第5話 ユーラシアから集う戦士達Ⅲ
朝を迎えたモスクワ・ジューコフスキー基地の兵舎の一角。窓の向こうには長く太く伸びた氷柱が下がり、時折寒風が窓を叩く。
ドアノブを回す音がした。手入れがされているとは思えない、生理的嫌悪感を感じるような音を立て蝶番が自らの役目を果たそうと扉を外側に開くが、その動きは途中で止まってしまう。いや蝶番自身の問題ではなく、扉の前にモノが置かれていたら途中で遮られてしまうのが道理だ。
ゴンっと固い音が静謐だった廊下に響いた。
「っ…!」
「ゴンっ…? 何か置かれているのかな…ッ!?」
中から出てきたのは帝国海軍の白い軍服を着ず、寝間着姿のままの藤堂だった。彼女の夜の闇の美しさを体現したような黒髪はゴムでひとくくりにされていた。
寝起きだったような彼女の目はドアの仕事を邪魔した存在を見てきゅっと丸くなってしまう。
「おはよう、藤堂中尉。よい朝だな」
鈍い痛みの残る頭部をラスカーが撫でる。その度に手入れをしているわけでもないのにサラサラのプラチナブロンドの髪が揺れる。
「ト、トルストイ中尉? い、一体何をしているんですか?」
藤堂の声が上ずる。ラスカーは頭から手を離し、これまでしていたように元の体勢に戻る。
「帝国軍の将兵に聞いた。これが謝るときの日本人の姿であると。ヤポンカのドゲザだと!」
昨日、ラスカー達がバーで酔い潰れたザイシャの介抱をしているとテストパイロット達の前にとある一人の日本帝国海軍の将官が現れ、ラスカーにドゲザのことを教えたのだった。
そして酒の勢いで今すぐにでも謝りたくなったラスカーは藤堂の部屋の前で夜通しドゲザをし続けていたのだった。
「藤堂、昨日はすまなかった! 君の信念を俺が否定出来る道理などあるはずも無かった…許してくれとは言えないだろう。だが、もし藤堂が俺を許してくれるならこの酒を受け取ってほしい。旧帝国時代から皇帝に飲まれていたスミルノフのウォッカだ。俺には気にせず飲んでほしい!」
一緒に廊下に鎮座していた仲間をそっとラスカーは藤堂の足元に差し出した。ちなみに寒さに堪えきれずちょびちょびと飲んでいたのは藤堂には内緒の話なのである。
更にちなみにスミルノフのウォッカは十月革命で国外に製造元を移動しているので現在手に入るスミルノフの酒は他の酒に比べて異様に高い。
日本人には分かりづらいプレゼントではあるが、ウォッカを命の水と呼ぶくらいロシア人には根付いている。ラスカーは至って真面目なのだった。
「どうか! 拙いドゲザで申し訳ない!」
ラスカーは必死に廊下に顔を擦りつける。ラスカーは藤堂との間に個人的な禍根は残したくないし、国家プロジェクトと呼べる計画を失敗に終わらせたくはなかった。
「わ、分かりましたっ! 分かりましたから朝から大声で叫ばないでください中尉!」
藤堂がスミルノフの酒を受け取った。渋々といった顔をしているが、当然ラスカーに分かるわけがない。
「って、これなんか減ってない…? まぁいいけれど…。そ、それじゃあトルストイ中尉、戻ってもいいですよ? ………中尉?」
藤堂が動かないラスカーをどうしたことかと見つめる。ラスカーもまた碧眼で藤堂の顔を見つめる。すると藤堂は「うっ…」と呻いた。
「藤堂、この…セイザ? というのか、この体勢で足が全く動かないんだ。許してくれて嬉しい同志藤堂。早速だが仲間同士助け合いが大事だと思うのだが」
ラスカーはにこやかに微笑む。ラスカー自身理解していないがなぜかこうしていれば大抵のことを女性がしてくれることを知っているのだった。
藤堂の部屋の暖房が稼働しており、部屋の空気は非常に暖かで廊下とは大違いであった。
ラスカーは藤堂に支えられて、彼女の部屋に備え付けられたベッドに座らせられることになった。
「全く…成人前の女子の部屋に入って来るなんて……。というかお酒臭いんですけど」
藤堂がスミルノフの酒を棚にしまい込みながらそうぼやいた。
