第37話 ヴォルガのカナリア

 長かった髪はスターリングラードに来る直前に切り落としてしまった。

 今は無い長髪をかきあげてしまう癖はまだ治らないが、さして気にもせずアリアナは操縦桿に触れ、自分の髪を弄る手を首元の咽喉マイクに添える。


「全員、聞こえてるわね?いつも通りの哨戒任務だけど念入りに、と上から釘を刺されてる。レイラ伍長、前と同じ失敗をしたら懲罰だから」

「はひっ!」


 名指しで失敗しないようにと注意されたレイラ・クズ・ボリエフ伍長が弾かれたように声を返した。いや、驚嘆の叫びとも取れるか。裏返った声は甲高く、思わずアリアナは耳を手で覆った。


 他の隊員達はレイラの驚きっぷりに笑い声を上げた。

 歳若い少女で構成された哨戒中隊は少し前まで素人とひよっ子の集まりだった。

 アリアナに指揮経験があるからと言って教育の経験に富んでいるという訳もなく、守備陣地の部隊の中では練度最低のお荷物中隊として馬鹿にされていた。

 だが、最近はようやく隊員達の気心も知れてきて錬成にもようやく本腰が入ってきた。


(ズブの素人も最前線に出さなきゃいけないなんてね。今更ではあるけれど・・・。それに哨戒ラインを念入りって言って山ほど弾薬が回ってきた。それに工兵の出入りと物資の搬入も多い)


 アリアナは一人っきりになると考え込むようになっていた。そのため、コックピットなどは思案に持ってこいだ。


 アリアナは最近の守備陣地の変貌ぶりから今後の任務についておおよその見当を付ける。


(近い内に大規模な作戦がある・・・?ドイツに気取られるのはマズいってわけ・・・)


 大規模作戦となれば土地勘がある分、アリアナの哨戒中隊にもそれなりの仕事が回ってくるはずだ。

 アリアナは嫌な予感に頭が痛くなってくる。


「大尉殿?体調が悪いのですか?」

「え?あ、あぁ・・・大丈夫よ。ライサ少尉、任務の後は私の所に来てくれるかしら」

「了解しました。カシヤノフ大尉殿」


(やれるだけの事はやろう。それが、私の贖罪なんだから)


 失った片翼への不義理を払拭する。これからはそうやって生きていく、とアリアナはモスクワを発つ日に誓ったのだ。

 連理の翼は自ら羽根を毟って飛べなくなった。犯した罪は彼女の中でシコリとなり膿んでいた。


 任務の直前の発破掛けも適当に終わらせて、アリアナはフットペダルを押す足の平を倒す。


「カシヤノフ哨戒中隊、フラーブロスチ九機出撃します」

「CP、了解。任務を全うされたし」


 申し訳程度の指揮機能しか有さないヴォルガ・スターリングラード守備陣地のハンガーは地面を掘り返した地中にある。出撃の際にはせっせと急な坂を登らねばならないのだ。

 さらに面倒なことに哨戒中隊に回って来たのは旧式の重機行戦車フラーブロスチで、装甲は厚く積載量には優れているが、排熱系統に欠陥があり、足周りも弱いと来ている。

 ぶっちゃけて言ってしまえばハンガーの坂を登るのすら中々に技量を必要としているのだ。


 せめて、せめてまだ新型のヴィフラや、安価なオレニョークの方ならばと何度思ったことか。着任した当初から、何故ビボルグ基地に自分のヴィフラを置いてきてしまったのかがアリアナには悔しくて堪らなかった。


 うだうだ言っていてもしょうが無い。アリアナは足に力を込めた。

 フラーブロスチがその鈍足を踏み出した。アリアナ機に付き従うように中隊各機も歩き出した。


「転んだら連帯責任で懲罰よ!筋トレで天国を見せてあげるわ!」

「「了解!」」


 フラーブロスチはケンタウロスのような人と馬が一体化したようなフォルムを有している。その設計上、機体の前面に重量が寄っている為に後ろ脚にかなりの負荷が掛かっている。

 アリアナが坂を登るコツを捕まえるのに三日掛かった。歴戦の搭乗員であるアリアナでこれならば中隊の隊員達はその倍以上掛かって然るべきなのだ。


 だが、中隊各機はさして苦労する素振を見せる事も無く、ハンガーを出て陽光にその機体を晒した。


(ここまでに三ヶ月掛かったのよね・・・・・)


 慣れないことはやるべきでは無い。散々他人に言っていたことが自分に返ってきた気分になる。


「中隊、索敵陣形」

「「了解」」


 フラーブロスチ三機からなる一個小隊が三つ。その三個小隊を以て哨戒中隊を為している。

 哨戒中隊は三角形を描く陣形を作り、その先頭には中隊長であるアリアナが立つ。




 ヴォルガ川を挟んで向こう岸にはスターリングラードの街並みが見える。しかし、すでに住んでいた人々は避難しており、無人の廃墟街が静かに横たわっている。


「レーダーに感!九時方向、数五。哨戒中のドイツ軍と思われます!」

「まるでお見合いね」

 互いに不毛な任務をさせられていると思っているだろう。おそらく何度かこうやって会ったことがあるはずだ。

「敵砲撃!」

「フラーブロスチの装甲は奴らの砲じゃ抜けない!落ち着いて照準を合わせなさい!統制射撃用意!」


 砲撃してきた敵部隊と並走しながらアリアナ達は照準を合わせる。排熱の関係で速度を出せない為に敵の方が足が速い。だが、サイトから逃げられるほどでは無かった。


「撃てッ!」


 フラーブロスチの120mm携行野砲が燈火を吐いた。

 一発撃つだけでオーバーヒート直前と警告が出る辺り欠陥機と謗られるだけはある。


「流石に新型に当てるのは難しいか・・・・」

「そうですねぇ・・・」


 哨戒中隊が放った砲弾は廃墟を貫き、彼らの砲弾は機体の脇を掠めて地面に突き刺さった。


「逃げるなら追わなくてもいいでしょう。任務に戻るわよ」

 敵機はスターリングラードの街並みに隠れてしまった。無用な追撃は無用の消耗に繋がるだけだ。それに、手練れの部隊ならまだしも新兵と新任少尉がほとんどの哨戒中隊ではやるだけ徒労で終わる可能性の方が高いだろう。


