ch.6 真実と迷い

第32話 一人きりの潜入作戦

「じゃあ、行ってきます」

 ソウマに別れの言葉を告げたキッカは、助走を付けるために通路を少し戻った。そして一つ深呼吸をすると、勢いよく走り出した。

 右足で地面を踏み切り、左足で塀を蹴る。細身の肢体が軽やかに宙へと舞い上がる。先ほど開け放った窓の枠にしがみ付き、まずは両脚を建物の中へと挿し入れ、棧に腰掛けた。

 コートの裾を気にしつつ、身体を滑り込ませる。案の定、まずは尻の部分でつっかえた。腰を浮かせるようにして無理やり捩じ込む。

 続いて胸が引っ掛かる。今や脚は宙ぶらりんの状態で、腕の力だけで体重を支えていた。

 ソウマの声が耳に入る。

「大丈夫か?」

「ん……あと、胸が……」

「……おう」

 息を詰めながら身をよじる。バランスが不安定なのが、どうにもやりづらい。それでも何とか頭まで抜け切ると、どさりとトイレの床に着地した。

 腕の筋肉が悲鳴を上げていた。無理やり狭い採光窓を通ったせいで、全身をあちこち捻ったように筋が痛む。今までで一番野暮ったい侵入方法である。だが、成功は成功だ。

 さて。

 この研究棟には、正面玄関と管理室に一人ずつの警備員が配備されている。当然、人の出入りの多い表側を通らずに移動しなければならない。

 また、ビル内には要所要所に監視カメラが設置されている。その映像はこの棟自体の管理室のモニターに映し出される他、隣の棟の管理室とも互いにリンクしているのだ。つまりカメラに不審な行動が映ってしまったら、オフィス棟の警備員も駆け付けてくるということである。

 どうにかしてモニターを誤魔化す必要がある。最初の目標は、この建物内の管理室だ。

 トイレから管理室までは比較的近く、その間に監視カメラは一台のみ。ここでどうしても姿が映ってしまう。清掃用具入れを覗いてみたが、変装できそうなものはない。

 しかし、とキッカは思考を巡らす。管理室に詰めている警備員は、どちらの棟も一人ずつだ。たった一人で、数多くのモニターをリアルタイムで隈なく見張るのは不可能だろう。あれはどちらかと言うと、何か異常があった時に後から録画映像を確認するためのものだ。とりあえずは、よほど目立つ動きさえしなければ、気付かれることはないだろうと踏んだ。

 トイレを出て、何食わぬ顔でカメラの下を通過する。廊下の横手にある管理室のドアに辿り着き、それを躊躇ちゅうちょなく開ける。

 管理室では勤務交代したばかりの若い警備員が一名、こちらに背を向けて座っていた。彼は突然の訪問者に驚いて立ち上がり何か言いかけたが、言葉を発する前にキッカの掌底をまともに顎に喰らい、あっさり気絶した。

 管理室の壁の一面にはたくさんのモニターが並び、研究棟内の監視カメラの映像を映し出している。まだ始業まで一時間以上あるので、そのどれにもほとんど人の姿はない。

 その一つに、この研究棟に不似合いなスーツ姿の男が映っていた。見知った顔——特別情報課の同僚だ。彼が立っているのは、川島博士の研究室の扉の前だった。

 川島博士は自分の部屋に軟禁されている。キッカはそう確信した。ただし、部屋の中にモリノがいる可能性も否めない。少なくとも他のモニターの中にはモリノの姿はなかった。どうであれ博士がそこにいるのなら、救出に向かうだけだ。

 警備員のいたデスクには、一台のパソコンが設置されている。キッカはそれを操作し、監視カメラ映像の録画データの一覧を呼び出した。各データを二分程度に区切り、それをリピート再生するようにセットする。こうすればモニターには録画映像のみが映し出されることになる。しばらくはこれで誤魔化すことができるだろう。ついでに自分が映り込んでしまった映像を消去する。ほんの二秒程度だったが、念には念を入れた。

 撤退時に備えて、建物外部のレーザーセンサーもオフにした。これで帰りは難なく扉から外へ出ることができるはずだ。

 キッカは足許に倒れている警備員の手首を機材のコードで後ろ手に縛り、事務机の脚に括り付けた。命まで奪う必要はない。要は川島博士を連れて脱出するまでの時間稼ぎができれば良いのだ。


