第41話 戦う理由
一歩ずつゆっくりと階段を下る、小柄な人影。上下揃いの白いジャケットとタイトスカートに身を包んだ、ショートヘアの女性だ。年の頃は五十代くらいだろうか。
キッカの背後で、川島博士が驚いたような声を上げる。
「メ……メイコ……?!」
「お久しぶりね、あなた」
メイコと呼ばれた女性はにっこりと微笑み、張りのある美しい声でそう応じた。
「博士、この方は?」
キッカが軽く振り返ると、川島博士は大きく目を見開き、彼女を凝視していた。
「……私の妻だ。しかし、なぜ……?」
川島博士の妻は、あの会社に人質に取られていたはずだ。
その問いに、モリノが答える。
「ご紹介しますよ。我らがナショナル・エイド社の、
キッカとソウマは互いに顔を見合わせ、戸惑いながらも同時に銃を下ろした。
川島博士は眉根を寄せる。
「常務、だと?」
「やっぱりご存知なかったのね。あなた、随分と忙しそうだったから」
メイコはどこか楽しそうに紅い唇を歪める。
「……どういうことか、説明してくれ」
「どうもこうも、一連のプロジェクトの総責任者は私なのよ」
「何だと……?」
『一連の』と言うのは、どこからの話なのか。
「まさか……アヤメさんのことや、あの襲撃事件もか」
「えぇ、そうよ」
「……どうして事前に言ってくれなかったんだ」
「私が言ったところで、あなたは聞く耳持たなかったでしょう?」
「しかし、あの襲撃は……ハルカも一緒だったんだぞ」
「そうね」
メイコは憐れむような表情を作る。
「あの子には可哀想なことをしたわね」
そう言って、絶句する川島博士に満足げに眺めた後、今度はキッカとソウマに視線を向ける。キッカに目を留めた瞬間、その瞳に冷ややかな色が
「あなたたちがそうなのね。話には聞いていたけど、実際にお目に掛かるのは初めてね。でもこんなに可愛らしい子たちだと、なんだか少し勿体ない気がしちゃうわ」
「常務、初めから決まっていたことですから」
「冗談よ」
ふふ、と軽い笑みが零れる。春のそよ風のように柔らかく耳朶を撫でる声。反面、その表情は驚くほど冷徹だ。
初めから、決まっていたこと。
キッカはモリノを睨み据える。
「……一体どういうことなのか、そろそろ教えて頂いてもよろしいですか」
「早い話がな、お前らはお役御免ってことだよ」
モリノが余裕めいた笑みを浮かべながら、ゆったりとした口調で言った。
「お前ら二人とも、死のうが生きようが後腐れのねぇ身の上だろ。むしろ生きてちゃ都合が悪いって人がいてな。被験体として役目を果たしたら、後は適当なところで廃棄処分しろってお達しだったんだよ、この『戦闘用生体義肢計画』の初めからな。『アニュスデイ計画』がスタートした今がその時ってことだ」
ソウマが首を捻る。
「生きてちゃ都合が悪い、とは?」
「ソウマ、お前の親父さんは私生児の存在がいつ世間にバレるかと、気が気でないそうだ。あの先生は国防省のトップの椅子を狙っていらっしゃるからな」
「……俺に父親なんていませんよ。会ったこともない。母親が死んでからはずっと独りで生きてきたんだ」
「どうかな。母親が死んだタイミングでお前の人生も終わりにならなかったことこそが、お情けで生かしてもらってるとは思わねぇか」
「頼んでねぇよ、そんなこと」
唸るように言ったソウマをモリノは鼻で笑い、今度はキッカに目を向ける。
「それからタチバナ。十六年前に死んだお前の両親——二人とも保健省勤めだったな。あれが本当にゲリラに巻き込まれたせいだと、お前は未だに信じてるんだろ?」
頭の中をひやりとしたものが横切っていく。
「……両親は何かの陰謀で殺されたとでも仰るんですか」
「あぁ、その通りだよ。お前の親は、うちの会社の不正の証拠を掴んじまったんだ。新薬の承認に関わる大事な案件だったんだよ。それでうちの課に『仕事』が回ってきたって訳だ」
