第29話 追い縋る過去と、進むべき道
その日、学校から帰ってきたキッカを出迎えたのは、ナショナル・エイド社の総務部の担当者だった。三十過ぎに見える、硬い表情をしたその眼鏡の男とは、つい先日も顔を合わせたばかりだ。
施設の応接室のテーブルを挟んで、男はキッカの正面に座っていた。その隣には滅多に顔を見せない理事長が並んでいる。一方でキッカの隣には担任の女性職員がいた。それぞれが沈痛な面持ちだ。部屋に張り詰めた空気は重い。
一週間前に送り出した妹に、何か良くないことでもあったのか。
「妹さんのことですが」
キッカの心中を読んだように、担当の男がそう切り出した。
「手術自体は成功したんですが……その後、運悪くウイルスに感染しまして」
「はい」
キッカは小さな声で返事をした。胸がざわざわと騒いでいる。
「どれほど用心していても、時々こういうケースはありまして……担当医師も手は尽くしたんですが、残念ながら妹さんは——」
どくん。心臓がひときわ大きく脈打つ。
「昨日の午前中に、息を引き取りました」
「……え?」
世界から、音が消えた。
担任の手が背中に当てられた。彼女は啜り泣いていた。
「インフルエンザ脳症、というものをご存知でしょうか」
目の前に座った男が、妹の病状や死に至るまでの経緯などの説明をし始めた。
しかし何をどう説明されても、どこか遠いところに音が集積されていくだけで、何一つ理解できなかった。理解することを、頭が拒んでいた。
妹は生まれつき右手が不自由だった。それがある日、ナショナル・エイド社の全額負担で手術を受けられることになった。
ナショナル・エイド社が経営するこの児童養護施設では、病気や障害などに対してそのようなサポートが受けられるのだと、担当者から説明された。手術の同意書には、知らないうちに理事長のサインが入っていた。
出発の前日、妹と二人で近所の神社に出掛けた。お参りをして、御守りを買った。手術が無事に済むようにと。
そして僅か十歳の妹は、元気に施設を出ていった。
そう、元気だったのだ。右手こそ不自由であっても。
帰ってきた妹は、ただ眠っているだけのように見えた。長く濃い睫毛に縁取られた瞼が今にも開いて、いつもの調子でキッカに笑い掛けてくれるのではないか。そう思えるほどに。
妹の名を呼んだ。何度も何度も。しかしもう二度と、妹が返事をすることはなかった。
保健省勤めだった両親が内戦の巻き添えで死んでから、姉妹二人で生きてきた。親の顔も覚えていない妹の親代わりであろうと、小さな手を引き、ぴんと背筋を伸ばして歩いてきた。
でも実際はキッカ自身もまだ子供で、手術の同意書にサインする権利はなく、それを拒むという選択肢すらも与えられはしなかった。同行を申し出たが、授業に遅れを取れば奨学金の審査に影響が出ると、やんわり諭された。気付けば幼い妹はキッカの手から引き離され、遠い場所で知らぬうちに冷たくなっていたのだ。
哀しかった。悔しかった。無力な自分が情けなかった。弱かった。子供だった。たった一つの大切なものさえ守ることもできなかった。
キッカがもっと大人だったら、妹は死なずに済んだかも知れない。あるいは何か声を上げていれば、無理やりにでも同行していたら、結果は違っていたかも知れない。
いくつもの仮定や選ばなかった行動のその先が、浮かんでは消えた。
最後に妹と何気なく交わしたとある約束のことを思い返すと、胸が引き千切れそうに痛んだ。今となってはもうどうしようもないことだと、自分に言い聞かせて、忘れようとした。
大人になれば、力があれば、強く居られるのだろうか。心を揺らさず、傷付かず、一人でも歩いていけるのだろうか。
答えてくれる者は、誰もいなかった。
この日からキッカは、天涯孤独の身となった。
■
はっとして目を開けた。最初に視界に入ったのは、膝の上に垂れた、サイズの合わないコートの袖から覗く自分の手だった。
すぐ右隣のかなり接近した位置に、なぜかソウマの顔がある。距離にして、握り拳二つ分ほど。男のくせに睫毛が長い。
瞳に淡い感情の切れ端を宿したソウマの表情は、しかし次の瞬間にはすうっと無になった。さっと手を引っ込めたように見えたのは気のせいか。
咄嗟に状況が飲み込めず、ゆっくりと瞬きをする。
「随分うなされてたぞ」
ソウマが運転席に座り直しながら、妙に平坦な声でそう言った。
いつの間にか眠っていたらしい。出発しようと助手席に移動して、エンジンが掛かったところまでは覚えていたが、それからの記憶が曖昧だった。また『アニュスデイ』の副作用か。
こめかみを揉もうと顔に手を添えると、頬が濡れていることに気付いた。ぼんやりしていた頭が急速に冷えていく。
……最悪だ。
目許を隠すように両手で額を押さえ、大きく息を吐き出す。
つまり、眠りながら泣いているところを見られていたのだ。先ほどのソウマの様子が意味することを、何となく察する。
「……大丈夫か?」
そう掛けられた声は、思いのほか柔らかい。
「あぁ、うん……ごめん……」
もう、本当に、こういうのは勘弁してほしいのに。
「なんか、寝言も言ってたぞ」
「えっ、嘘」
「いや、本当」
