第40話 パンドラの匣の底

 一○五号室を出て、反対の端へと廊下を進む。途中、玄関ロビーに差し掛かると、キッカは見張りに立つソウマの方へ足を向けた。

「状況は?」

 振り向いてキッカの顔を見たソウマが、はっと表情を固めた。一瞬の間があり、小さく口を開く。

「……今のところ異常なし」

「了解」

 短く答えてきびすを返そうとすると、ソウマから声が掛かる。

「タチバナ」

「何」

「昨日は少し、言い過ぎた」

 そう言って、視線を逸らす。キッカはきょとんとして、一つ瞬きをした。

「あぁ……いや、おかげで目が覚めたから。私も少しおかしかったし」

「そうか」

 ひょっとして、朝からそれを気にしていたのだろうか。

「ソウマも一緒に来れば? こんなところでいじけてないで」

「は? いじけてねぇし」

 ソウマが不貞腐れた顔をする。つくづく面倒臭い男である。

 キッカはソウマの肩をぽんぽんと叩くと、唇に軽く笑みを乗せた。

「行こう」

 束ねた長い髪をひるがえし、クオンと川島博士の後を追う。ややあって、小さな返事が聞こえた。

「……おう」


 先に進んでいた二人が、西端の部屋の前で足を止めている。その扉には『院長室』と書かれたプレートが掛かっていた。部屋の主であった川島博士が、ノブを回して扉を押し開ける。

 そこは書斎のような雰囲気の部屋だった。壁一面をびっしりと書物の詰まった本棚が取り囲み、正面にはマホガニーの書き物机が置かれている。いずれも表面には厚く埃が積もっていた。

 クオンがやおら机の横に座り込んだ。そして床の木製タイルを動かし始める。よく見ると、その一部が少し浮いているのだ。タイルはごとりと音を立てて外れ、下への階段が現れた。

 川島博士が一番に降り、クオンがそれに続く。キッカがちらりとソウマを見やると、顎を傾けて先へと促す仕草が返ってくる。キッカはその穴の中へ、そろりと一歩を踏み出した。


 そこは十五メートル四方程度の、広々として、どことなく殺風景にも思える地下室だった。どういう訳か煌々と明かりが灯っている。昼光色の蛍光灯が、壁や床を寒々しい色合いに染めていた。地上階は電気が点かなかったはずだ。

 キッカの頭に浮かんだ疑問を読み取ったかのように、川島博士が言う。

「ここだけ自家発電なんだ。まだシステムが生きてるんだな」

 立ち籠める饐えた臭いが鼻腔を抜ける。キッカは改めて辺りを見回した。

 中央付近の右側には手術台、左側には作業台と事務机が並んでいる。机の上のノートパソコンは開いた状態だ。右の壁際には培養装置と冷蔵庫のようなもの、奥にスチールキャビネットも見える。左の壁際に並んだスチール棚には、ホルマリン漬けの瓶がびっしりと納められている。何かの動物の胎児らしきものや、人間の指や耳のようなものも見受けられた。

 部屋の奥には棺桶のような形の装置が二つ並んでいる。クオンが右側の装置へと近づく。川島博士も躊躇ためらいがちに歩を進め、それを見下ろし、呟いた。

「ハルカ……」

 キッカは二人の後ろから控え目に覗き込む。

 そこに眠っていたのは、長い髪をした若い女性だった。

 年齢は二十代前半だろうか。透けるような白い肌は冷凍睡眠装置によるところばかりでなく、彼女が生来持っていたものだろう。頬と鼻の辺りに川島博士の面影がある。口許には薄っすらと優しい微笑みを湛えているようにも見えた。

 全ての災厄の始まった場所、その地下に眠るハルカは、まるでパンドラのはこの底に残った最後の希望のようだった。

「綺麗……」

 キッカが思わず呟いた。その言葉に、クオンが苦笑する。

「綺麗、か。あんまりそういうタイプでもなかったんだけどな」

 装置の傍に跪いていた川島博士が、眼鏡を外して涙を拭った。

「ハルカ……必ず目覚めさせてやるからな」

 そして一通り装置を調べると、こめかみを軽く指で押さえた。

「どうやら装置に異状はなさそうだ。覚醒機能にも問題はない。何かハルカ自身に問題があって、その機能が働かなかったんだろう」

 クオンが恐る恐る尋ねる。

「ハルカ自身の問題とは、一体何なんです?」

「いや、ハルカ自身というのは語弊があるかもしれないな。これまで私は冷凍睡眠装置を生体義肢の移植手術のために使ってきた。移植に問題のなかった患者は、皆ちゃんと覚醒できている」