「俺を部屋に入れたのは藤堂なのだから問題ないだろう。それでは申し訳ないが集合時刻の08:00まで俺は眠らせてもらう………」
「はっ? ちょ、ちょっと!」
(このベッド、ビボルグの物より柔らかいな…アリアナが言っていた好待遇というのもなかなか………)
長時間のドゲザ姿勢により疲弊していたラスカーの身体はただひたすらに休息を求めていたのだった。
「……いっ! 中尉! ラスカー・トルストイ中尉!」
ラスカーの頬に微かな痛みと熱を感じる。誰かがラスカーの頬を殴っているのだ。それは時を経るごとに痛みは強くなっていく。
「起きてください! 起きないかラスカー・トルストイ中尉! もう八時前じゃないですか! 遅れてしまいます! コラッ!」
平手打ちが握りこぶしに代わっていた。ラスカーが殺気に気づいた頃には頬に藤堂の強烈な一発が決まっていた。
「は、八時前…? まだ人なんて集まっていないだろうに……済まない低血圧なんだ俺は………」
「トルストイ中尉、時間は有限だ。上官の命令は絶対なのだ。さぁ行くぞ、朝食は貴官の分も取ってきてある。ほら食え、今食え。五秒で食え」
藤堂の口調が公人らしいソレに切り替わった。お冠らしい。
ラスカーの寝起きの口に藤堂は食堂から調達してきたであろう固いパンを突っ込む。
「ぐむっ!?」
ラスカーが飲み込むよりも早く藤堂がパンを押し込むのだから、食べられる物も食べられない。
そう言おうとしても口が塞がっている現状、ラスカーには為す術が無かった。出来ることは噛まずに飲み込んだパンが喉に詰まらないことを祈ることぐらいだけだろうか。
「遅れて申し訳ありません! 藤堂弥生中尉、ラスカー・トルストイ中尉。ただいま参りました!」
藤堂が第三指令室の扉を走ってきた勢いそのままに強引に開ける。だが、室内の空気は実に冷ややかなものだった。
いや、それは感覚的な物ではなく第三指令室の空気が厳冬のおかげで冷えているということだ。
「俺達が一番乗りということだな藤堂中尉」
ラスカーは藤堂の肩に手を載せたのち、身近な席に座る。ついでに藤堂の席も確保した。現在この部屋には二人しかいないのだから確保も何もないのだが。
「こ、これは…一体……? もしかして集合場所を間違っていたのでは………?」
「安心しろ、合っている。この第三指令室だ。コーヴィッチ少佐殿はそう仰られていた。まぁ当の本人はたぶん二日酔いで苦しんでいるだろうがな。エフストイ兄弟と夜別れてからは俺はずっと藤堂の部屋の前に居たからな。まぁ座れ藤堂。もうそろそろ来るはずだ」
ラスカーがそう促すと、藤堂は半ば脱力状態で椅子に座り込んだ。
「なんで時間ギリギリの私達しか来てないんですか? ありえないじゃないですか! 上官の命令ですよ? なんで来ないんですか? 私がおかしいの? それがソビエトの常識なんですか? そもそも少佐が来てないのはなんでなんですか!?」
うなだれたかと思うとそう叫び始めた藤堂。ラスカーは手元の腕時計を覗く。
「安心しろ藤堂。まだ三分と過ぎていない。それに―――、」
ラスカーが第三司令室の扉に目をやる。すると、ちょうどよく扉が開く。
「あら? お二人さん早いわね。おはよう」
アニーシャが第三指令室に入室した。ラスカーは立ち上がって右手で敬礼をする。
「おはようございますヴィッテ大尉」
「おはようトルストイ中尉。それに、藤堂中尉も」
アニーシャがうなだれたままの藤堂に目を向ける。さっきまでの勢いはどこに消えたのやら呆然としていた。
「お、おはようございますヴィッテ大尉殿………」
「あら? どうしたの? 顔色がよくないみたいだけど…もしかして新しい環境には慣れてない?」
「は、はぁ…そうかもしれません」
アニーシャが藤堂の席に座った。そうしてラスカー達も座るようにと手を振った。
「まぁ事情は分かっているつもりだけど、職業軍人なんだから体調管理もしっかりね? 同じ海の女として言わせてもらうと、睡眠は重要よ?」
