番外編

Extra.1 贄の祭壇に火が灯る

「この演説を聴くことの出来る全てのアーリア人諸君へ。今日、我らが祖国、ドイツは重大なるユダヤ人による経済的、思想的侵略を受けていることはもはや疑う余地もない事実でありましょう。彼らは元来の居住者であったアーリア人を軽んじ、許し難い蛮行を行い続けてきました。ドイツ帝国が連合諸国に敗れ去り幾多の試練が我が国に降り注いだその最中、ユダヤ人はドイツから元来生活する為に必要な職業を我々から奪い取った! そのために我々は天文学的な負債を背負い、ただの紙屑の為にドイツ国民は煤に顔を汚して厳しい労働に従事していたのである! これは不可解なことではないだろうか、いやこれはあってはならないことである! 我々優等人種たるアーリア人は今こそ立ち上がりユダヤ人の世界侵略の野望を完膚なきまでに打砕しなければならないのである!」


 画面中央、眼鏡を掛けた若い政治家がその苛烈な弁舌を振るう。ともすれば差別的な演説をこうも堂々と公の電波で語る彼の姿を在りし日の父は安っぽい発泡酒を片手に罵倒していたのを青年は覚えている。







正暦1929年 1月29日 ベルリン


「うるさいっ! うるさいっ!」

 ラスカー少年の朝は父オスカー・テールマンの激しい罵声によって目を覚ます。ここ一か月はずっとそうだった。

 続いて何か重く柔らかいモノを殴る音と小さな悲鳴。母ヨハンナ・テールマンの声だ。聞き慣れてラスカーが間違えるはずもない。

 そしてヨハンナは逃げるようにラスカーの寝室に入ってくるのだ。笑顔を取り繕って、殴打された事実を隠すようにして。

「おはようラスク。今日は雨も降っていないみたいだからお外で遊んで来たらどうかしら。お父さんは今…少しだけ疲れているから迷惑を掛けないようにしましょうね」

「うん………」

 ヨハンナに手を引かれてベッドから降りたラスカーはチラと窓を見やる。工場の煙突から昇る黒煙は空を灰で染めている。




 屋外に出たとは言え、そこが家とは違って幸福に満ちているわけではなかった。空を灰が覆うと、道行く人々の顔も俯きがちになり、より一層暗く感じられる。ラスカーにはそれがなぜなのかは分からないが、漠然と父がよく罵倒しているバルドルという髭のおじさんが悪いのだと思うようになっていた。

 しかしてベルリン市内は彼に熱狂していた。悪魔的なカリスマにほとんどの市民が魅了されているのだ。それを目の当たりするたびにオスカーの機嫌は急降下していく。家にも居づらいが、外には父を苦しめる何かが蔓延しているのだ。ラスカーも面白くない。

 なんでお父さんは怒っているの? とヨハンナに尋ねると母は困ったように微笑んで「あのちょび髭のおじさんがお父さんのお仕事を取ってっちゃってるのよ」と答えるのだ。

 ラスカー自身が幼いせいか、オスカーが何をして働いているのか分からない。だが、たまに同僚の大人が来ては泣きながらお酒を飲む姿は何度も目にしたことがあった。

 お父さんはどんな仕事をしているの? とオスカーに尋ねれば父は誇らしげに鼻を鳴らして「世界中の誰もが羨む理想の国を作ろうとしているんだ」と自らの息子に語る。豪語する父はラスカーにとっても誇らしいものであったし、その姿は幼いラスカーの目には御伽噺の中の英雄のようにも映っていたのだ。


