弔いの雨の降る⑤

「……誰か、なんか分かったか?」

 数時間に及ぶ沈黙を破ったのは、ミズコシだった。時刻は既に十時を過ぎている。

「まだです」

「……悪い。微妙にうたた寝してた」

「おい、ソウマくんよぉ……まぁ、気持ちは分かるけどよ」

 ミズコシ自身も盛大に欠伸を漏らす。ソウマが身体を伸ばしながら言った。

「いや、正直な話、俺この分野の専門でも何でもないからさ。治験データの中身なんて見たって、何がおかしいのかもよく分からないんだよ」

「まぁ、確かに……」

 一同、しばし黙り込む。

「……少なくとも今ある治験データはよ、ソウマの言った通りおかしいところは何もねぇよな? どの結果を見ても、低血圧による昏睡のことなんて一言も書いてねぇし」

 モニターには、薬の安全性を立証した第一相試験と、ガン細胞の縮小効果を示した第二相試験のデータが映し出されている。

「そうですね、この内容で専門の審査やら審議会やらをパスしてる訳でしょう。これ自体が偽装されてる可能性もありますね。実際この薬は申請を受けてから滞りなく手続きが進んだようです。……あれ?」

 キッカがマウス操作の手を止め、少し考え込んだ後、やや上目遣いにミズコシを見た。

「……すみません、あの……もしかしたら私の早とちりだったかも」

「ん? どうした?」

「この抗ガン剤の認可が下りたのが十六年前の六月。両親が死んだのは……その年の十一月なんです」

「殺されたのは承認された後ってことか」

「はい……すみません。この件じゃなかったのかも」

 キッカは申し訳なさそうに額を押さえ、小さく息をつく。

「いや、でも……その次の年には、新薬は出てないぜ」

 そう口を挟んだのはソウマだ。

「モリノさん、確かに新薬の承認の件でお前の両親を殺したって言ってたよな。この前後の時期を見ても、あの会社から出た新薬はこれだけだ。あの頃は内戦が激しかったから、そっち方面はあんまり力を入れられなかったんだろうな」

 うーん、とミズコシは唸る。

「他の製薬会社を見ても、あの時期の新薬発売は極端に少ねぇよな。新しい薬を開発するのに、随分コストと時間と人手が要るんだろうぜ」

 医薬品関連の独立行政法人のホームページを見ながらそう言う。そこには新薬の開発から発売までの手順が書かれていた。

「ん……?」

 ふと、ミズコシはある箇所に目を留める。

「……なぁ、治験のデータってそれだけか? これ見ると、第三相試験まであるみたいなんだが。もっと大規模に、多人数に対して行われる治験がよ」

「いや、臨床薬理部のデータベースにあったのも、申請関連として纏められてたのも、これだけだぜ。あの薬関連で集められるデータは全部集めたはずだ」

「あ、これ……」

 抗ガン剤の治験について調べたキッカが声を上げる。

「……抗ガン剤の場合は、第二相試験をクリアすれば承認されるみたい。それで第三相試験は、発売後に行われる」

 三人はそれぞれ顔を見合わせた。

「第三相、行われたはずだよな。使用者の十パーセントが昏睡状態に陥ったんだ。大規模に治験を行なったんなら、その中にも犠牲者はいたんじゃねぇかな」

「せっかく承認されたのに、そんな結果が知れたら認可が取り消される……」

「機密事項フォルダは、社員番号とパスワードさえあれば誰でも覗くことができる。そこに第三相試験のデータがなかったってことが怪しいな」

「……なぁキッカちゃん。そうやって治験データを誤魔化すような不正を指示したり管理したりすんのは、誰の役目だ?」

 キッカは唇に指を押し当て、静かな、しかし揺るぎない声で言った。

「……総務部」

「おし、じゃあもう一回、ちょっくら潜ってみっか」

 ミズコシは姿勢を正し、正面のパソコンに向き直った。

 決定的な真実に近づきつつある。彼女の命を奪った——ナショナル・エイド社の犯した罪に。その確かな手応えが、胸の奥で燃え続ける炎を一層滾らせる。

 静かに、深呼吸を一つ。それを最後に、周囲の音がすうっと消える。視界は極端に狭まり、目の前のモニターが全てとなった。


 キーボードに置かれた十指は、それ自体が意思を持つ生命体であるかの如く自在に動く。

 お馴染みとなった侵入経路。ナショナル・エイド社のイントラネットにするりと忍び込み、総務部のデータ貯蔵庫を目指す。既に自分の庭のようになったシステムの中で、難なくそこへと辿り着く。

 総務部で管理されているデータは、実に多岐に渡る。しかし社員なら誰でも閲覧できる場所には、目的のものはない。犯罪に関わるような、決して表沙汰にはできない情報の置き場が、きっと、どこかにあるはずだ。

 この広大な貯蔵庫の構造を確認すべく、ソースコードを表示させる。画面に展開された無数の文字列の上を、鋭敏な視線が這い回る。聞き取れないほどの小さな独り言が、ぶつぶつと口から零れ落ちる。

 思考回路が研ぎ澄まされ、溢れ出た脳内麻薬が余計な雑念を払拭する。身体は熱を持ち、一拍一拍の心音が自分自身のリズムを刻んでいる。目の前に拡がる広大な情報の海。この海の中ではどこまでも自由だ。迷うことなく渡っていくための標べは、自ら手を伸ばして求めなければならない。

 やがてミズコシは、巧妙に隠されたその入り口を見つける。整然と並んだコードの中で、そこだけ僅かな違和感があったのだ。

 それは、まさに『隠し部屋』だった。キッカやソウマが所属していた特別情報課の裏の活動記録や、不正な現金収受の帳簿など、犯罪に関わるデータの数々が纏めて管理されている。

 その部屋の中を、目的のデータを求めて歩き回る。まるで、電子情報によって構築された擬似世界に入り込んだかのような錯覚。五感の全てが冴え渡り、全神経が極限まで集中する。

 全方位に拡張された視覚が、淡く光を放つ情報の欠片を捉える。天性の嗅覚が、それが間違いなく目標物だと告げている。見失わぬうちにその端を掴み、自分の身の内へと取り込んで——


「ビンゴだ」

 ミズコシを現実の世界へと引き戻したのは、そう呟いた自分の声だった。

 ふと横を向けば、キッカとソウマが唖然とした様子でこちらを見つめていた。その表情がまたよく似ていて、思わず噴き出してしまう。

「おい、見つかったぜ、例のデータ」

「え——? 本当ですか?」

「完全にイッちまったのかと思ったよ。声掛けても全然無反応だからさ」

 そんなことを言いながら、二人はモニターを覗き込んでくる。ミズコシは入手したデータを展開し、画面をスクロールしていく。

「……あぁ、やっぱりそうだな。これ見てくれよ」

 表示されているのは、第三相試験の結果を記した報告書だ。例の薬を使った被験者の何人かが、血圧の急降下により昏睡に陥り、その後死亡したことが記録されていた。

「最初の犠牲者が出たのが、認可が出て発売が開始されたひと月後。次がその一週間後だ。それ以降もぽつぽつと死んでるな」

「なぁ、この薬ってそんなにすぐに影響が出るのか?」

「あぁ、そうみてぇだな……」

 彼女も、投与されてすぐに昏睡したのだ。

「……当然、会社はこの事実を隠蔽しようとした。私の父は何らかの方法で、それを知ってしまった……」

「ともかく、これさえあれば決定的な証拠になるはずだぜ。あの会社がこの薬の欠陥を知りながら、販売を続けるためにそれを隠してたってことがな。ついでに裏帳簿らしきもんも取ってきたから、これで保健省や関係機関への賄賂でもありゃ完璧だろうよ。ありがとよ、キッカちゃん」

「はい」

 はっきりと返事をしたキッカは、しかし堅い表情のままだった。その心中は計り知れない。明らかになった事実を、淡々と処理しようとしているようにも見える。

 当然と言えば当然かも知れない。彼女の父親がそんな事実さえ掴まなければ、また掴んだとしても知らぬふりを決め込んでいれば、両親とも殺されることはなかったのだから。簡単に受け容れられることではないだろう。

 ミズコシはぼりぼりと頭を掻いた。少し迷ってから口を開く。

「あのさ、キッカちゃんよ。親父さん、俺は立派だと思うぜ。あの会社から逃げずに、真実を突き止めようと戦ったってことだろ? なかなかできることじゃねぇよ」

「えぇ……そうですね」

 キッカは視線を落とし、口角だけを僅かに上げた。その横顔から、目を逸らせなくなる。

「……まぁ、そんなこと言われたって何の慰めにもなんねぇよな。でも、これだけは言える。キッカちゃんの親御さんがそうやって戦ってくれたおかげで、救われる奴もいるんだ。キッカちゃんがその意志を繋いだんだぜ。ありがとよ」

 その言葉で、キッカはやっと顔を上げた。

「いえ……両親がなぜ殺されたのか、知ることができて良かったです。ありがとうございます」

 じっとミズコシを見つめ、ほんの少しだけ微笑む。その瞳は心なしか潤んでいるようにも見えた。思わず、胸が詰まる。

 ……あ、ヤバい。この感じはヤバい。

 緩みかけた口許を拳で隠す。そっと視線を外し、うんうんと頷いて見せてから、いつものようにニッと笑う。

「おうよ。だから元気出しなって」

 そう言って、キッカの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。まるで子供にするみたいに。

「わ……やめてください、もう……」

 キッカが髪の乱れを直しながら、呆れた笑みを含んだ声で言った。

 ミズコシは時刻表示に目をやる。既に十一時近い。ぽん、と一つ手を打つ。

「よし、もう遅いし、二人はそろそろ帰んな。報酬のことはまた連絡すっからよ」

「はい、お疲れさまでした」

 キッカが先に席を立ち、荷物とコートを手にして玄関の方へと向かっていった。

 続いてゆっくりと腰を上げたソウマに、声を掛ける。

「ソウマ、キッカちゃん送ってってやれよ」

「……あんたに言われなくても分かってるよ」

 憮然とした表情のソウマは、更に不機嫌そうに眉根を寄せた。そして何か言いたげにミズコシを見据える。

 それを鼻で笑ってやった。

「おう、何だよ」

「……何でもねぇよ」

 吐き捨てるように言って、ソウマは顔を背けた。

 玄関に向かった二人の後に付いて、見送りに出る。

「じゃあな、気を付けて帰れよ」

「はい、おやすみなさい」

 キッカがどこか晴れやかな表情でそう言う。対するソウマは相変わらずむっつりとして、小さく肩をすくめた。

 二人が出て行った後、三和土に降りて扉の鍵を回し、大きな溜め息をついた。

——まったくよ。あんな顔で睨むくらいなら、始めっからちゃんとしとけよな。

 バス停へ向かう二人の姿を思い浮かべる。少し参っているキッカと、尻に火のついたソウマ。家まで送ってさようなら、などということになんてなるはずもない。

「あー……くそ」

 溜め息とともに思わず吐き出す。なぜお節介を焼くような真似をしてしまったのか。

 部屋に戻り、乱暴にベッドに横たわった。眼鏡を外し、「ぐぉぉぉぉ」と呻きながら身体を伸ばす。一気に全身の力を抜き、重力に身を任せた。

 こうして戦ったおかげで、救われる奴もいる——

 先ほどキッカに言った言葉は、自分に言い聞かせたい言葉だったのかも知れなかった。

 今さら何をしたところで、彼女が帰ってくる訳ではない。そもそも、この仕事を彼女の仇討ちのように意味付けするのはとんだ筋違いだ。

 分かっている。充分すぎるほど分かっている。

 自分はプロだ。受けた依頼を完璧にこなし、報酬をもらう。その結果として、誰かが救われるのなら言うことはない。……そう、思わなくては。

 起き上がって再びメッシュチェアに腰掛け、煙草に火をけた。一口目を肺の奥深くまで吸い込み、ゆっくりと吐き出す。

——今の俺の姿を見たら、あいつは何て言うかな。

 腑抜けだとか金の亡者だとか、ボロクソに言ってくる彼女を想像して、人知れず笑みを浮かべる。

 背もたれに身を預け、上向きに煙を吐く。それが天井にぶつかって消えてしまっても、ミズコシはしばらく上を見続けていた。

 やがて、ぽつりと口を開く。

「悪かねぇだろ、サキ」

 いつの間にか、雨は止んだようだった。


―弔いの雨の降る・了―

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