 管理室を出ると、人と鉢合わせる可能性の低い階段を選んで、川島博士の部屋のある五階まで一息に駆け上がった。

 階段ホールの出口の陰から廊下の様子を窺う。突き当たりにある川島博士の部屋の前には、監視映像で確認した通り、同じ課の同僚が立っていた。

 キッカは小さく息をつくと、意を決して廊下に進み出た。床を蹴り、一気にトップスピードに乗る。突然現れた不審者の正体に気付いた男が、目を見開いた。

「おまっ……タチ——」

 しかし、彼が身構えるより先に距離を縮め、鳩尾に右の拳を叩き込んだ。彼は息を詰まらせ、腹を押さえて前のめりの姿勢になる。昏倒させてしまわぬよう、敢えて手加減したのだ。

 蹌踉よろめく男の腕を引き、素早く背面に付く。後ろから相手の首に左腕を回し、掴んだ腕を捻りつつ、唇を耳に寄せた。

「モリノさんは」

 低い声でそう囁くも、男は答えない。キッカは彼の口を左手で塞ぐと同時に、股間に右手を伸ばして力任せに握り締めた。男の身体が激しくびくりと跳ね、押さえた口から悲鳴が漏れる。

 手を緩め、今度はそれを優しく撫で上げた。

「もう一度訊く。モリノさんは、この中にいる?」

 大事な部分が潰される恐怖から、同僚は震えながら首を横に振った。どうやらモリノは不在らしい。

「ありがとう」

 キッカは再び男の首に腕を回し、そのまま絞め落とした。彼を抱えた状態で、扉をノックする。

「——はい?」

 中から聞こえたのは、間違いなく川島博士の声だ。

 キッカは扉を押し開け、気絶した同僚と共に部屋に入り込んだ。男の身体を床に横たえて扉を閉めると、フードを取って一礼する。

「失礼します」

「タチバナくん……!」

 川島博士が、驚いたような顔をキッカに向けていた。今しがた同僚から聞き出した通り、モリノの姿はない。

「川島博士、ご無事ですか」

「あ、あぁ……私は無事だが……タチバナくんの方こそ無事か? 一体どうしてここへ?」

「えぇ、無事です。博士、久遠クドウ 慧一ケイイチさんをご存知ですね。ハママツ自治区で彼に会い、お預かりしたメモリーチップを渡しました。そしてクドウさんからの依頼で、博士を助けに参りました」

 川島博士の緊迫した表情が、僅かに緩む。

「あぁ……ケイイチくんに会えたのか。それは良かった……ありがとう」

「いえ。ところで、モリノさんは?」

「モリノくんは今、帝国軍基地に行っているようだ」

 ソウマから聞いた通りだ。幸い、まだ戻ってきていないらしい。

「タチバナくん、モリノくんのことだが……」

「博士を拘束して、私に追っ手を掛けたのはモリノさんですね?」

「あぁそうだ、知っていたか。まさかモリノくんがこんなことをするとは……君にはとんでもない迷惑を掛けることになってしまった。本当にすまない」

 川島博士の眉間の皺が深くなる。そこに刻まれた心労の影は、昨日会った時よりも一層色濃い。

 キッカはかぶりを振った。

「いえ、大丈夫です。博士、今すぐここを出ましょう。警備員に気付かれるのも時間の問題です」

 そろそろここの研究員たちが出社し始める頃合いだ。その時間帯になっても監視モニターに人気ひとけのない研究棟の様子が映り続けていたら、さすがにオフィス棟の警備員も不審に思うだろう。

 部屋の外へと促そうとするキッカを、川島博士は制した。

「いや、待ってくれ。私はここを動く訳にはいかないんだ」

 キッカは眉根を寄せる。

「どうしてですか? このままここにいたら、会社の思う壺です。何のためにあのデータを外部に漏らしたんですか」

「……君に銃殺命令が出ていることは知っているね。君だけでも早く逃げるんだ。逃げて、生き延びるんだ」

「何を仰ってるんですか、博士」

「頼む、行ってくれ」

「川島博士!」

「……すまない、タチバナくん」

 川島博士はデスクに両手を突き、額を擦り付けるように頭を下げた。声が震えている。

「博士?」

「私は……私は、君を……」

 視線だけがキッカに向けられる。その目は充血し、酷く揺らいでいた。

「私は君を、欺いていたんだ」

 その言葉に、胸の奥を冷たいものが過っていく。

「博士、それは一体どういう……」

 川島博士はキッカを見据えたまま、ゆっくりと口を開いた。

「君の妹さん——タチバナ 絢芽アヤメさんを殺したのは、この私なんだ」

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