第30話 窓の下の約束
キッカはソウマと共に、徒歩で会社のビルのある区域に接近していた。バールは目立たぬよう背中に差し、モッズコートの中に隠してある。
普段から人通りの少ない道を選んで進み、薄暗い小路を抜けていく。建物の陰になっているマンホールを見つけ、何食わぬ顔でその傍に佇んだ。任務時は水道局が工事をしていないか下調べをするのだが、もちろんそのような暇はない。
ソウマが周辺に目を配りながら言う。
「ざっと見た感じ工事の立て看板もないし、水路を通るのに問題はなさそうだな。人もいないから、潜るなら今のうちだ」
「分かった」
キッカは慣れた手付きでマンホールの隙間にバールを挿し込み、
頭上の蓋が閉まると同時に、辺りは完全な暗闇に
「後を付いてくから、口頭で指示をくれ」
「了解」
かつて頭に叩き込んだ水路のマップを思い出す。あの時はまさか自分の会社に侵入することになろうとは、夢にも思っていなかった。
「ここから真っ直ぐ二百八十歩。そこを左」
「了解」
うっかり踏み外さぬよう、用心深く足を運ぶ。
下水特有の鼻を衝く刺激臭。ちょろちょろ流れる水音と、二人分の足音。肌に触れる生温い空気。身体は闇に融け、五感が研ぎ澄まされていく。
これまで何度となく経験してきた感覚だ。予め用意されたシナリオから逸れないように、いつも細心の注意を払って任務に当たっていた。
しかし今は、それとは違う種類の緊張感が身を包んでいる。混沌とした暗闇を切り裂きながら、先へ先へと行き急ぐ。未知なるものを畏れながらも心のどこかで待ち望むような、密やかな興奮にも似た感情が、全身の血潮をざわざわと騒がせていた。
指示した場所で左に折れる。
「ここから百五十歩先を、右に」
「了解」
最低限の会話だが、背中に感じるソウマの存在が心強い。
川島博士を救出する。眼前の目標はシンプルで明確だ。胸の奥に灯った熱が、再び強さを増していた。
やがて目的の場所に辿り着く。
「ストップ。ここから上」
地上へと続く梯子を昇り、蓋の継ぎ目にバールを挿し込んで抉じ開けた。
白い自然光に目が眩む。そこは既に会社の敷地内だ。
オフィス棟と研究棟をぐるりと囲んだ高い塀の内部、研究棟の裏手。念のため周辺に人影のないことを確認し、マンホールから這い出た。ソウマが後に続く。
タクティカルライトを左ポケットに仕舞い、バールを塀のすぐ下に置くと、キッカは抑えた声で言った。
「この位置から一歩でも庭方向に行くと、センサーに引っ掛かるから」
レーザーセンサーの装置は建物一階の壁の中央に取り付けられており、塀の内側の庭を監視している。赤外線が不審な侵入者を感知すると、管理室に警報が鳴り響くシステムだ。
二人は塀を背にして横歩きで移動し、建物の壁と塀の間の通路に入り込んだ。
コートの胸ポケットから腕時計を取り出す。
「今、七時四十分」
「いい頃合いだな」
ビルの入り口や窓には、それぞれ監視カメラが設置されている。しかしソウマにも話した通り、トイレの採光窓にだけはカメラが付いていない。
狭い通路を壁沿いに進んで、そこへ行き着く。二人はその窓を見上げた。
「あれか」
「そう」
それは地上二.五メートルほどの位置にあり、横長の形をしていた。サイズは高さ約二十五センチ、幅約百センチといったところか。
通路の幅は約一.六メートル。この壁面には、他に窓はない。よもやこの小さな窓を通って誰かが建物内に侵入することなど、想定されてはいないのだろう。
キッカは女子トイレ側の窓の下に立った。
「じゃあソウマ、肩車してもらっていい?」
「……おう」
