無神論者たちの唄

陽澄すずめ

前章

ch.1 川島病院

第1話 天使の呼び声

「……クドウさん……聞こえますか、クドウさん……もう大丈夫ですからね」

 朦朧とする意識の中、誰かが彼を呼ぶ声が聞こえた。張りのある、若い女性の声だった。


 絶え間ない銃声と悲鳴の直中にいたはずだった。

 次々と倒れていく仲間と、鼻を衝くような血の臭い。度重なる爆発で一時的に遠くなった耳は、なかなか聴力を取り戻さなかった。瓦礫となった街は、舞い散る粉塵でほんの数メートル先も見えなかった。彼自身も砂埃に塗れ、口の中がパサパサに乾いていた。

 身体じゅうに纏わり付く血液は、敵のものなのか、味方のものなのか、それとも彼自身のものなのか。

 血と泥で汚れた軍靴越しに、何か小さなものを踏んだ。その瞬間、凄まじい熱波に身体が吹き飛ばされるのを感じた。


「クドウさん! しっかりしてください!」

 とうとう天使がお迎えに来たか。良かった、もうあんなところはごめんだ。俺を早く天国へ連れていってくれ。

 彼は目を閉じ、その声に身を委ねた。



 彼が目を覚ましたのは、夢と現の間を何度も何度も行き来した後だった。

 最初は瞼を動かすことすら適わなかった。ようやく薄目を開いても、視界にもやが掛かり、全てのものがぼんやりしていた。

 ただ、酷い音に晒され続けた耳に、彼の名を呼ぶあの天使の声だけがはっきりと聞こえた。

「あっ……! クドウさん? 気が付かれたんですか?」

 その声に導かれるように、彼は意識の糸を辿った。

 徐々に視力を取り戻した目が最初に捉えたのは、白っぽい服を着た女性の輪郭だった。

 なぜ戦場に女がいるのかと一瞬混乱した。しかしそのシルエットから、彼女は看護師なのではないかと思い当たった。だとしたら、ここは病院だ。

 ふっくらとした胸元——白衣の左胸に『川島』と書かれたネームプレートが見える。そのすぐ傍に、片側で纏められた長い髪が揺れている。その栗色を上へと辿っていくと、優しい笑顔を浮かべた若い女性の顔があった。

「クドウさん、クドウ・ケイイチさん。おはようございます。あなたが目を覚ましてくれて嬉しいです」

 柔らかな、心地よい響きの声だ。ケイイチはからからに乾いて張り付いた喉から、どうにか言葉を絞り出す。

「な、まえ……」

「え?」

「ど、して……おれ、の……」

「あぁ」

 途切れ途切れだったが、意図したことはちゃんと伝わったらしい。川島看護師は苦笑してそれに答える。

「だって、あなたの認識票にそう書いてあったから。クドウ・ケイイチ三等陸曹さん。年齢二十一歳、血液型はO型」

 馬鹿な質問をしたと、ケイイチはぼんやりした頭でこっそり恥ずかしくなった。

 自衛隊に所属する者に与えられる、いわゆるドッグタグ。戦場で力尽きた時、死体が原形を留めていなくても個人を識別するためのものだ。彼のドッグタグは正しくその役目を果たしたのである。