 家の扉に背を預けて、ぼんやりと庭を、その先の風景を眺める。煉瓦造りの集合住宅が立ち並び、その地平線から突き抜けて何本もの煙突がそびえ立っている。

 ラスカーは庭の納屋の中に入ってボールを一つ持ち出すと、フェンスに向かってボール遊びを始めた。

 ボールを蹴って、跳ね返ったボールをまた蹴って、と何度も繰り返しているとフェンスの向こうに誰かが立っていたことに気が付いた。

「やぁラスカー。お父さんはいるかな?」

「いるよ。………お酒飲んでる」

「そうか………。ありがとう」

 確か、オスカーの同僚だったはずだ。襟の立たないよれたシャツを着て無精ひげは生やすがままにして土気色の顔をした男がテールマン家に入っていった。


 もう一度ボールを蹴ったが誤ってフェンスを飛び越えて、向こうの道路に転がって行ってしまう。

 一大事だ、とラスカーはすぐにボールを拾いに向かったが、その時に右側から通って来た政党広報車がボールをタイヤで踏み潰してしまった。

「あっ………」

 と小さな悲鳴を漏らして過ぎ去った後の道路に駆け寄って、空気の抜けたゴムの袋を手に取った。

 ゴムはすっぱりと裂けてしまい、黄色だったボールは黒くタイヤの跡が焼き付けられていた。

 ラスカーがゴムの塊を持って立ち尽くしていると不意に誰かからの視線を感じた気がして周囲を見回す。だが、人通りは実に閑散としていて視線も消えてしまった。

 首を傾げて、少しだけ不思議に思ったのだが、結局ラスカーは家の中に戻ることにしたのだった。







 思わぬ来客に茶を出しつつ、彼に目線をくれてやる。

「ただいま…」

 ラスカーが戻ってきた。遊んでいたはずだが、とオスカーは視線を玄関の方にやって、そして目の前の訪問者に返す。

 ユースレイ・ディミトロフ。共産系の政治思想家であり、オスカーのアドバイザーでもあった。そのアドバイザーの言葉にオスカーは肩を震わせて吼える。

「亡命だとッ!? 私達にベルリンから離れろと、ディミトロフ、君はそう言うんだな!?」

 オスカーの怒声が屋内を揺らした。玄関でバタっと音がした。ラスカーを驚かせてしまったのかもしれない。


「あぁ、友よ。どうか受け入れてほしい。コミンテルンは君のような影響力のある人物を必要としているんだ。何も一生を亡命先で終えろと言っているわけじゃない。いずれ、この狂乱は欧州を戦禍に巻き込む。それを止めるだけの力はドイツ共産党には無いだろう? 支持者だって伸び悩んでいるはずだ。いつか、戦乱が終わり荒れ果てた君の祖国を立て直すため、今は堪えてほしい」

 確かに、確かに今の共産党には国家社会主義ドイツ労働者党を抑えて政権を握るだけの支持を得られていない。だが、それで諦めていい訳ではないのだ。オスカーはそう信じていた。


「人民のその危機にこそ、我々は行動を興すべきではないのか!? それを、私だけ安全な場所で傍観するなんて………そんなことをするくらいならば、今この場でナイフでこの喉を掻っ切った方がマシだ!」

 オスカーからはすっかりと酔いが抜けて、指導者としてのテールマンが蘇った。

 夢破れ落ちぶれるくらいならば臓腑を打ち撒いて死んでやるとまで嘯く。


「ここより東に。いち早く革命が成ったロシアならば、君の見聞を広げるのに充分なはずだ。コミンテルンだって君達一家の保護を約束してくれた。ここまでの約束を取り付けた私の苦労を分かってはくれないのかい?」

「そんな日和見主義者を私達は唾棄すべき存在と定義していたはずだ!」

 行動あるのみなのだ。常に第一線に身を置いていたオスカーにはそのモットーを信じ続けるだけの経験則がある。しかし、ディミトロフはそのどれもを否定はしないが賛同もしない、と言った論調だった。


「理想ばかりで生きていける情勢ではないんだ! これは君の友人としての忠告だ。君は今、ドイツに残ったとて良くて刑務所送り。バルドルは何をしたっておかしくない男だ。この前の暴動だって彼らナチの煽動が原因で同志達が逮捕されただろう」

 熱くなったオスカーを諭すようにディミトロフは語りかける。


「それは………」

「掲げられた理想は人々の希望足り得る。君のその熱い信念を現実化できるその時まで、我慢をするんだ。それにヨハンナさんや、ラスカーだって大事だろう? 君はもう君だけで生死を決めていい人間ではないんだ。オスカー」

 オスカーはいつの間にかこちらを不安げに見守る息子に気が付いた。後ろを振り向いてラスカーに手招きをする。

 ラスカーは恐る恐るといった様子でオスカーに近づく。オスカーは息子の頭に手を置いて、ゆっくりと撫でた。

 柔らかいプラチナブロンドの髪は柔らかく、妻の血を色濃く受け継いでいる。それを再認識した時、オスカーは初めて家庭を省みた。


「ディミトロフ………。時間を、少しだけ時間をくれ。考える時間が欲しい」

 そうオスカーが答えると、土気色をしていた彼の気色がみるみる良くなっていった。

「勿論だ。だが、急げよテールマン。明後日、答えを聞かせてくれ」

「あぁ、分かった」

 彼らしい不敵な笑みを浮かべ、ディミトロフはテールマン邸を後にする。それをオスカーは窓越しからずっと見つめていた。

 そして、もう一つの視線がディミトロフに注がれていた事をオスカーは知らない。




 その夜、二人きりの寝室でオスカーはディミトロフに提案された事の全てを妻ヨハンナに包み隠さず告白した。すると、ヨハンナは一も二もなく了承してくれた。その時、オスカーはヨハンナに家庭を任せ、酒に溺れていたことを恥じる気持ちで溢れ返ることになる。