ソウマはキッカの背後でしゃがみ、両脚の間に頭を入れ、太腿に軽く手を添えながらゆっくりと立ち上がった。視点がぐっと上昇する。だが、ガラスを破るためにはまだ高さが足りない。
「もう少し上げて」
ソウマはキッカを、膝の下辺りで支えて押し上げた。キッカは脚を伸ばし、太腿に力を入れて身体を安定させる。ようやく窓が目の前に来た。
左ポケットから取り出したマイナスドライバーを、ガラスとサッシの隙間に挿し込む。位置を変えて三撃を与えると、ぴしりと小さな音だけを立てて、ガラスはいとも簡単に砕けた。窃盗犯がよく用いる、三角割りというガラス破りの手法である。その割れ目から手を入れてクレセント錠を下げ、窓を開け放つ。
ソウマの肩の上に座り直し、声を掛ける。
「下ろして」
ゆっくりと視点が下がり、地面に足が着いた。立ち上がったソウマは、乱れた髪を手で直し、無言のまま細く長く息を吐き出した。
「ごめん、重かった?」
そう問い掛けると、ソウマは視線も合わせずに言った。
「いや、問題ない。それにしてもあんな窓、本当に通れるか?」
「通るしかない」
理論上、頭と肩さえ抜ければ全身通れるはずだ。約二十五センチという幅は、キッカの体格でぎりぎり抜けられるかどうかというところだろう。コートの分もあるので、少し厳しいかも知れない。
「……気を付けろよ」
「うん、いろいろありがとう。ソウマが来てくれて助かった」
「やめろよ、お前が素直だと気持ち悪い」
その失礼な物言いに、キッカは小さく口角を上げて肩を
「俺は水路で待機してる。いいか、八時十五分までに戻ってこい。それ以上は待たない」
その言葉が、周囲にしんと余韻を残す。
二人は数秒の間、じっと視線を交わし合った。
男女の仲ではない、友人ですらない、だが特別な環境で長く共に過ごしてきた者同士の、身の内に根を張る確かな連帯。それは時々、グレネードランチャーを発射しつつ四階から落下するタイミングを相談なしに合わせられるような、信頼関係にも似た形を取る。それこそが彼とのベストな距離感であるはずだ。
キッカはにこりともせずに口を開く。
「了解。バールは外に出しといてくれると助かる」
「分かった。念のためそのドライバーをくれ」
八時十五分に間に合わなかった場合の想定だ。向こう側のマンホールから出るだけなら、これで蓋を開けられる。頷いて、マイナスドライバーを手渡した。
「それじゃあ、また後で」
キッカはソウマに背を向け、塀から壁までの距離や窓の高さをもう一度確かめた。壁蹴りすれば、あそこまで上がれそうだ。
流したままの長い髪が邪魔にならぬようにフードを被った時、再びソウマから声が掛かった。
「タチバナ、そのコートは貸してるだけだからな」
その双眸が、いつになく真剣にキッカを見つめている。
キッカは怪訝な表情をしかけた。だが、次の瞬間にはソウマの言わんとすることを理解し——
思わず、噴き出した。
「うわ、ソウマってそういうこと言うタイプだったんだ……!」
口許に手を当て、軽やかな笑い声を零す。
ソウマは一瞬、不意に虚を衝かれたような顔をした。しかしその後すぐに眉根を寄せ、視線を逸らす。
「うるせぇよ……」
なおもくすくすと笑い続けるキッカに、ソウマは憮然とした様子だ。その頬は若干紅潮しているようにも見える。
キッカは笑いを噛み殺しながら言う。
「分かった。無事に戻って、このコートは必ず返すから」
「……くそ、もういい。さっさと行け」
ソウマが虫を払うような仕草で掌をひらひらさせる。案外、可愛い一面があるものだ。
どうにか笑いの衝動を鎮め、キッカは表情を引き締めた。
「じゃあ、行ってきます」
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