 生き残る事だけを徹底させている。その為の技術ならばアリアナはレイラ達に教えた。だが、それ以外は積極的に教える、という事はしてこなかった。死なないだけでこの守備陣地には意味のある行為だ。ならばそれだけでいい。いいはずだ。




 フラーブロスチの装甲でソーセージが焼ける。


 とは機行戦車乗りの皮肉交じりのジョークであるが、あながち馬鹿に出来ない事をヴォルガに着任して思い知った。


 哨戒中隊は小休止に入った。ヴォルガの流れを絶えず監視できる位置に腰を下ろし

、硝煙混じりの空気を隊員達は吸い込む。


「大尉殿、コーヒー出来ました!」

 レイラ伍長が差し出したカップの中には八月の夏の日差しを反射する黒い液体が注がれてあった。


「凄いですよね。本物ですよ!インド産が下っ端にまで回ってくるなんて、私嫌な予感しかしませんよ」

「嫌な予感って・・・考えすぎですよライサ少尉!毎日こき使われている私達へのご褒美ですって!」

「そう考えられる貴方がたまに羨ましくなるわ」

「そうですかぁ?えへへ・・・・」

 褒めてないわよ、とライサ少尉は零すがポジティブが服を着て歩いているようなレイラ伍長には伝わっていない。


「確かに、祖国に甲斐性があった事なんて一度も無かったわけだけど、斜に構えて士気を下げるような事を言うのは指揮官のすることではないわ少尉。今は今よ」

 アリアナはコーヒーを啜った。代替コーヒーのような雑味が無い。コーヒーの酸味と香りは確かにこんな物であった、とアリアナは思い出した。


「そんな呑気で良いんでしょうか・・・・」

「未来の事なんて誰にも分らないんだから、今から肩肘張ったってしょうがないじゃない。少尉も飲みなさいな」


 即席の補充要員として任官されたにしてはライサ少尉は聡い。生き残れれば後方でふんぞり返る連中などあっという間に追い抜くのも容易いかもしれないだろう。

 アリアナは後輩の期待とともにコーヒーを呷った。


「はい!少尉の分ですよ!」

「あ、ありがとう・・・・」


 「あっつ・・・」とライサ少尉は感想を述べた。意外に猫舌らしい。


「話の流れを切っちゃってなんですけど、大尉って髪の毛長い方が似合いそうですよね。髪の毛サラサラで綺麗ですし。前からそうだったんですか?」

「いきなり何よ・・・・。別に何だっていいでしょう」

 アリアナは露骨な拒絶を示す。レイラ伍長はグッとアリアナの心に踏み込んでくるときがある。本人が思っているかどうかは別であるが、純真な瞳はアリアナの薄汚れてしまった瞳を覗く。


 拒絶したのに、不思議そうにレイラ伍長はアリアナを見つめている。それは子犬が飼い主の様子を伺っているようで、アリアナの毒気が抜けてしまった。


「失恋したのよ・・・・。言いたくなかったのに・・・!」

「レイラ・クズ・ボリエフ伍長!慎みなさい!」

 空気を読んだライサ少尉が怒鳴った。レイラ伍長は「ごめんなさい」と叱られてしゅんとしてしまった。

 ライサ少尉が怒鳴ってしまった事で他の場所で休憩していた隊員達も驚いて此方を見ていた。


 アリアナはため息を吐く。部下に気を使われて、士気がどうこう言っていたのにこのザマとは。むしろ笑えてきた。


「いいわ、ライサ少尉。ありがとう。・・・・・いいの半年以上前の事だから」

「大尉殿・・・。ですが、プライベートの話ですし」

「吹っ切れたわ!もう叶わない恋だもの。せいぜい笑い話にして供養するのが一番よ」

 どれだけ鈍い人間でもあんな別れ方をすればきっと縁が切れたことは分かるだろう。だからもう叶わない。そうに決まってる。


「学生の頃から伸ばしていた髪だったから・・・。初任地も一緒で、ずっとソイツの隣にいたのに縁が切れるのは簡単なのよね。それを認めたくなかったんだと思うわ」

「なんていうか・・・・・大人っぽいですね!大人の恋です!」

 伍長なりの慰めなのだろう。アリアナは笑いを堪えられなくなってしまった。


「伍長、慰めてくれてありがとう。笑い過ぎて息苦しいくらいよ。でも、流石に不躾過ぎるわ。レイラ伍長には帰投後に筋力トレーニングを命じます」

「えっ!?そんなぁ~!?」

「私も付き合うから。みっちり三セットはやるわよ。・・・・・さて、小休止は終了ね。各員搭乗!」

 アリアナは立ち上がって号令を掛ける。彼女の足取りは今までよりも軽かった。

「「了解!」」

「冗談ですよね大尉~!?三セットなんて、無理ですよ!?」


(まだ二十歳はたち前なんだから、やり返しても問題ないわよね?)

 アリアナは悪戯っぽく笑った。







 三か月後の十一月九日。後の世で人類史上、最悪の市街戦と呼ばれる天王星作戦が発動される。

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