 キッカが口を挟む。

「つまり覚醒機能は、生体義肢に反応して作用するということですか?」

「いや、生体義肢はそれ単体ではただの有機化合物に過ぎない。恐らく……義肢と生身の身体を繋ぐための特殊細胞がキーになっていると考えた方がいいだろう。その細胞には、義肢に遺伝子情報を媒介する他に、身体の回復機能を補助する役割もあるんだ。それがコールドスリープから覚醒する際にも何らかの作用を及ぼしていたと考えられる」

 キッカの脳裏にぴんと閃くものがあった。その特殊細胞の機能に似た話を、つい最近耳にした。

「それって例の『アニュスデイ』で代用できないですかね」

 先にそれを口にしたのは、一人離れた場所で棚の瓶詰めを眺めていたソウマだった。

 川島博士が頷く。

「あぁ、私もそれを考えていた。あの細胞エキスによって回復機能を高めることで、覚醒を促せるかも知れない」

 クオンはほっと息をつく。

「良かった……まだ望みがあるんですね」

「問題はどうやって『アニュスデイ』を手に入れるかということだな」

 もう一度会社のビルに侵入するのは自殺行為に等しい。考えに行き詰まり、一同は口を閉ざす。

 その時、キッカの耳がごく小さな物音を拾った。反射的に隠し階段の上の方へと目を向ける。

「気付いたか、タチバナ」

 ほぼ同時に同じ反応をしたソウマが言った。キッカは頷く。

「誰か、来る」

 クオンが川島博士を庇うように動いた。

 階段の出入り口、地上に繋がる天井の穴から、キィ、と扉を開く音がはっきりと聞こえた。上の院長室に誰かが入ってきたのだ。

 キッカとソウマはそれぞれ銃を抜き、そちらへと銃口を向ける。

 ゆっくりと階段を下ってきた人物に、キッカは目を見張った。

「これはこれは、一同お揃いで」

 黒色のパーカーに暗い迷彩柄のワークパンツ。大柄でがっしりとした体格。熊のような風貌。

 見間違うはずもない。川島博士を裏切り、キッカを陥れた張本人。守野モリノ 大介ダイスケその人だった。

「モリノさん……」

 続いて現れたのは、二名の帝国軍兵だ。いずれもモリノより大柄な体躯をしている。

 モリノは腕を組み、四人を見渡した。キッカとソウマから銃口を向けられながらも、余裕の表情を浮かべている。そしてあくまでもいつも通りの口調で言う。

「ソウマ、ちゃんと入り口見張っとけよ。おかげで簡単に侵入できちまったじゃねぇか」

 それはキッカが誘ったせいだ。銃口をモリノに向けたまま、視線でソウマに謝意を送ると、彼はごく小さく首を振った。

「モリノくん……どうしてここに?」

 川島博士の問いに、モリノはにたりと笑う。

「博士、私があの部屋に何も仕掛けていないとでも思いましたか? お話、丸聞こえでしたよ」

 キッカは顔をしかめた。自分がGPSで居場所を特定されたせいもあり、携帯端末の電源や発信機の有無にばかり気を取られていたが、あの部屋には盗聴器が仕掛けられていたらしい。

「トヨハシ自治区の『川島病院』。タチバナがご丁寧に教えてくれたもんだから張ってたんだよ。意外と早く来てくれて助かったぜ」

 モリノは口の片端を上げ、嫌な笑みを作った。そんな表情は未だかつて見たことがない。彼の普段の人柄からすると、まるで別人のようだった。

「二人とも肝腎なところで詰めが甘ぇよ。ソウマに至っては命令違反だ。やっぱりお前にタチバナは殺せなかったな」

「……何が言いたいんですか」

 ソウマが抑えた声でそう言った。モリノが底意地の悪い顔をする。

「おいおい、言っちまっていいのかよ。お前がタチバナに惚れてるってことをよ」

「なっ……」

 ソウマが目に見えて動揺する。キッカは軽く眉根を寄せた。

「ソウマ……挑発に乗らない」

 二人の様子に、モリノは愉快そうに笑い声を上げた。

「なんてな。二人とも大体予想通りに動いてくれたから上出来だぜ」

 やはりキッカの読みは当たっていたらしい。

「初めから私たち二人を消すつもりだったんですね」

「そう、初めからな」

「理由を教えて頂いてもよろしいですか」

「まぁ、そう焦るなよ。今日はスペシャルゲストにもお越し頂いてるんだぜ」

「ゲスト……?」

 モリノはにやりとすると、階段の方を向き、声を張った。

「お待たせしました。どうぞ、お入り下さい」

 一同、固唾を呑んで天井の穴を凝視する。そこから、そろりと差し込まれるように脚が現れる。かつん、と階段を打つ音が響いた。その人物が一段一段を下ってくるごとに、徐々に姿が露わになっていく。

 地下室へと降りてきたのは、想像だにしない人物だった。

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