第31話 忘れられない人

 ユナが身支度を終えて店に降りてくると、エプロン姿のマスターがフレンチトーストを皿に盛り付けているところだった。

「おはよう、ユナ」

「おはよ」

 まだ『揚村アゲムラ珈琲店』は開店前だ。住居スペースにはキッチンがないため、客のいない時は店のカウンターで食事を摂るようにしていた。

「今日のテスト、自信のほどは?」

 マスターがユナの前にフレンチトーストの皿とコーヒーカップを置きながらそう訊いてきた。ユナはげっそりした顔で溜め息をつく。

「いや、もう……始まる前から終わってるような……」

「でもちゃんと勉強してたんでしょ? 昨夜ゆうべ遅くまで電気点いてたもんね」

「んー……」

 本当はクオンのことであれこれ悩んで、ベッドに寝転がってめそめそしていたのだ。そのまま電気も消さずにいつの間にか寝落ちてしまい、はっと目を開けた時には明け方だった。当然、テスト勉強は手付かずだ。おまけに生理二日目で身体が重い。最悪の朝である。

 マスターがフライパンを洗いながら軽い調子で言う。

「まぁ、頑張ってよ。これで落第なんかしたら、お母さんに顔向けできなくなっちゃうからね」

「はーい……」

 泣きながら寝てしまったので、今朝は瞼が腫れて酷い顔だった。そのことに父は触れない。

 本当は全部気付いているんじゃないだろうか。ユナがクオンに片想いしていることも、昨日の話を立ち聞きしていたことも、そして一晩泣き明かしたことも。

 キッチンに立つマスターの姿を見やる。口うるさく思う時もあるが、料理上手で温厚な、自慢の父。病弱だった母親はユナを産んですぐに死んでしまったので、父が男手一つで育ててくれたのだ。

「ねぇ、お父さん」

「んー?」

「まだお母さんのこと、愛してる?」

「わっ!」

 グラスの割れる音が店内に響き渡る。マスターが洗い物の手を滑らせたのだ。

「なっ……いきなり何?! びっくりするじゃないの」

「ちょっとね。ふと気になっただけ」

「んー……まぁ、ねぇ」

 割れたグラスを拾い上げてキッチンペーパーで包む手許に視線を落としたまま、マスターはもごもごと言った。

「そりゃあもちろん、愛してますよ」

 照れたような父の様子に、自分で訊いておきながら少し恥ずかしくなってしまった。同時にどこか嬉しくもあり、こそばゆい気持ちを誤魔化すように、目の前のフレンチトーストを切り分け始める。

「ねぇ、でも、今まで再婚しようとか、一度もなかったの?」

 フォークに刺したパンの切れ端を口に運びながら、ユナは更に尋ねた。マスターは口髭を撫でながら、含み笑いの顔で言う。

「さぁ、どうだろうね。こう見えて僕、結構モテるんだよ」

「はいはい、気持ち悪いから」

「えー、その言い方酷くない? だんだんお母さんに似てきたんじゃないの」

 ユナは思わず噴き出す。良かった、笑えた。

 マスターが不意に遠い目をした。

「でも、何かあったとしても、お母さんのことを忘れたりはしないからね」

「ふーん、そういうもの?」

「そういうものです」

 それはどういう感覚なのだろう。フレンチトーストを咀嚼しながら、父の言葉を反芻はんすうする。メープルシロップがひどく甘い。それを苦いコーヒーで押し流す。

 その時、こんこん、と店の扉がノックされた。

「ん? 誰だろうね」

 マスターがカウンターから出て、扉を開ける。

「あれ、クオンくん? どうしたの、こんな時間に」

 どきんと心臓が跳ねた。その奥に、ずきりとした痛みが走る。

「すいませんマスター、朝早くに。あれからミズコシんちで徹夜作業して、シャワーと着替えで一旦こっちに戻ってきたんですけど……」

「……とりあえず、中入ってよ」

 そろりと店内に入ってきたクオンを見上げて、ユナは思わず息を呑んだ。

 朝の光に背を向けたクオンの顔が、色濃い疲労の陰に沈んでいたのだ。挨拶の言葉も忘れるほどに。

 ユナの視線に気付いたクオンが、力なく微笑んだ。

「あぁ、ユナちゃんおはよう。学校行く前の時間に邪魔してごめんな」

「い、いえ……」

 小さく首を振ってから、慌てて「おはようございます」と付け加える。

「まぁ、座ってよ。何かあった?」

 カウンターの中に戻ったマスターが、クオンの定位置にお冷やを置いた。クオンは軽く頭を下げ、その席に腰を下ろす。

「いえ、あの……あれからマスターのところに、タチバナさんから何か連絡入ったりはしてないですよね?」

「うん、何もないよ」

「そうですか……」

「彼女、どうかしたの?」

「……ちょっと、預かったものに問題が発生したので連絡を取ろうとしたんですが、携帯が通じなくて。その後も、何度掛けても繋がらないんです」

 クオンの表情が一層険しくなった。ユナとマスターは顔を見合わせる。

「キッカさんの携帯、電源も入ってないってことですか?」

「あぁ、そうなんだ」

「そっかぁ……それだとGPSで現在地を調べることもできないですね」

 クオンがはっとしてユナを見た。

「え……?」

「ほら、携帯のアプリとかでも、GPSを使って相手の位置が分かるから。あたしの友達は彼氏の居場所を特定するために使ってる」

 マスターの表情が硬直する。

「何それ怖い」

「あ、でもどのみち、両方の携帯に同じアプリが入ってないと使えないか」

 一方のクオンは目を軽く見開いたまま、じっとユナに視線を注いでいる。

「ユナちゃん……それだ、きっと」

「え、どれ?」

「俺たちが診療所にいた時、敵に襲撃されただろ? あれは、相手がタチバナさんの携帯の電波をGPSで辿ってたってことかも知れない。そうでなければ、あんなに正確な居場所を割り出して襲うことなんてできないだろうから」

「あぁ、なるほど。……えっと……?」

 首を捻るユナに、マスターが言い添える。

「つまり、彼女もそのことに気付いて、追跡を逃れるために敢えて電源切ってるかも知れないってこと?」

「そうです。俺、てっきりタチバナさんの身に何かあったんだとばかり思ってたんですが……そうか、まだその可能性があるんだ」

 クオンが大きく息を吐く。

「駄目だな、一人でいると悪い方にばかり考えが行ってしまう。どうにか無事でいてくれるといいんだが……俺が彼女を余計な面倒に巻き込んだようなものだから」

 独り言のような、気弱な口調だった。大きな身体がいつになく小さく見える。

 ユナはキッカのことを思い返してみた。強くて、美人で、立ち姿が凛として格好良い大人の女性。ふわりと微笑んだ顔は少し幼く見えて、意外に親しみやすい印象を受けた。

 ユナはクオンに向き直る。

「ねぇ、クオンさん。キッカさん、あたしにも約束してくれたでしょ。『また戻ってくる』って、笑った顔で」

 店を後にしたキッカの背中には、一切の迷いもなかったように思えた。

「多分ですけど……面倒に巻き込まれたなんて思ってたら、あんな風に言わないと思う」

「ユナちゃん……」

「だからきっと大丈夫。キッカさん、帰ってきますよ。うまく言えないけど……自分でちゃんと決めて、自分で進んで、ピンチになっても自分でなんとかできる人に見えたから」

 両手で握り拳を作り、強く頷いてみせる。

「信じましょう、キッカさんは無事です!」

 的外れかも知れない。空回りかも知れない。それでも、この優しい人をどうにか元気付けたかった。

 ユナに向けられた瞳が、僅かに揺れた気がした。

「……そうだな、今はそう信じるしかないんだよな」

 そう呟くと、クオンはふっと頬を緩めた。

「……すごいな、ユナちゃんは」

「え? 何が?」

「ついさっきまで先が真っ暗に思えて、本当にどうしようもない気分だったんだ。そんな時に、この店のことが頭に浮かんで……」

 クオンが、泣き笑いのような表情をする。

「ここに来て良かった……今、ユナちゃんに会えて良かった」

「えっ……」

 顔が、どんどん熱くなってくる。心臓の鼓動が早い。なんて顔して、なんてことを言うのだ、この人は。

 そわそわと浮き足立つような空気を、マスターの咳払いが横切る。

「あのー、お取り込み中のとこだけど……お嬢さん、時間は大丈夫?」

「え?」

 言われて壁の時計を見る。七時四十五分。

「あっ、いけない! 遅刻遅刻!」

 鞄を掴んで店を飛び出そうとするユナに、マスターが声を掛ける。

「ユナ! トースト咥えてかなくて大丈夫?」

 いつの時代の少女漫画だ。振り返って父を睨む。

「もう! 人が慌ててるのに、下らないこと言わないで!」

「ははっ!」

 膝を叩く音。クオンに笑顔が戻っている。良かった。胸の中に温かいものが拡がっていく。

 クオンがユナに向かって片手を上げる。

「行ってらっしゃい」

「はい、行ってきます!」

 元気よく返事をして店を出ると、白い光に出迎えられた。少し冷たい澄んだ空気が、肺の奥にまで浸み渡っていく。いつもの平和な、秋の朝の匂いだ。

 その瞬間、なぜだか泣き出したい気持ちになった。

——クオンさん。

 自分とは全く違う世界に住む人。想像を絶するような、辛くて暗い過去を持つ人。忘れられない、忘れてはいけない大切な相手を、心の中にいだく人。

 だけど、ユナの言葉で笑ってくれた。会えて良かったと言ってくれた。

 瞼の裏で、クオンの笑顔が揺れている。心の中の傷は生乾きのままだ。

 無理やり顔を上げて、一歩を踏み出す。今日もまた、日常が始まる。

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