第46話 褐色の笛吹き男Ⅰ

 冬将軍が去った。半年の間、地面を覆っていた雪が次第に溶け始め、兵士の足を取る泥濘の季節を迎えようとしている。


 雪解けを望んだエンジンの駆動が戦場を吹き抜ける。

 銃弾が、砲弾が、怒号が、悲鳴が。声にならない絶叫が兵士達の中で炸裂する。


 生の浪費と死の増加がようやく再開される。

 地獄の釜が蓋を無くして既に久しい。骸を拾う乙女達もさぞ興奮しているだろう。


 誰もが望む戦乱の終わりを祖国故郷の地で迎えられる兵士はどれほどいるだろう。その枠は限りなく少ない。






正暦1945年 5月21日 クロンシュタット


 ソビエト連邦軍のFoTE、モシェンニクがクロンシュタット島の、簡単に舗装されただけの滑走路と呼ぶには粗末な平地に重脚を下ろした。

 ラスカーは指揮所として使用している二階建てのアパートの窓から、哨戒に出ていた小隊が戻って来たのを自分の目で確認した。


 クロンシュタットという島はフィンランド湾の端に浮かぶ。バルト三国、ナチスドイツに征服された三諸国と、北西にフィンランド。敵地と目と鼻の先だ。

 ローレライの傘の真下、レーダーは妖しき調べを観測し続ける。目視による警戒を強いられるこの島にラスカー率いる第一〇ニ航空機甲大隊は配属されていた。




 穏やかな冬籠りだった、と呼べたクロンシュタットに於ける練兵課程ももう間もなくの仕上げを残すのみとなっていた。

 北部戦線はこの半年間、見事に氷漬けだった。砲弾の音すら凍てついたのかと屋外で耳を澄ますことが出来たほど、戦場は静寂さを有していた。


 最近の第一〇ニ航空機甲大隊は練兵訓練の一環として、敵部隊の戦術的把握と敵陣地に対するハラスメント攻撃に従事してきた。

 ナルバ、スランツィのあるエストニア国境線付近でドイツ軍の部隊を確認していたし、越冬に向けて死に物狂いで備えを急ぐ彼らの頭上に120mm弾を浴びせては帰るを繰り返していた。補給もままならないであろう彼らのうちでどれほどが雪の下に埋まることになったかは、ラスカーの考える範疇には無い。


「失礼致します!」

 民家を再建して利用している大隊司令部に兵士が敬礼と共にやって来た。彼の手には茶色の封筒が大事そうに抱えられていた。


「トルストイ同志少佐殿、方面軍司令部より文書をお持ちしました」

「文書? 珍しいな。要件は?」

「はっ、指定した時間に開封するように、との事であります」


 クロンシュタットは海軍の軍港であったため、簡単な地下電話線が敷設されている。

 方面軍司令部にも雑事に巨大兵器で押し寄せるなと釘を刺されているために、連絡は有線通信が常であった。それが、今回になって封緘文書とは、何かの予兆と感じるには充分過ぎた。


「了解した。ご苦労」

「はっ! 失礼致しました同志少佐殿!」

 伝達兵は敬礼を示すと踵を返して、退室していった。

 さて、とラスカーは手元の封緘文書を机に投げ出す。


「いよいよ、か」

 この指定された時刻こそ今大戦、今年度の口火を切るXデイに他ならない。


 こんな面持ちで上官は部下に命令を下す日を待っていたのだろうか、とラスカーはどこか上の空のまま考えていた。

 その時、

「同志少佐殿! 通信電波を発している不審な船舶が接近して来ています!」

 通信小隊の兵士の告げた内容は薄ぼんやりとしていたラスカーを現実に引きずり戻した。


「不審船舶はなんと言っているんだ?」

「はっ。我ら、エストニア社会主義共和国からの難民なり。友邦ソビエト連邦軍に保護を求める、と………」

「保護だと?」

 エストニアがドイツに降伏して何年経っていると思っているんだ、とラスカーは喉まで出かけて抑え込んだ。


「それは本当に難民を乗せたエストニア国籍の船舶なのか?」

「そこまでは………」

 ラスカーは顎に手を当てた。これでも最前線の前進基地を預かる将校だ。枢軸の工作員を満載した船だと、どうして考えずにいられよう。


「自室待機中の第一小隊を飛ばせ。クロンシュタットの港まで丁重に連れてこさせろ」

「よろしいのですか同志少佐」

「向こうも一応は難民船の体を装っているんだろ? なら武装なんて分かりやすいサインは無いはずだ。第一小隊と、そうだな、ここからネムツォフ同志政治委員、貴方に検問をして頂きたい」