「私は良い妻を貰ったようだ………」

 しみじみ呟くとヨハンナは昔の、あの頃のように口調で、

「あなたに見合う女なのだもの」

 と笑った。


 オスカーはヨハンナを抱き締める。

 少し窶れているのだろうか。細身のヨハンナは余計に痩せているように感じられた。


「モスクワでは君に釣り合う夫になるとしよう」

「ラスカーが尊敬する父親にもね」


 続けて「あ、」とヨハンナが小さな悲鳴を上げた。驚いてオスカーが「どうした?」と尋ねると、ヨハンナは茶化したような声と口調で、

「ウォッカが美味しくて、酒浸りに戻ってしまったらどうしましょう!」

 大仰に心配して見せた。

「おい」

「あら、ごめんなさいね」

 童心に帰るとはこういう事なのだろう。酒に流されていた感情の全てがヨハンナのお陰で蘇る。


「すまなかった………君にも、ラスカーにも。私は最低の男だった」

 謝罪の言葉を放った時、オスカーの頬を熱い涙が伝う。

「その言葉だけで、充分。私はあなたに付いていくと決めたんです。ラスカーだって、今のあなたを見ればきっと立派に育ってくれる。それがドイツでもロシアでも。どこだって変わらないわ」

 今度はヨハンナが涙を流すオスカーを優しく抱き締めた。


「ありがとう………」

 涙を拭う彼女の手を握って、オスカーは人生で一番の謝辞をこの世で最も愛する妻に送った。

「えぇ」

 ヨハンナもまた、静かに全てを受け止める。


「明後日にもう一度、ディミトロフが来る。それまでに準備をしていくぞ」

「じゃあ明日は大掃除ね! あなたも手伝ってくれるんでしょう?」

「あぁ」

「なら、あなたのよく分からないガラクタをしまった倉庫を片付けてくださいね! 私、掃除がしたくって堪らないのにあなたったら私に触るなって怒るんですもの!」

 矢継ぎ早にオスカーの骨董品コレクションをガラクタだの何だのと言われてオスカーは泡を食うが、一息吸い込んで、元来こういう女だったのだなとオスカーは破顔した。

「いいですね?」

「了解した、看護婦殿」

 後悔は無い。後悔のしようがない。ヨハンナと、家族とともにいられるなら、どこで暮らそうとそこは彼の愛する守るべき、帰るべき場所になるのだから。







正暦1929年 2月8日  黎明 シュレージエン駅


 冬の朝日はまだ彼方に没したまま、薄暗いベルリンの只中は雑踏が声を揃えて騒ぎを立てる。

 鉄道職員は出発前の列車の最終臨検をしており、その間乗客は見送りとされる側で最後の挨拶を交わしている。


「まさか、空港の全便がキャンセルになっているとは………。確か新兵器の実験だとか。全く戦争なんてとんでもないな」

 ディミドロフが肩を竦めてそうぼやいた。

 本当ならば、昨日の時点でロシアには着いているはずだった。だが、神の気まぐれかオスカーの不幸が祟ったのか軍の命令によって乗る予定だったフライトはキャンセルされてしまったのだ。


「同意見だディミドロフ。迷惑掛けるな」

「今更そんなことを言ってくれるな友よ。向こうにも遅れる旨は連絡済みだ。少しばかり金は掛かるが、優雅に列車旅と行こう」

 オスカーとディミドロフ。ホンブルグハットを被り合った男二人が互いの顔を見て笑う。


「列車! 列車に乗るの!」

「あぁ! ラスク坊は列車の方が好きか? おじさんも予約した甲斐があったよ!」

 ラスカーは列車を見て興奮しているようだった。せっかくの一張羅に皺を作ってはしゃいでいるのをヨハンナに窘められる。


 家財一式、トランクに詰められるだけを準備して他は全て売り飛ばした。マルクをルーブルに替えなければならないが、物価がある程度違っても当分は安心できるという額になってくれた。ガラクタもとい骨董品コレクションのおかげだ。