「も、申し訳ありません………?」
文末に疑問符を浮かべつつ、上司には頭を下げる。これも下士官の仕事の一つである。
「おっはようございま~す! ウラルとバイカルとシベリアが生んだ真っ赤なアイドル、ジャンナちゃんだよ!」
「あ?」
突然室内に大声で叫びながら入って来たのはアラロフ少尉だ。ラスカーの得意とするタイプの人間ではない。
「ひっ!? ってもう! 顔が怖いですよラスカー中尉、もう…。私、怖すぎて倒れそう………」
そういうジャンナが倒れる素振は無い。ラスカーにとってジャンナが何をしているのか全く理解できていないのだ。だからなのか一目見た瞬間から「コイツは俺の天敵に近い存在になるやもしれん」と嫌な予感を感じていた。
「いや…怖がらせる気はなかったんだ。すまない少尉、倒れそうなのだろう? 俺が支えよう。大丈夫か?」
ラスカーはジャンナに近寄って肩に触れる。するとジャンナはまたしてもかしましい声をあげる。
「ほんとですかー? わー私嬉しい! あ、ラスカー中尉、私のことは名前で読んでくださいジャンナって!」
ジャンナの表情がコロコロと変わる。その切り替え速度はラスカーの認知速度をとっくのとうに越してしまっている。
「あ、あぁ了解したジャンナ少尉。それで…体は大丈夫なのか?」
「ラスカー中尉に名前を呼ばれたから治ってしまいました! なんだかぁ中尉、最初は怖い人かなって思ってたんですけどぉ、実際に話してみるとカッコイイし優しいんですね中尉!」
ジャンナがラスカーの腕に組みついた。そのあとも小さく飛び跳ねている。その度にラスカーのカーキの軍服に皺とその影が出来る。
(分からない…なんで俺の腕に抱き付くんだ? 飛び跳ねるんだ? 理解出来ない………)
ラスカーがどうするべきかと空中を睨んでいると、藤堂と目が合った。だが、目を合わせて瞬間に藤堂はそっぽを向いてしまう。
「なぁ藤堂、俺はどうしたらいいんだ? この状況はなんなんだ………?」
低血圧なせいでいつも以上にラスカーの頭が回っていない。敵襲撃とあらば即座に臨戦態勢になれるのだが。如何せん後方基地というのがいけない。
「私が知るわけないでしょうラスカー中尉」
「助けてくれないか、仲間だろう? 同じ中尉だろう?」
「所属が違いますから。私に振らないで」
(なに…俺達は同じ酒を飲んだ仲間じゃないのか…? ザイシャさんは同じ酒を飲めばもう友達だって………)
生真面目なラスカーはマニュアルを完璧に覚えてから行動するタイプだ。だからそれが否定されると思考がパンクしてしまう。今までのラスカーの人生で少女に抱き付かれた経験など無い。押し倒されたことならあるのだが。
「ねぇ中尉ぃ? 藤堂中尉ばっかりじゃなくて私ともお話ししましょうよ!」
ラスカーの腕をぐっと引っ張って猫撫で声でジャンナがラスカーに囁く。耳元から発せられる鈴の音のような耳心地のよい声は並の男ならすぐさま惚れてしまうだろう。並の男なら。
ラスカーは現在ショートパンク中である。
「ぁ゛~…頭痛い……。あ、みんなおはよう…。エリョーメンコ少将に聞いてきたら、機体が人数分揃っていないからシミュレーション訓練を明日からすることになったよ。そのシミュレーションの機材も今日搬入、調整だから今日までやること無しね。はい、解散…僕、もう寝るね」
二日酔いで幽霊のようだったザイシャが現れたのは集合時間から三十分ほど経ってからだった。エフストイ兄弟に支えられながら室内に入ってきて要件を伝えてそそくさと出て行ってしまった。
「行っちゃいましたねー。それじゃあ中尉、私達も行きましょう!」
「どこにだジャンナ少尉、それと腕離してくれないか」
「そうですねぇ…。私の…個室、にでも…。中尉イケメンだし」
(どうして腕を離してくれないんだ…? なにかの訓練なのか? ジャンナ少尉から逃げおおせて見せろとかそんな感じなのか?)