今朝見た夢を思い出す。夜な夜な険しい表情で何かを話し合っていた両親の姿。キッカに対して「もし何かあってもアヤメを頼む」と言った父親。自分たちに、ではなく、「周りに甘えなさい」と微笑んだ母親。きっと彼らは予感していたのだ。自分たちの身に何かが起こるかも知れないということを。
モリノが歪んだ笑みを深くする。
「その件はな、タチバナ、俺の『担当』だったんだぜ」
徐々に心拍数が上がっていく。呼吸が苦しい。つまり、この男は両親の
メイコが口を開く。
「遺されたあなたたち姉妹は、うちの関係先の養護施設での管理案件となった。それで、戦闘用義肢の被験者として利用させてもらったのよ」
胸の奥に、ずきりと痛みが走る。メイコを睨み付けると、勝ち誇ったような笑みが返ってくる。
「お前は本当に呑気なお嬢さまだな。川島博士のことだって、自分が何をされたかも知らずに心酔し切ってたしな」
「モリノくん、それは——」
口を出しかけた川島博士を片手で制し、小さく頷いて見せる。心を乱したら相手の思う壼だ。細く長く息を吐き、口角を上げる。
「えぇ、自覚してます。馬鹿な女はお嫌いですか?」
「……は?」
「ここまで来るといっそ清々しいですね。悪役も
「……可愛げのねぇ女だな、お前は」
「それも自覚してます」
モリノの表情に微かな苛立ちが過る。メイコが笑い声を上げた。
「お嬢さんの方が一枚上手ね、モリノくん」
「……すみません」
メイコは川島博士に向き直る。
「『アニュスデイ』が完成してひと月くらい経った頃だったかしら。あなたから造反の相談があったことを、モリノくんから聞いたのは。ちょうどいいタイミングだと思って、私は被験者の処分をモリノくんに一任したの」
川島博士が唸った。モリノはメイコの言葉を引き継いで続ける。
「お前らの処分計画がスタートしてから、ついでにアニュスデイ兵の実戦テストをしろって注文が帝国軍からあったんだ。だがタチバナがあの完全体の兵士を倒したのは、軍のお偉方も想定外だったようだ。あいつは助平心が余計だったな。確かに、好きに殺していいとは言われてたみてぇだけどよ。……陵辱されるお前の顔、結構そそるもんがあったぜ」
隣でソウマがぴくりと反応する。彼に掌を向け、ごく小さく首を振る。
恐らく、兵士の暗視ゴーグルに内蔵されたカメラでモニターしていたのだろう。あの怪物ですらゴーグルを装備していたので、そうとしか考えられない。
あの姿を見られていた。胸の内がさざめき立つ。だがキッカはそれを、あの時と同じ淫魔の顔で隠し、艶然と微笑んだ。
「宜しければあなたもお相手しますよ、モリノさん」
「怖ぇ怖ぇ。
モリノは大袈裟に震えて見せる。
「それでだな、ビビった連中は、今度は超過投与の被験体も試せと言ってきた。それがちょうどソウマをタチバナの潜伏先に送り込んだ直後のことだ。ああいう奴らだから、ヘリに括り付けるのにも随分と手こずったんだぜ」
モリノが帝国軍基地に行っていたのは、恐らくその件だろう。
「だが、やっぱり理性のない怪物じゃ、いくら頑丈でも使い物にならねぇってことがよく分かったよ。もう、お偉方が大騒ぎでな。何せまだ成功例の少ない完全体がやられてる訳だろ? 俺としちゃ、どんな方法であれ最終的にお前ら二人を始末できれば何でも良かったんだけどな。情報漏洩だろうが、命令違反だろうがな」
モリノは肩を
「しかし、俺が軍部の連中の説得に時間食ってる間に、まさかのこのこ会社に戻ってくるとはな。おかげで後処理が大変だったんだぜ。川島博士のためとは言え、お前がそこまで愚かな女だとは思わなかったよ。ソウマも立場ねぇな」
ソウマが舌打ちするが、モリノは微塵も意に介さない。
「だが、よく侵入できたな、タチバナ。それだけは褒めてやるよ」
「……それはどうも」
「ま、常務のおかげでやっと軍部の許可も下りたことだし、今日はまた貴重な完全体を連れてきたぜ」
後ろに控える二名の兵士は、仁王立ちのままぴくりとも動かない。モリノはソウマとキッカを順に、実験用マウスでも見るような目で眺める。
「さぁ、戦闘用生体義肢 被験体01
