君の声がきこえる④
翌朝、もやもやした気分のまま家を出た。冷たい空気が頬を掠めていく。だが、少し前と比べて日差しは随分柔らかくなってきていた。そろそろ春も近い。
アパートのゴミ捨て場に可燃ゴミの袋を置いていると、背後から声が掛かった。
「おはようございます」
振り返れば、白いスポーツウェア姿のキッカがその場駆け足でそこにいた。束ねた長い髪が軽やかに揺れている。彼女は近所に住んでおり、この道をジョギングコースにしているのだ。
「キッカさん、おはよう」
キッカは足を止め、耳からイヤホンを外し、コードを携帯端末にくるくると巻き付けながら言った。
「クオンさん、ミズコシさんから連絡ありました? 今度皆で飲みに行こうって」
「あぁ、連絡があったというか、この前ミズコシと飲んだ時にその話になったんだ」
「そうなんだ。ハルカさんも来られます? 一昨日会った時は随分と体調良さそうだったけど」
「あー……いや、実は——あの後ハルカ、倒れたんだ」
キッカがぱちりと瞬きをする。
「えっ……嘘」
「今もまだ入院してて」
「……元気そうに見えたのに。大丈夫なんですか?」
「一時は心停止したんだが、今はもう安定してるよ」
「心停止? そんなに心臓に負担が掛かるなんて……もしかして、どこか悪いんですか?」
「あ、いや……」
ぽりぽりと頭を掻く。まだこの段階において、軽々しく誰かに話をする状況ではない。だが、どうにも整理できない気持ちが心を揺らす。迷った末、キッカになら言っても大丈夫だろうと判断し、
「実は、ハルカ……できたんだ」
そう言って軽く下腹部に手を添える。キッカは小さく目を見開き、頬を緩めた。
「そうなんですか? おめでとうございます」
「うん……ありがとう」
曖昧な笑みを返す。
「予定日はいつ?」
「ん?」
「いつごろ生まれるんですか?」
「あー……今、八週目らしいから——」
「……今年の秋ぐらいってことか」
秋に、赤ん坊が生まれる。それを上手くイメージできない。
「でもそうなると、心臓のことはちょっと心配ですね」
「そう……そうなんだよ」
キッカの言葉にはいつも無駄がない。決して論点がズレることはなく、短いやり取りの中にも気遣いがある。
だから、ついつい口が滑ってしまった。
「命を危険に曝してまで、子供を産むのは……」
分かってもらえるものだと、汲み取ってもらえるものだとばかり、思ってしまった。
だが、キッカの顔が瞬間的に強張って、思わずぎくりとする。
僅かな間の後、キッカが静かに口を開いた。
「……ハルカさんは、何て言ってるの」
「えっ……と、俺に『どうしたらいいか』って」
「それで、何と答えたんです?」
「……『ハルカの身体が一番大事だ』と」
ハルカを思い遣って選んだ言葉のはずだった。紛れもなく、本心だった。
キッカがほんの少し眉根を寄せたように見えた。その微かな表情の変化に、責められているような気分になる。
「それで、ハルカさんはどうしたいって?」
ケイイチは口許を隠すように拳を当てる。言われてみれば、まだそれを聞いていなかった。ハルカ自身が話題を変えたからだ。そうさせたのは——他でもないケイイチだったのかも知れない。
キッカがこめかみを押さえた。そして軽い溜め息と共に吐き出す。
「えーと、クオンさん」
「……はい」
長い睫毛がそっと伏せられる。
「この話、私は何も聞いてないんで」
平坦な声に、口を噤む。思い悩んでいたとは言え、デリケートなことをうっかり漏らしてしまった自分の弱さと無神経さに恥ずかしくなってくる。
怜悧な視線がケイイチに向いた。
「……ちゃんと、ハルカさんと話して」
「はい……すみません……」
ケイイチは思わず小さくなった。この年下の女性は常に凛然としていて、甘えを許さない雰囲気がある。けれども、何に対しても公正で、信頼できる人だ。
キッカは携帯端末に巻いたコードを解き、再びイヤホンを耳に挿す。
「じゃあ、私はこれで」
幾分柔らかな口調でそう言って、ジョギングを再開する。すれ違いざまにケイイチの肩をぽんと叩いて、軽やかに走り去っていった。
ぴんと背筋の伸びた美しいフォーム。その後ろ姿に、声を掛ける。
「キッカさん!」
束ねた長い髪を
「ありがとう!」
ケイイチが片手を上げて礼を言うと、彼女はにこりと微笑んだ。朝日を弾く
仕事を早めに抜けさせてもらって、病院へと向かった。日没が迫る西の空は、限りなく白に近い青色とごく淡い橙色が混じり合っている。ハルカと初めて想いを通じ合わせたのも、ちょうどこのくらいの季節だった。
病室では、ハルカがベッドの上で身を起こして文庫本を読んでいた。自宅から持ち込んだ荷物には着替えと日用品しか入れていなかったので、売店で買ったのだろう。
「おかえりなさい……って言うのは変ね。お疲れさま、ケイイチさん」
ハルカの様子はいつも通りだ。声のトーンも普段と同じである。
「あぁ、うん……ただいま。調子はどうだ?」
「もうすっかり元気よ。明日には退院できるって」
「そうか、それは良かった」