ラスカーはどうにかして腕を抜こうと四方やたらめったらに腕を動かすがジャンナは離れてはくれなかった。
「じゃあ、行きましょう?」
「え、あぁ…いや」
ジャンナがラスカーを立たせようとしたとき、机を叩く音が聞こえた。
「アラロフ少尉、貴様のそれは上官に対して馴れ馴れしいと思うのだが? ラスカー中尉が嫌がっているだろう、その腕を外せ」
「なんですか藤堂中尉。別にラスカー中尉だって嫌がってなかったでしょう?なら問題無いんじゃないですか?」
ラスカーは首を振る。一生懸命に。
「本人は嫌がっているようだが? 少尉」
ラスカーの意を汲んでくれた藤堂がジャンナにそう告げる。
(やっぱり俺と藤堂は仲間だな!)
「そんなぁ…私のこと、嫌いですかぁ………?」
「えっ、いや別に嫌いでもなんでも………」
「じゃあ問題ないですね!」
そういってラスカーの腕に抱き付くジャンナの腕に力が入る。
「そうか。トルストイ中尉はこれから基地の外周を百周ほど走られるようだが、なんだったら一緒にやったらどうだ」
(百周? 俺自身初耳なのだが………?)
ラスカーが首を傾げているとジャンナがラスカーから離れる。ようやくラスカーの腕が解放された。
「わかりました。私、ラスカー中尉の邪魔はしたくありません! 頑張ってくださいね中尉!」
「あ、あぁ…うん?」
そう言うと、ジャンナはさっさと第三司令室から出て行ってしまった。ラスカーは自由になった右腕を回し、制服の皺を正す。
「全く、なんだあの女は…。本当に計画に選ばれたパイロットなのですか………?」
藤堂が独り言のように呟くと、意外にも答えたのはアニーシャだった。
「あの娘、出自がちょっと特殊なのよ。兵士としての技能よりもあの娘自身の存在を求められているというか、なんというか…ラスカー中尉は見たことない? 彼女のこと。流行ってるじゃない?」
アニーシャが腕を組み、ラスカーの方を向く。
「いえ、自分はこの基地で初めて会いました」
「あら、そう? まぁそれもそっか。あれでも海軍所属だし…軍港に勤めている兵士達の間じゃ有名人なんだけど」
(有名…、特殊な存在…。計画に選ばれたパイロット………)
ラスカーは自然に以前読んだ小説のストーリーを思い出していた。名前も聞いたことのない無名の作家の書いたエンタメ小説だったが、その内容は軍部の極秘計画によって誕生した人造人間が国家の敵と戦うというもの。
「もしかして、ジャンナ少尉は人造人間…?」
ラスカーの独り言は静かな室内によく響く。藤堂は呆れ、アニーシャは笑いを堪えていた。
「ラスカー中尉、君は面白いわね。私はそういう子好きよ。それじゃあね明日まで暇ならもう一眠りするわ。あ、敬礼はいいわよ」
そういってアニーシャも室外に出て行った。
藤堂も立ち上がって扉の前まで歩いていく。
「それじゃあ失礼します。もう二度と私の部屋の前で土下座なんてしないでくださいね。気持ち悪いですから」
そういって藤堂さえ出て行ってしまう。
たった一人残されたラスカーは自分の意思がまるで介在していなかったさっきまで
状況を思い出す。
(ん? おい、待てよ…言ってないぞ………?)
「外周を走るなんて一言も言ってないぞ俺は!? なんでそんなことになっているんだ藤堂!?」
さっきの藤堂の言葉がジャンナを引き剥がす為の嘘だったということにラスカーは気づけない。嘘に気づけないように生かされてきたのだ。
ラスカーはジューコフスキー基地の大きさを思い出す。
元空軍基地の外周がたかだか数百mなわけがない。百周するにはどう考えても、どう見積もってもかなりの時間が掛かる。
言われた任務は必ずやってしまうラスカーの心に脅迫的な焦りが生じる。
「今日中に終わらないのではないのか!?」
そうは言いつつ、ラスカーは忠犬の如く走り始めてしまうのだった。
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