「クドウさん、運が良かったですね。ここに運び込まれるのが早かったから、処置が間に合ったの」

 彼女は心から嬉しそうに言った。あどけなさの残る顔立ちはケイイチより少し年下だろうか。

 それにしても、身体が酷く重い。ケイイチは試しに右手を動かそうとした。しかし指の先すら、ぴくりともしない。

 右手だけではない。両脚にもまた、全く力が入らなかった。明確に感覚があるのは左腕だけだ。

 自分の身体はどうなってしまったのか。問い掛けるように視線を向けると、彼女はその意図も汲み取ったようだった。

「手術したばかりだから、まだ動けないでしょう? とにかく今はゆっくり休んでくださいね」

 ケイイチは僅かに頭を動かし、頷いた。川島看護師はまたふんわりと笑う。その柔らかな微笑みに、強張っていた心がほっと解れていく。するとすかさず強い睡魔が襲ってきた。

 視界の焦点がぼやけていき、瞼が落ちてくる。再び輪郭を失い始めた思考の片隅で、「おやすみなさい」という彼女の声を聞いた気がした。


 次にケイイチが目を覚ました時、部屋には誰もいなかった。

 右の上腕と両脚の太腿に、じんわりと痛みがある。身体はまだ重いが、感覚はずっとクリアになっていた。

 ケイイチは左腕を支えにして、無理やり身を起こした。首を持ち上げ、右腕に目を向ける。

 病衣の袖から、白い棒切れのような腕が覗いている。袖を摘んで捲っていくと、肘の上辺りにきっちりと巻かれた包帯が現れた。

 ケイイチは違和感を覚えた。妙に白い、傷の一つもない滑らかな皮膚を持つその腕が、鈍く痛むケイイチ自身の上腕に繋がっているように見えるのだ。

 これは一体何なんだ?

 あるべきはずの、自分自身の右手の指先に力を込める。するとその異様な腕が、僅かではあるがぴくりと動いた。

 その事実にケイイチは慄いた。

 これは、俺の腕か?

 あの時確かに、右腕は損傷を受けたはずだ。それに両脚も。下半身へと視線をずらす。シーツの下でそれが今どのようになっているのか、確認することはできない。ケイイチは再び、どさりとベッドに身を横たえた。

 不意に、入り口の戸がこんこんとノックされた。「失礼します」と声がして、川島看護師が部屋に入ってくる。

「あら、起きてたんですね」

 ケイイチの顔を覗き込む川島看護師の表情は柔らかだ。

「気分はどうですか? どこか痛むところはありませんか?」

 そう問われたケイイチは、震える唇を開いた。

「腕は……この、右腕は、一体……」

 川島看護師は頬に微笑を湛えたまま、小さく頷く。

「クドウさん。また、詳しいお話は先生からあると思います。心配しないで。腕も脚も、ちゃんと元のように動かせるようになるから」

 相変わらずの優しい声。しかし今回はケイイチの不安を煽るばかりだ。

「俺の腕は……脚は、どうなったんだ……?」

 得体の知れない恐怖感。縋るような視線を川島看護師に向ける。彼女の瞳が、困惑したように揺らいだ。

「クドウさん……」

「教えてくれ、頼む……」

 声が掠れていた。

 川島看護師はしばらく迷った後、ケイイチを真っ直ぐに見つめ、言い含めるようにゆっくりと話を始めた。

「クドウさん、あのね……落ち着いて、聞いてくださいね。クドウさんの手足は損傷が酷くて、もう……」

 彼女は一旦そこで言葉を濁した。少し躊躇ってから、再び口を開く。

「……だから手術で、生体義肢を移植したんです」

 セイタイギシ? 一瞬、何と言われたか分からなかった。

「ごめんなさい、聞き慣れない言葉よね。義肢——失った手足の代わりに着ける義手や義足のことなんですけど。『生体義肢』というのは、人工的なものではありますが、神経や筋肉もある生身の手足です。それを、手術であなたの身体に直接繋げてあるんです」

 ケイイチは二度三度と瞬きをした。つまり?

 川島看護師は両手を合わせ、申し訳なさそうな顔をする。

「ごめんなさい、私、あんまり説明が上手じゃなくて。あの……最初は違和感があると思うんですけど、慣れてくれば本物の手足と同じように自分の意思で動かせるようになるはずです。きっと、元通りの生活を送れるようになりますよ」

 ケイイチは視線を天井へと逸らした。呆然ととするあまり、目の焦点が合わなくなってくる。今聞いた説明が、うまく飲み込めなかった。

「クドウさん、あの……大丈夫ですか……?」

 心配そうな川島看護師の声が、耳を擦り抜けていく。

 ケイイチは小さく息をついた。つまり、自分の手足はあの爆風で吹き飛ばされて、なくなってしまったということだ。生体義肢というもののことに関しては、理解の範疇を超えていた。

「クドウさん……」

 ケイイチは左手で目許を覆った。

「……また少し、休ませてくれ……」

「はい……」

 意識に、もやがかかる。静かに遠ざかっていく靴音を聞きながら、ケイイチは逃げ込むように、再び眠りに落ちていった。

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