ハルカが家に戻ってくる。『日常』が再開する。だが、これまで以上に気を遣って生活しなければならないはずだ。直面した問題から目を逸らす訳にはいかない。
「なぁ、ハルカ——」
「ねぇケイイチさん、お腹空いてない? そこの菓子パン食べていいよ」
「いや、大丈夫だ」
「そっか。もうすぐ夕飯の時間なんだけど、ここのご飯少なくって。退院したら、何か美味しいもの食べたいな」
「そうだな」
ハルカは妙に明るい声で続ける。だが、その目は何もない空間に向けられていた。
「冷蔵庫の中身、大丈夫? 急に家を空けたから、肉とか魚とか期限切れちゃってない?」
「……どうだろうな、分からないよ」
「ねぇ、明日——」
「ハルカ」
肩を掴むと、ようやく視線が合った。ハルカは口許を笑みの形にしたまま、僅かに俯いた。少しの間があり、ぽつりと口を開く。
「……今日ね、産科の検診を受けたの」
そう言ってベッド脇の棚の引き出しからハガキほどのサイズの紙片を取り出し、ケイイチに手渡した。
それはモノクロのエコー写真だった。黒い楕円の中に、小さな白い点がある。
「そのちっちゃい点が、赤ちゃんの心臓だって。ぴょこぴょこ動いてた」
「……うん」
「あのね、ケイイチさん」
ハルカが、真っ直ぐにケイイチを見つめる。小さく唇を開きかけ、しかし一旦それをぐっと噛み締める。しばらく意を決したように
「産みたいの」
凛とした芯の強さを感じる、揺るがない意志を湛えた瞳。それはケイイチに、遠き日の記憶を呼び起こさせた。あの時、初めて彼女に惹かれたのだ。
その眼差しを正面から受け止め、力強く頷く。
「うん」
ハルカの瞳が揺れる。瞼が伏せられ、静かな深呼吸が零れる。そして、少しだけ顔を上げた。
「……でも、本当に大丈夫なのかな。私、無事に赤ちゃんを産めるのかな。今までですら、あんまり無理できなかったのに。また心臓が止まったらどうしよう……」
唇が震えている。
「またケイイチさんにたくさん迷惑掛けちゃうね。我儘言ってるって、本当は分かってるの。自分の命のことを考えるなら……諦めた方がいいんだってことも」
きっと、今日一日ずっと、そのことを抱え込んでいたのだろう。自分の身を案ずるケイイチの気持ちに、胸を締め付けられながら。
「ハルカ」
ケイイチはハルカの顔を覗き込んだ。
「……毎朝、怖くて堪らないんだ。君がまた目を覚まさなかったらどうしようって」
『川島病院』の地下室でコールドスリープから目覚めて、隣の装置を確認した時のことを思い出す。眠ったままのハルカの白い顔。あの時感じた絶望が、未だに何度でもフラッシュバックする。
柔らかな栗色の髪にそっと手を置く。
「毎朝、ほっとするんだ。今日もハルカが生きてるって」
「うん……」
ハルカの表情が強張った。口許にぎこちない笑みが浮かぶ。
「そうやって毎日、何の変哲もない『日常』を、びくびくしながら確かめてた。昨日と同じように今日が続くこと、そればかりを願ってた。でも——」
小さな新しい命を腕に抱いて、優しく微笑むハルカの姿を脳裏に描く。
「俺たちに子供が生まれるなら、明日を楽しみにして眠りに就けるかも知れない。ずっと先の未来のことを考えながら、毎日を過ごせるかも知れない」
「ケイイチさん……」
自分に向いたハルカの瞳。そこに映っているのが同じ未来であればと、切に願う。
「迷惑、掛けてくれていい。どんな我儘で振り回してくれたって構わない。ハルカはもう、俺の人生の一部なんだ」
ケイイチはその場に
「ハルカ、結婚しよう。家族になろう」
それは二度目のプロポーズだった。
一度目は八年前のあの日、コールドスリープの直前。きっとハルカには届いていなかっただろう。でも、今度は確実に届いた。八年の時を経て。
ハルカの目に、見る見る涙が盛り上がっていく。そしてついに、一粒の雫が頬を伝った。
「……順番が逆になったけどな」
そう呟くと、ハルカが小さく噴き出した。その笑い顔は、すぐにくしゃくしゃの泣き顔へと変わる。
「ケイ……チ、さ……」
次から次へと、涙が溢れて滑り落ちていく。両の手で口許を抑え、声にならない返事を漏らし、何度も何度も頷いた。
ケイイチは立ち上がり、ハルカを抱き締めた。
心臓の音が聞こえる。自分のものなのか、ハルカのものなのかは分からない。
だけど、確かに生きている。今、この時、この場所で。二つの心臓が、未来に向かって力強く鼓動していた。
■
——クドウさん、クドウ・ケイイチさん。おはようございます。あなたが目を覚ましてくれて嬉しいです。
カーテンから漏れる白い光で、ケイイチは今日も目を覚ます。
隣に眠るハルカは、小さな寝息を立てている。
もう少し寝てもいいかな、と思う。
起こされるなら、君の声がいいから。
きっとこれからも、繰り返し繰り返し続いていくんだ。
甘やかな『あの日』の余韻に、ケイイチは再び目を閉じた。
―君の声がきこえる・了―
無神論者たちの唄 陽澄すずめ @cool_apple_moon
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます