君の声がきこえる③

 川島医師が集中治療室から出てきたのは、ハルカがそこに運び込まれた三十分後だった。彼は現在、区立病院に勤務している。ハルカの蘇生措置がなされた後、容態を確認するために呼ばれたのだ。

 廊下のベンチに座っていたケイイチは、その姿を見て弾かれたように立ち上がった。

「先生、ハルカは……」

「うん、今は落ち着いているよ」

 口許を笑みの形にしてしっかりと頷く川島医師に、ケイイチは一先ずほっと息をついた。しかしその表情に依然として緊張の糸が張っていることに、一瞬遅れて気付く。

「命に別条はないが、心臓に少し負担が掛かり過ぎているようだな」

「あ……」

 昼間のハルカの様子を思い出す。『揚村珈琲店』へ続く坂道を上るのに、随分と無理をしていた。

「すみません、僕が付いていながら」

 ケイイチは恋人の父親に対して思わず頭を下げた。やはりあの時、無理やりにでも車椅子に座らせるべきだったのだ。

「いや、ケイイチくんのせいじゃない。応急処置が適切だったおかげで、大事に至らずに済んだんだ。ところで、さっき血液検査を行なったんだが……」

 川島医師が、そっと伺うような口調になる。

「ケイイチくん、ハルカから何か聞いているか?」

「え? 何をです?」

「……いや、とりあえずハルカが目覚めるのを待とう。まずは私からあの子に話をするよ」

「そうですか……分かりました」

 胸の奥を、ひやりとしたものが通過していく。検査の結果が良くなかったのだろうか。

 川島医師が何を言おうとしたのか、もちろん気にはなった。しかし、それを追及することはできなかった。

 なぜなら自分は、ハルカの夫では——家族では、ないのだから。


 ハルカが目を覚ました後、真っ先に川島医師が彼女と話をした。その内容がケイイチに伝えられることはなかった。彼女は翌日の午後まで集中治療室で過ごし、心拍数が安定したため、一般病棟に移動となった。

 ケイイチが入院に必要なものを準備して戻ってきた時、ハルカは眠っていた。枕元の照明がその横顔を朧げに照らしている。顔色はあまり良くないが、寝息は静かだ。

 音を立てぬようにして荷物を棚に仕舞っていると、小さな声が耳に入った。

「ケイイチさん」

 驚いて振り返る。ハルカがこちらを向いていた。

「ごめん、起こしたな」

「ううん……今、何日の何時?」

 あれから丸一日が経過している。それを伝えると、ハルカは目を伏せた。

「……ごめんね、今日は仕事だったのに」

「そんなこと、全然何でもないよ。それより身体はどうだ? もう苦しくないか?」

「うん、今はもう大丈夫」

 そう言って、ぼんやりと天井を見つめた。しばらく黙り込んだ後、再び口を開く。

「ケイイチさん、ごめんね。迷惑掛けてばっかりで」

「何言ってるんだ。迷惑だなんて思ってないよ、気にするな。それより、俺の方こそごめん。昨日ハルカを無理させた」

「ううん、我儘言ったのは私だから」

「……楽しかったな、昨日」

「……うん」

 楽しかったのに。いつも通りの平和な一日だったのに。フォローのつもりで発した言葉が、却って寂しい余韻を作り出してしまう。

 沈黙を破る切っ掛けを探してあれこれ考えを巡らせるが、なかなか見つけることができない。気に掛かっていた、あのこと以外は。

 こんな雰囲気の時に訊かない方がいいのではないかと思ったが、他に何も思い付かなかった。その上、募っていくばかりの不安に耐え切れず、ケイイチは少し迷ってから極力軽い調子で切り出した。

「なぁ、そう言えば、川島先生さっき何て言ってたんだ?」

 一瞬、ハルカの瞳が揺れたように見えた。視線は天井を向いたままだ。

「ハルカ?」

 呼び掛けると、口許に僅かな笑みが形作られる。

「あのね、ケイイチさん……」

「うん」

「昨日、楽しかったね」

「……そうだな」

「無理のない範囲でなら、好きに過ごしてもいいって、お父さんが」

「それじゃあ、また行こう。昼は結構混むけどな」

「うん」

 三たびの沈黙。川島医師が、たったそれだけの話をわざわざしたとは思えない。胸のざわめきに急かされても、返答を待つことしかできない。

 ハルカが一つ大きく息をつく。

「あのね、ケイイチさん……」

「うん……」

 俄かに鼓動が足を速め、不安を掻き立てる。しかし、ハルカの口から出されたのは、予想もしない言葉だった。

「……赤ちゃんが、いるの」

 瞬きを一つ。

「……え?」

「私のお腹に」

 つまり。

「……えぇと……俺の子、ってことだよな?」

 ハルカがぱっとこちらを向き、ケイイチを睨んだ。

「他に誰がいるのよ」

「そうだよな、ごめん」

 混乱のあまり、馬鹿な質問をしてしまった。しかし、おかげで張り詰めていた気持ちが一気に緩んだ。妊娠したということであれば、むしろ嬉しいニュースだ。あの時の川島医師の態度も腑に落ちる。

「本当は、産科に行ってから話そうと思ってたんだけどね」

 多分、事前に自分で検査薬を使って確認していたのだろう。ほっとして思わず笑いが込み上げ、ハルカの手を取った。

「そうか、子供……はは、俺の子かぁ……いや、そうかぁ……ハルカ——」

「危険、なんだって」

 平坦な声が、ぽつりと落とされた。

「え?」

「今まだ八週目で、つわりもほとんどないけど……これまで以上に心臓への負担が掛かりやすい状態みたい」

「あぁ、なるほど……」

「長期のコールドスリープと『アニュスデイ』の影響がどのくらいあるか前例がないから何とも言えないけど、ハイリスクだってことは間違いないって。最悪、妊娠中や出産の時に私や赤ちゃんの命に危険が及ぶ可能性もあるって……」

 恐らく、川島博士の話はそれだったのだろう。

「ねぇ、私……どうしたらいい?」

 そう問われて、返事に詰まる。凪いだ水面のような瞳がケイイチを見上げていた。それがどうしてか、心の奥を波立たせる。

 子供はもちろん欲しいが、危険があると聞いて容易に「産んでくれ」とは言えない。昨夜のハルカの様子を思い出す。もうあんな思いはしたくなかった。

 ケイイチは言葉を選んで、できるだけ柔らかな口調で言った。

「……俺は、ハルカの身体が一番大事だよ」

「……そうね」

 今にも消え入りそうな声。そっと瞼が伏せられる。

「せっかく、ケイイチさんが起こしてくれたんだもんね。やっと一緒に暮らせるようになったんだから……」

 独り言のような、自分に言い聞かせるような呟きだった。

「あの、ハルカ——」

「ごめんなさい、また眠くなってきちゃった。ケイイチさんも、もう遅いから……今日は帰って休んで」

「いや、でも」

「明日も仕事でしょう? 私なら大丈夫だから」

 いつも通りの笑顔が向けられる。無理して笑っているのは明らかだったが、それ故に何も言えなくなってしまった。ケイイチに面倒を掛けまいとする強固な意志表示に思えたからだ。

「そうか……分かった。何かあったらすぐ呼んでくれよ」

「うん、ありがとう。おやすみなさい、ケイイチさん」

「……おやすみ」

 ぎこちなく笑みを返す。最低限の手荷物を持ち、ケイイチは病室を後にした。


 一人、自宅へと戻る。

 暗くひんやりした部屋は、電気を点けても寒々しく、やけに広々として見えた。

 キッチンから冷蔵庫の低い唸り声が聞こえる。普段は気にもならないそんな小さな音さえ耳につく。

 ハルカのいない空間が、胸をざわつかせる。

 もう一度ハルカを失うようなことがあったら。

 やっと手にした幸せが、再び崩れ去ってしまったら。

 果たして、自分は耐えられるだろうか。それでもなお、生きていこうと思えるだろうか。

 その答えは明白だ。けれども——

 先ほどのハルカの笑顔が脳裏にちらつく。ベッドに潜り込んで瞼を閉じても、それが消えることはなかった。

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