……穴があったら入りたい。
「『アヤメ』って」
今度はキッカの表情が無になる番だった。しばらく、無言の時が流れる。
手の甲で涙を拭い、髪を指で梳いて軽く整える。目を瞑り、静かに一回深呼吸をして、瞼を開けた。
「……昔の夢を見てた」
「そうか」
「今何時?」
「もうすぐ七時」
既に日は昇り、辺りは随分明るくなっていた。
「ここ、どこ?」
「会社の近くだ。ちょっと前に着いてたんだが、お前寝てたから」
「ごめん、もう目が覚めた」
これ以上その話題に触れられないよう、有無を言わさぬ口調でそう言った。どうにもならない過去を振り返っている暇などない。
車は小高い山の林道に停まっていた。朝日の方角を向けば、木々の間から見慣れた街並みが覗く。中でもひときわ背の高いのが、ナショナル・エイド社のシミズ支社のビルである。
「ソウマ、博士が拘束されてるとしたら、どこだと思う?」
「研究棟じゃないか? この件はまだ社内でも公にされてない。誰かに見られるリスクを冒して、オフィス棟まで博士を連れ出すことは考え難いだろ。博士はいつも研究棟に籠りきりだからな」
確かに、白衣姿の川島博士がオフィス棟にいたら、それだけで目立つ。博士が拘束されたのが昨日キッカの早退したすぐ後だと考えるなら、人の出入りのある業務時間中は尚更だろう。
「公にされてないということは、警備体制はいつもと同じ?」
「あぁ、普段通りだよ」
「警備員は三交代制だったな。次の交代は確か七時半」
「じゃあ、侵入するならその後だな」
キッカは頷く。せっかく警備員を黙らせても、すぐに交代の者が来てしまっては意味がない。
「今から出れば、時間的にはちょうどいい。まだ始業前で人も少ないだろうし」
ナショナル・エイド社では時間外労働が厳しく管理されている。そのため、始業時刻より一時間以上早く出社する社員はほとんどいない。
「どうやって侵入するつもりだ?」
「いつも通り、下水かな。前に任務で、会社の敷地内のマンホールを使ったことがある。その時に周辺の水路は一通り確認したから、道は覚えてる」
「レーザーセンサーはどうするんだよ。あれで庭も監視してるだろ。正面玄関のある面と裏口のある面、二台あったはずだ」
「それが、あのマンホールの位置だとぎりぎりセンサーの範囲外なんだ。敷地内に入ったらセンサーの届かない壁伝いで移動する。トイレの窓には監視カメラもなかったはず」
「窓って、あの明かり取りのか? あんなところから入れるか?」
「いろいろ考えたけど、あそこしかないんだ。私の体格だったら何とかなると思う。通常の警備体制なら、管理室さえ押さえれば後はどうにでもできる」
ソウマがキッカを見据える。
「……本当に行くのか」
「うん。……本当は自分で分かってるんだ、ソウマの言ったことが正しいって。わざわざ殺されに行くようなものだって。でも、今行かなかったら、きっと一生後悔する。自己満足かも知れないけど、もう
何も持っていなかった自分に与えられた光と、それが照らし出す道。何が待ち受けていたとしても、前に進むのみだ。
ソウマは盛大に溜め息をつき、舌打ちをした。
「……あの窓の下、足場も何もなかっただろ」
「車の後ろに伸縮式の梯子があったでしょ。あれを持っていけば……」
「あんなもの、縮めた状態でも八十センチ近くあるぞ。それじゃあさすがに目立ち過ぎるし、水路に出入りするにも邪魔だろ」
「まぁ、そうだけど」
「仕方ないから踏み台くらいにはなってやるよ」
「え?」
キッカは一つ瞬きをした。ソウマはすっと目を逸らし、眉根を寄せる。
「何が『肚は括った』だ。失敗するリスクが目に見えてある状態で作戦を開始するのは、ただの無謀な馬鹿だ。勝手にしろと言いたいところだが……それを分かっていながら見過ごすのは俺のポリシーに反する」
チュンチュン、と雀の鳴き声が耳に入る。つまり、付いてきてくれるということらしい。
——なんて面倒臭い男だろう。
そう思ったが、正直助かるので、しおらしい表情でぽつりと言った。
「……ありがとう」
「礼を言われる筋合いはない。さっさと準備するぞ」
二人は車を降りると、ハッチバックを開けた。キッカはタクティカルライトとマイナスドライバーをコートの左ポケットに入れ、バールを手に取る。
「ついでにこれも持ってけ」
ソウマから渡された予備の拳銃は、右ポケットに収めた。下ろしたショルダーバッグから腕時計を取り出し、胸ポケットに仕舞う。
ソウマは見るからに目立つレッグホルスターを外して拳銃をワークパンツの腰の後ろ部分に捻じ込み、もう一本あったタクティカルライトを太腿のポケットに入れた。
ハッチバックを閉め、ドアを施錠する。微かに潮の匂いが混じるひんやりした空気が、身を包んでいた。
「意外と冷えるな」
ソウマの上半身は、黒っぽい薄手の長袖ニットだけだ。キッカは自分の着ている彼のコートの胸許を押さえた。
「あ、ごめん……」
「いやいい、問題ない。行くぞ」
会社のビルをもう一度見下ろし、二人は足を踏み出した。
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