「お母さん…トイレ」

 ラスカーは急に股間を手で押さえるポーズを取った。


「家を出る前にしておきなさいって言ったでしょう? もう………」

 ヨハンナが両手に持ったトランクを地面に置いてラスカーをトイレに連れて行こうとした時、ディミドロフが二人の間に割って入った。

「ヨハンナ嬢、坊は私が連れていきますよ。この人混みだ。中でも結構な人数がいるでしょう。はぐれたら大変だ。私の荷物は手さげカバン一つだが、ヨハンナさんの荷物はオスカー一人じゃ運びきれない。お気になさらず、私に任せるといい」

 ディミドロフは片手を持ち上げて見せた。


「あら、そうですか? ………じゃあお願いしようかしら。ラスカー、ズボンにおしっこ引っ掛けないようにね」

 ヨハンナは再び、荷物を両手に持つ。


「大丈夫! このディミドロフ。人生の先達としてきっちりしっかり、綺麗に用足しをエスコートして見せますよ! さ、ラスカー」

「ばいばーい!」

 ラスカーはオスカーとヨハンナに手を振った。ディミドロフも真似して手を振る。ヨハンナは「ズボンには引っ掛けないでね!」と最後の念押しするのだった。


「私達は先に乗って荷物を置いてしまおう」

「席分かるかしら………」

「ディミドロフだって列車のチケットを持っているんだ。不安なら置いたあとで列車の出口で待っていればいいだろう?」

「そう、ね………。分かりました。席は確かA-13番ね」

 「あぁ」とオスカーが頷いた。


「いいえ。オスカー・テールマン、ヨハンナ・テールマン。あなた方はこの列車でブランデンブルクに行くのではなく、我々の用意した特注の車でフリースラントまで行くのですよ」

 その声は列車の中から聞こえた。


「お前達は………ッ!」

 オスカーの背中に冷たい何かが押し当てられる。

「ひっ………!」

 ヨハンナも同様で、声を引きつらせた悲鳴を上げた。


「親衛隊の連中だな………! なんの真似だ? これは問題になるぞ。お前達の頭目の支持が下がってもいいのか?」

「ご冗談を。これから長期休業なさる貴方が一体、何を問題にされるというんです?」

 目の前の、黒い制服に身を包んだ男はヘラヘラとした軽薄な笑みを浮かべてオスカーを見つめている。それは生殺与奪は完全にこちらの手中にあるんだぞと言わんばかりの笑みだった。


「妻からは銃を離せ。お前達が用があるのは私だけのはずだ」

「我らが総統閣下は危険思想に犯されているとはいえ、アーリア人種に対する心は何よりも寛大だ。これから労働に勤しむ共産党のテールマンの家族も一緒に招待して差し上げろ、と」

 バルドルめ! と一人ならば口汚く罵るところだが、今は守るべき家族がある。ぐっと罵倒を飲み込んで目の前の親衛隊員を睨む。


「結構だ! 私の為のリムジンはどこだ!? フリースラントでもラインラントでも、どこへでも行ってやる! だから、ヨハンナから銃を離せ!」

 すると、目の前の男は胸ポケットからハンカチを取り出すと鼻元を覆った。

「臭いですなぁ。これだから赤匪というのは………。鼻が曲がりそうだ。おい、お連れしろ」

「「はっ!」」

 これでもかとオスカーを侮辱して、勝ち誇ったように口の端を吊り上げて男は笑った。

「やめてっ! 離して!」

「ヨハンナ!」

 ヨハンナを連れて行こうとする親衛隊員をオスカーは突き飛ばした。

 すでにオスカーと親衛隊の騒ぎは広まっており、誰もが遠巻きからオスカー達を見つめている。

 オスカーはヨハンナに駆け寄った。その背後で男が嗤う。

「やって、やってしまいましたなァ………? 突き飛ばした。私の部下を突き飛ばしました。私だって好きでコレを使うわけじゃあないんですよ? でも、暴漢から部下を守る為には仕方ない。そう仕方がない!」

 シュレージエン駅の喧噪を、男が抜き放った自動拳銃の発砲音が一瞬掻き消した。最後にピン、という空薬莢が床に落ちた音が鳴る。


「ぐっ、ぬぅ…、…、…、…………」


「うそっ…いや………どうして? いやああああああぁぁぁぁぁぁぁっ!」







「なんだ? やけに賑やかになったな………。誰か線路に落ちたのか?」

「おじさん手洗ったよ」

「お? ほら、手を拭けよ。坊。そら! パパとママのところに戻るぞ。ずいぶんと混んでて待ちぼうけしてるだろうからな」

 ディミトロフがラスカーの手をハンカチで適当に水気を拭きとると、ラスカーの手を引いて、ラスカーは引かれるままにトイレを出た。

「ラスカー、手を離すなよ? はぐれたら大変だからな」

「うん」

 ディミトロフはすいすいと人混みの中を縫うように歩いて行く。ラスカーは付いて行くのに必死で、握られた手に力が入ってしまう。


「なんだ、どうした? なんだこの騒ぎは? あんた、なんでこうなってるか知ってるか?」

「あ? あぁ…まぁ、その………なんだ」

 ディミトロフは隣にいた男に事情を聞いているが、男の答えは明瞭としない。何かはぐらかそうとしていた。

「はっきりとしないな。なんだってんだよ」

 ディミトロフは踏み込んで聞こうとして、男は前方を指さした。

「前? 自分で見てこいってことね。分かったよ」

 ディミトロフはさらに人混みに分け入って、そして騒ぎの中心部に至る。

 ラスカーもまた、それにつられて歩いているわけで、やがて視界に惨状を映すことになる。

 胸から赤い液体を噴き出す両親の姿と、呻きながら倒れた黒い服の男。

「こっ、この、この女! わ、私に向かって銃を撃ったァ! 殺せ! 二人とも殺して、早く私を病院に連れていけェ!」

 奇声を上げて倒れる男はかろうじて生きているが、ラスカーの両親はピクリとも動かない。

 ディミトロフが注視して見れば、オスカーを膝上で庇うように重なり合った、ヨハンナの胸には何発も何発もの弾丸によって付けられたであろう銃創が鮮烈に花を咲かせている。

「ラス、………見る、な………」

「あれ…、あれ………」

 ラスカーの碧眼は両親から離れようとしない。ずっと視線を固定されて、両親であったソレらを見つめている。

 ラスカーは見てしまった。あの赤を。鮮烈で強烈で熾烈なあの赤い花を。


 ディミトロフは強引にラスカーの手を引っ張って、人混みの中に紛れる。

「早くゥ! 早く私を連れていけェ! クソ女がァ! クソ女が私の足を撃ったァ!」

 ラスカーは未だに人々の足の隙間から覗き見れる両親のいた方向を凝視している。この状況で泣いていないのは現実に思考が追い付いていないからだろう。それが、今回ばかりは役に立った。

 今泣けば、ラスカーがオスカー達の息子だという疑惑が出てしまう。バレれば………、バルドルは子供でも容赦はしないだろう。


「ラスカー。今日は列車に乗れないことになってしまった。おじさんとドライブしよう。途中でお菓子を買ってもいい。ジュースだって飲みたいだけ、だ。だから、ドライブにしよう」

「おとう………は? おかあさ、は?」

 これ以上、ラスカーの声を聞き続けるとディミドロフの方が限界に達してしまいそうだった。厳然たる理性は自我の崩壊を必死に食い止めるせいで、何もかも忘れて叫んでしまいたいという衝動に駆られる。


「お父さんもお母さんも、間違って別の列車に乗ってしまったらしい。二人は若い時から少し抜けていたからな。私達は一足先にモスクワにある新しい家で二人を待つことになったんだ」

 ディミドロフが話しかけている間も、ラスカーはオスカー達を見続けている。


 これ以上は、ラスカーの心が手遅れなところまで壊れてしまう。

 ディミドロフは彼の胸で視界を遮られるようにラスカーを抱き上げて、駅の出口を目指す。


「泣くな…。泣かないでくれよラスカー。悪い人達に見つかってしまうだろう………? おじさんだって頑張って堪えてるんだよ?」

 ディミドロフが下を向いて、そう言った。すると、ラスカーはディミドロフの顔を見上げる。碧い二つの目がディミドロフの顔を映す。

「泣いてるのはおじさんの方だよ………?」

 胸の中の少年を見た瞬間、ディミドロフは己の業の深さを思い知った。


 これが罪に対する罰だと言うのか。それはなんて、なんて慈悲も容赦もない罰なのだろう。こんなことが平然と行えるのは悪魔か人間だけだ。

 ディミドロフはラスカーから視線を外した。


 あぁ、神よ! あなたはやはり悪魔と変わりないようだ!


 なぜ、なぜ! 私にではなく、彼なのですか! 神よ! 神、よ………。


「涙を、どうして幼いラスカーから涙を奪ってしまわれた………」


 罪と罰は与えられた。

 嗚咽を堪えて、誰にも聞かれないように、ディミトロフは神を呪う。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

赤のサバーカ 漂白済 @gomatatsu0205

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