断ったくせに」

 川島博士の瞳が初めて揺らいだ。

「いや、あの時は……私は胸の潰れる思いで……」

「言い訳は聞きたくない」

 その静かな美しい声は、ぞっとするような硬質さで辺りに響いた。拳銃を握った右手に、左手が添えられる。指輪のまっていない薬指は、第一関節から先が欠損していた。

 八年前、妻を人質に取られて、なおも戦闘用生体義肢の実用化実験を拒んだ川島博士の元に送られてきたという、メイコの指先。それは果たして、無理やり切断されたものだったのか、それとも自らの意思で切り取って送り付けたものだったのか。

「馬鹿な人。せっかく最高の頭脳を持っているのに、あなたは本当にどうしようもないほど愚直なのね」

 メイコの口から嘲笑が漏れる。

「楽しかったわよぉ。うちの会社に来てからのあなたは、本当によく働いてくれたものね。私のことをちらつかせさえすれば何でもやってくれたし、凄い成果も出した。私、ずっと見てたのよ。私を出世させてくれて、どうもありがとう」

 キッカは思わず腰を浮かせた。

「なっ……博士はあなたのために——」

 それを川島博士が制する。そして自分の左手の薬指にある指輪にそっと触れた。

「……この八年間、数ヶ月に一度送られてくる直筆の手紙だけが、君との唯一の繋がりだった。実を言うと、心のどこかで疑っていたんだ。本当は誰かが筆跡を真似てそれを書いているだけなのではないかと。君は——私の妻はもう、この世にいないのではないのかと」

 最愛の妻を、正面から見据える。焦がれるような、それでいて深い哀しみを帯びた眼差しで。

「君ともう一度会うことができて、本当に良かった。こんな形にはなってしまったがな」

 川島博士は淡い微笑みを作る。それは、ずっと信じていた大事なものに別れを告げる、訣別の笑みだった。

 静謐とした空気が辺りに張り詰めていた。誰一人、何一つ、動くものはない。歩みを止めているようにすら見えるこの時間を、しかし巻き戻すことは決してできない。

 メイコは口を噤み、唇を噛み締めた。眉根を寄せ、恨めしげに夫を睨み付ける。その頬は微かに紅潮していた。

「……今さら随分と調子のいいことを言うのね。そうよ、あなたが描いていたような理想の妻なんて、初めからこの世に存在しないのよ」

 目の端には、薄っすらと涙が滲んでいるようにも見える。

「もう遅いのよ、何もかもね。私とあなたは、決定的に分かり合えない」

「あぁ……そうだな。ところでメイコ、もうあまり時間がないんだ。私は彼を救わねばならない」

 川島博士がクオンを見やる。彼はまだ僅かながらも呼吸をしていた。

「待ちなさい。私から逃げることは許さないわ」

 メイコが銃を構え直す。川島博士は首を振った。

「そうじゃない。私は医者だ。目の前で死にかけている人を見捨てる訳にはいかない」

「そうやって、また私に背を向けるのね」

 視線が、膠着する。互いの瞳に映るのは、混じり合えない色ばかりだ。

「メイコ……」

 川島博士は小さく息をつくと、そっと両腕を広げた。

「……分かった。撃ちたいのならば撃てばいい。それで君の気が済むのならな」

 しん、と沈黙が横切っていく。誰も、口を聞くことができなかった。

 メイコの手にした銃が、小刻みに震えていた。右目から、一粒の涙が零れ落ちる。

「ねぇ、あなたって本当に——本当に、馬鹿な人」

 その言葉はまるで独り言のように響いた。受け手もなく宙にぽつんと取り残された余韻が、閑けさの密度を不意に高める。

 紅い唇が、小さく弧を描いた。

「さよなら、あなた」

 同時だった。

 引き金に掛かったメイコの指に力が込められるのと。

 川島博士がぎゅっと目を瞑るのと。

 キッカが手をついて立ち上がろうとしたのと。

 ソウマが川島博士を突き飛ばそうと一歩を踏み出したのと。

 一発の銃声が響く。

 誰も、咄嗟に対応できなかった。

 引き金を引くその瞬間、メイコが銃口を自分のこめかみへと移動させたことに。

 メイコの頭部から、血液と脳漿が飛び散る。小柄な身体は一瞬びくりと震え、そのまま横向きに倒れた。

「メイコ!」

 川島博士はメイコの元へ駆け寄った。しかし、積年の願いが叶ってようやく再会を果たした彼の妻は——恐ろしい悲劇を生み出した黒幕の女は——既に、事切れていた。

 がくりと項垂うなだれ、床に両手を突く。

「メイコ……すまない……」

 その言葉もまた、取り残されたまま地に落ちた。

 地下室に再び静寂が戻る。キッカははっとして、クオンの顔を覗き込んだ。

「クオンさん、しっかりして下さい!」

「救急車呼んでくる」

 ソウマが携帯端末を片手に、階段を昇っていく。

 立ち上がった川島博士が、キッカの隣に膝を突いた。

 クオンの蒼褪めた唇が震え、切れ切れの言葉を紡ぐ。

「……か、しま……先せ……」

「ケイイチくん、喋らなくていい」

 クオンが息をする度に、風穴の空いた肺から空気の漏れる音がする。

「これを……」

 そう言って、左手を僅かに動かす。そこに握られていたのは、モリノから奪った『アニュスデイ』の注射器だった。川島博士はそれを受け取り、目の前に翳す。真っ赤な液体は一センチほど残っていた。

「……ハル……に」

「分かった、ありがとうケイイチくん。これだけあれば充分だ。ハルカのことは必ず助ける」

 それを聞いたクオンは力なく微笑んだ。

「クオンさん、大丈夫ですか? 今、救急車呼んでもらってますから」

 キッカが声を掛けると、クオンは視線だけを動かした。その目が微かに細められる。

『ありがとう』と、そう言われた気がした。

 思わずクオンの手を握る。指先はすっかり冷えていた。

「……もうすぐ、ハルカさんに会えますよ」

「そうだ、目覚めた時に君がいなかったら、ハルカはきっと怒る」

 握った手がぴくりと動く。しかし呼吸は浅く、眉間に刻まれた深い皺が苦痛を物語っていた。

「博士、今何かできることは……」

「どうにかして出血を止められるといいんだがな……」

 キッカは川島博士の手にある『アニュスデイ』に目を留めた。ちらりとクオンの方を窺ってから、そっと口を開く。

「博士、例えばですが、それを……というのは?」

「いや、こんな状態ではますます心臓に負担が掛かって、却って出血を促しかねない」

「そうですか……」

 ソウマが階段を降りてくる。

「……救急車、早くても二十分は掛かるそうです」

「二十分……」

 この状況において、それは絶望的に長い時間だった。

 クオンが、喉の奥から絞り出すように声を出す。

「ハルカ、に……伝、て」

「え?」

「……ごめん、と……」

 はっとして、息を止める。

「何、言ってるんですか……」

 川島博士が唇を震わせる。

「駄目だ、ケイイチくん。そんな伝言は受け取れない。ちゃんと生きて、ハルカに会ってくれ」

 クオンがもう一度、微笑みを浮かべる。そしてゆっくりと、瞼が下りる。

「クオンさん? クオンさん……!」

 呼び掛けて、握った手を小さく揺らす。しかしもう、何の反応も返ってはこなかった。伏せられた睫毛の陰が、頬に色濃く張り付いている。

「嘘……」

 キッカは呆然とへたり込んだ。

 遠くから雨の音が聞こえる。頭の中にまで入り込んでくるその音が、まるでノイズのように思考を遮っていた。

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