地下室に張り詰めた空気に、微かな殺気が混じる。兵士たちのゴーグル越しの視線が、キッカとソウマを捉えている。
キッカは表情を正して、背筋を伸ばした。そして僅かな瞬きすらなくモリノとメイコを見据える。
「一つ、はっきりと分かったことがあります」
「……言ってみろ」
「私はもう、誰の所有物でもない」
涼やかな声が、凛と響いた。モリノが嘲笑する。
「おいおい、何を当たり前のことを言ってんだよ。もう誰もお前を必要としちゃいないんだよ。お前の命にはもう何の価値もない。それがどうしたって言うんだよ」
キッカは平坦な声で言う。
「ねぇ、モリノさん。私を掌の上で好きなように転がして、楽しかったですか? 殺したターゲットの娘を手許に置いてたなんて、いい趣味ですね」
「だったら川島博士だって似たようなものだろ。まぁ、親の仇討ちって話なら、受けて立たないでもないけどな」
モリノの瞳にどことなく下卑た色が映る。キッカは表情を変えない。
「いえ、どうせ私の家族はもう帰ってきません。怨恨のためにあなたたちを殺したって、何のリターンもありませんから」
そう、何をしたって死者は戻ってこない。それを受け容れない限り、前には進めない。
「じゃあ今のお前には戦う理由なんてねぇだろ」
「まさか」
キッカは首半分だけで川島博士を振り返った。
「川島博士、あなたが私を信頼して下さったこと、とても嬉しかった。だからこそ私は、あなたの力になることをお約束したんです」
そう言って、ふわりと柔らかく微笑んだ。作り物ではない、心からの笑み。その眼差しは、決して折れることのない、しなやかな意志を纏っていた。
川島博士の表情がくしゃりと歪む。
「タチバナくん……」
キッカは二人に向き直る。束ねた長い黒髪がさらりと揺れ、背筋に沿って真っ直ぐ下りた。
「やりたいことはやる。助けたい人は助ける。——約束は、必ず守る。誰かに消費される人生なんてもうたくさんだ。私は私の自由を勝ち取る。それが私の戦う理由です」
キッカを突き動かしていた盲信的なあの熱は、とうに潰えてしまった。だけど今、一度は凍て付きひび割れた心の奥底から、澄んだ光が漏れ出している。
素顔を隠して、偽りの人格を演じて、これまでキッカが必死に守り通してきたもの。
それは、穢れなき光を放つ、キッカ自身の魂だった。
その横顔に一瞥をくれたソウマが、端正な口許に不敵な笑みを形作った。
「同感だ、タチバナ。他人に自分の命の価値のことをとやかく言われる筋合いはない。黙って聞いてりゃ言いたい放題言いやがって」
ざっと髪を掻き上げ、短く息をつく。
「戦う理由なんてものは何でもいいんだよ。今だってな——」
相対するモリノを睨み据える瞳に、怒りに
「単にムカつく。ただそれだけだ。……あと、話長ぇよおっさん」
吐き捨てるような最後の言葉に、キッカは思わず噴き出した。
モリノの表情が再び無になる。
「揃いも揃って可愛げのねぇガキ共だぜ。いつまでその軽口を叩いていられるかな」
そしてメイコに声を掛けた。
「川島常務、ここはそろそろ危険になりますので、車でお待ち下さい」
「えぇ」
メイコは川島博士に目を向ける。
「あなたも一緒に来る?」
「……断る」
川島博士は断固とした口調で言い放ち、隣に立つクオンを見やって、小さく頷いた。
メイコの顔が一瞬、怒りに歪んだ。だが、すぐさま平静な表情に戻る。彼女は軽く息を吐いて
全ての元凶の女をこのまま行かせてなるものかと、拳銃を向けかける。しかしそれは、モリノによって遮られた。
「おい、変な気を起こすなよ。お前らの相手はこいつらだ」
後ろの兵士たちの殺気が更に膨れ上がる。
ぱたん、と院長室の扉の閉まる小さな音が聞こえた後、辺りは耳の痛くなるような静寂によって支配された。
まずは目の前の敵を倒さねば、どうにも動けないということだ。
モリノの冷たい視線が二人を射抜いた。
「さぁ、お別れの時間だ。最後の戦闘データ、期待してるぜ」
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