 ラスカーは名指しでネムツォフ准尉を指名した。政治アカデミーを出た彼女を。事、人を選ぶという機能には特化しているとラスカーは認識しているからだった。


「了解しました」

「ボートは、非番の連中に用意させる。第一小隊は難民船を港近くまで曳航させる。だが、検問が終わるまで港には入れるな。クロンシュタットに難民を入れるな」

「「はっ!」」

 号令一下、第一〇二大隊が動き出す。窓の向こうの晴天から少し影が差した。






同日 バルト海沖


 エレーナ・ネムツォフ連邦陸軍准尉が難民船に乗り込むと、すぐに小さな子供の泣く声が聞こえた。それは母親がエレーナの乗船に伴って子供の口を抑えた事ですぐに蚊の無く、とまでいかなくても小さく、そして聞こえなくなった。

 エレーナはその親子を見つけて、努めて穏やかな様子で親子の前に膝を甲板に下ろす。


「坊や、もう大丈夫よ。お母さんも坊やが泣いていたら困ってしまうわ。これ、あげるから泣き止んで」

 エレーナは制服のポケットから一口サイズの小包に包装されたチョコレートを取り出して、泣いていた子供の小さな手の中に置いて拳を握らせた。


「他の子には内緒よ?」

 母親が不安そうに愛息子を見つめていた。

「あっ、あの………」

 母親が何かを言おうとするのを他所に幼いその子はエレーナと拳の中身を交互に見て、静かに首肯したのだった。

「良い子ね」

 それに満足して、エレーナは下ろした腰をまた上げた。


「我々はソビエト連邦軍であります。この難民船の代表者はこちらに来て頂きたい」

 エレーナの呼びかけに、すぐさま一人の男が立ち上がった。身なりは相応に貧しい。頬はコケていて、少し顔色も悪い。

「こちらへ」


 エレーナは難民達が多く座り込む甲板から、船内に入った。


「我々は難民船から発せられた電波を傍受して救出に、」

「あ、あの………外にいたアレは………?」

 あぁ、とエレーナは一呼吸置いた。すっかり見慣れてしまっていたが民間人となればFoTEに怯えるのは無理ないだろう。エストニアを占領した部隊にはFoTEは無かったらしい。

「我が軍の兵器です。話を戻しても?」

 エレーナは簡潔にそう説明を打ち切った。今更隠すほどでも無いが民間人が知るべきことではないからだ。


「あ、あぁ。すまない」

 男はエレーナとは目を合わせようとしない。脱力して床を見ている。

 疲労か、やましいことがあるのか。エレーナがトルストイ少佐殿から仰せつかった任務はその見極めだ。


「我々はあなた方同志の救出に来たのです。もう安全です」

「………ありがたい。ドイツ軍の連中は来るなりアカ狩りを始めて、何人もの家族や友が殺された………。この船だって、どうにか用意したものなんだ」

 男はずっと声のトーンを落として話始めた。戦時下、殆どの物がドイツ軍に徴収されていたはずだが、この難民船は何処から用意したのか、とエレーナは疑問を抱いた。何か、じっとりとした空気が船内に漂っていた。


「今朝。夜が明ける前に港を出て、やっと逃げられたんだ」

「そう………よく持ち堪え逃げ切りましたね。今後は国際法にと則り、連邦陸軍ないし、ソビエト連邦の保護下に入ります。安心してください」

「ありがとう………ありがとう………」

 男の目に涙が浮かんだ。


「では、難民申請者のリストを作りますから、氏名、生年月日、それと出身地もそれぞれ全員教えて頂きます。よろしいですね」

 男は深く息を吸って、

「分かった」

「では、すぐに取り掛かりましょう。皆さんお疲れのようですからね」

 互いに握手を結ぶ。男の手は酷く震えていた。






同日 第一〇二大隊指令室


「この時期に、あんな怪しい船がココに来るとはな………」

「怪しい?」

 戦闘大隊の隊長も兼任するラスカーと、大隊の副官のアリアナ・カシヤノフ大尉は共に窓から広がるバルト海と三機のFoTEが周囲を遊弋する難民船を見つめていた。


「怪しいというのは? 別にありそうな事じゃないかしら。戦況の推移から言えば、連邦は、│連合国ユナイテッド・ネイションズは盛り返しているでしょう。向こうの兵士の不安が支配の手綱を緩ませているのではなくて?」

 その可能性だって無いとは思いたくない。誰だってそんなポジティブな影響から生じた結果だと信じたい。だが、ラスカーにはどうも手放しで喜べるほどの信頼条件が他人と比べて足りていないのだ。


「俺だって、出来るならそう考えたいが………石橋を叩いて渡る、というやつだ」

「何よそれ」

「日本の諺、というらしい。意味は慎重に慎重を重ねる、だったか?」

 そこまで説明して、アリアナのラスカーを見る目が明らかに冷めたような、それでいて焦れるようなモノに変わった。

「藤堂よね。藤堂なんでしょう!」

「あ、あぁ………。そう、だけど………」

 また何か怒らせたらしい。何が気に食わなかったのかはラスカーにはピンと来ないのだが。


 アリアナは数秒じっとラスカーを睨んで、そして、深く溜め息をついた。


「ごめんなさい。話に戻りましょう。それで、どうしてそんなに慎重なのかしら、同志大隊長殿?」

「………彼らが来た時期だ。戦闘が再開されるのが近いことは、大体誰だって想像が付く。なら、なぜ追手が来れそうな今なのか。船を使って逃げてくるならもっと早くてもよかった。艦隊戦が出来ないバルト海とは言え、潜水艦の一つや二つ這いずり回っている。だが、そんなことはいつだって言える。だからなぜ、このタイミングだったのか」


「船しか選択肢がなかったんでしょう。だから、潜水艦に狙われるリスクも取って逃げて来た」

「それと、なぜ我々のいるクロンシュタットだったのか。他の港湾もあったはずだ。それなのになぜ離れ小島を選ぶ? 燃料切れか、追手が怖かったのか」


 ラスカーの疑問にアリアナは当然といった顔をした。

「戦時下、重油なんて大切な物資だし、積んでる量だって多くはないでしょう。それに潜水艦に常に張り付かれてる、なんて私でも気が狂いそう」

 ラスカーもそれには同意する。重油なんて最優先で軍に取られただろう。港中から掻き集めても連邦領まで辿り着けたかは賭けだったろう。

 潜水艦がいるかどうかだって、船上からは確認出来ない。出来たとすれば魚雷管から放たれたウナギが、難民船を撃沈させるのは想像に難くない。


「では、これはどう考える。カシヤノフ同志大尉。エストニアから亡命しようとする彼らがなぜ我々がクロンシュタットにいることを知っているのか」

「それは、救難信号を怒鳴り散らしながら航行してれば誰かしらが見つけるでしょう。それが私達だっただけ………待って」

 アリアナの思考がほんの小さな疑念に至ったようだった。ラスカーと同じ疑念だ。


「ジーメンス粒子の電波を弾く特性、ローレライシステムの影響下では、電波は例え海上でもその性質を極端に低減させる。それなのに、どうしてクロンシュタットが受け取れた電波を発し続けていたのか」

「そう、そういう事。なるほど、怪しく思いたくなるのも頷けるわ」

 アリアナもラスカーの懸念に頷いた。腐れ縁が功を奏したのか、理解が早くてラスカーも助かった。


「連中の中にこの場所を知っていた人間がいる。ソイツの目的はこのクロンシュタットでしか達成出来ない事だ」

 ネズミが入り込もうとしているのは間違いない。難民船の中に確実にいる。今か今かと上陸の瞬間を待ち望んでいる薄汚い褐色のネズミが。

「工作員がいる可能性があるからまだ港に入れていないわけね」

 ネムツォフ准尉には難民達のリスト化を命じてある。点数稼ぎに同僚を密告するのが政治委員の仕事だ。ネムツォフ准尉は鼻の効く猟犬の代わりだ。


「あぁ。工作員はどういう訳かこちらの機密情報まで知り得ている可能性がある。カシヤノフ同志大尉、以下自室待機中の他の全隊員に厳重警備を命じる」

 狙いは封緘文書だろうか、それはまだ結論を出せないが、向こうがこちらの動きに関しての何かしらの情報を掴んでいる。それは間違いない。そして、連邦陸軍の中にドイツに与する内通者がいるという事にもなる。


「ハーメルンの笛吹きを、探し出せ」

 ラスカーは強く命じた。


 疫病を齎す前に、子供を連れ去られる前に。

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