第3章
第25話 斜陽
モスクワ、クレムリン宮殿には華々しさとは程遠い軍人達が集まって壇上を見やっていた。そしてその視線の先にラスカーはいた。
「強化機甲戦闘機試験大隊所属ラスカー・トルストイ大尉。先の作戦に於ける貴官の勇猛な働きを称え、栄誉ある赤旗勲章を送るものとする。今後も貴官の党への献身を期待する」
「はっ」
短かな表彰の言葉が終わると、勲章が手渡される。そして万雷の拍手が鳴り響いた。しかし、この宮殿にいるものならば叩き過ぎて痛い筈だ。なぜならこの表彰はラスカーだけではないのだから。
後がつかえるからなるべく早足で降段しろと役員からは言われていた。
ラスカーが階段に足を掛けた所で次の叙勲者の表彰が始まっているのを見れば、どれだけ後ろがつっかえていたかよく分かる。
貰う物を貰ったラスカーは自分の立ち位置に戻る。そして周りの拍手に合わせて手を叩くのだ。名も知れぬ同志の為に。
枢軸軍を取り逃がしたあの作戦から一ヶ月。正暦1944年8月。ラスカーは七ヶ月ぶりにモスクワの大地を踏みしめていた。
先日、クレムリンでの叙勲式を終え、ようやく一段落、一息ついていた。
エリョーメンコ少将からジューコフスキー基地へ帰って来いと言われた時はラスカーもだいぶ肝を冷やしたものだが、続く言葉、叙勲式によって杞憂に変わる。
赤旗勲章とは軍務従事者のみが貰える勲章だ。過去にザイシャもこの赤旗勲章を貰っている。
そんな赤旗勲章で制服を着飾るが、その制服は懐かしのジューコフスキー基地の自室のハンガーに掛けられたまま。ラスカーはシャツと制服のズボンという姿になっていた。
「さて………」
ラスカーは椅子に腰掛けるとテーブルに置かれた書類に目を通す。
書類には氏名年齢階級と顔写真が添えられている。揃いも揃って平和そうな顔をしているのが特徴だった。
北アフリカで共に戦った第194大隊のブラギエフ大佐の厳しい顔も早々と思い出へと移り行く。
モスクワに着いた時、まず口にしたのは「涼しい」だった。アフリカとユーラシアでは気候が違うのが当たり前なのは承知しているがこうも違いを体感してしまうとどうも我慢が出来なかった。
半年も異国の地にいれば感覚も変わってくるか、と感傷も程々に書類を捲る。
「任官したばかりの奴らが一人、二人……はぁ………」
ラスカーは途中で数えるのを諦めた。
(自分もビボルグ基地へ赴いた時にはこんな風に思われていたんだろうな)
親の心子知らず、と日本人は言うそうだが確かに、先輩の心後輩知らずだ、とラスカーはどうも考え事の度に関係の無い方に進んでしまう。
「駄目だ………」
いつにもなくラスカーはだらけてしまっていた。何をしようにも意欲と呼べるものは沸き立ってこない。
長旅の疲れが残っているのだろう、と結論付けてもう一度だけ書類を睨むが、虚しい抵抗だった。アフリカの日射に比べてしまえばモスクワに差し込むのは春の陽気のようなものだ。
ついウトウトしてしまうのだが窓の外では訓練が行われており万が一にも覗かれた場合、赤旗勲章を頂いた軍人としての振る舞いをすべき、と眠気を一蹴する。
「さて、受領の判でも点けばいいんだろうか」
ラスカーはトランクの中身を漁り始める。作戦が終わってからこの方ずっとこの調子であった。疲れと幾何の焦燥が入り混じった感情を、ラスカーは持て余していた。
書類は新しく創設される部隊の構成員の個人情報が記載されていて、今度からラスカーは今までの分隊規模では無くて中隊を指揮することになった。
強化機甲戦闘機試験大隊は便宜上大隊と名乗っていたが、実際は試験機を動かせるだけのパイロットが数名と整備兵、その他事務方の軍人で構成されていた。
そしてこの度からFoTEに関した事柄の習熟の他にパイロットの育成も兼ねた増員が成された。
それによって新しく四十人近くのパイロットが新しく配属されたのだ。
FoTEを運用する三つの中隊から成る一個大隊を構成するという訳だ。
その三つのうちの一つ、この基地の三番目のFoTE中隊をラスカーは任せられたのだ。
しかも、新たな部下は戦場に出たことも無さそうなヒヨコばかりである。唯一助かったことといえばエルヴィラ・ザノフ少尉も共にこの中隊所属となることか。
今、エルヴィラはその後輩達にFoTEのレクチャーを行っていた。エルヴィラは既に彼らと会っているが、ラスカーは叙勲式がありまだ一度も会っていない。そのせいか、説明も全てエルヴィラに丸投げしてしまった。まぁ隊長はラスカーで、副隊長は分隊に先に着任しているエルヴィラになるからおかしくはないだろうが。これから指揮官になるこの身の上としては早めに挨拶をしたいところではあった。
と、そこへ扉をノックする音が聞こえた。ラスカーは気だるげに椅子から身を起こし、拍子木のように叩かれる扉の前に立つ。
「マリベル・クラースヤ通信兵少尉であります。トルストイ大尉、いらっしゃいますでしょうか」
いるも何も扉を挟んで向こうにいる。ラスカーはすぐに扉を開けた。
「どうしたクラースヤ通信兵少尉」
クラースヤはすぐに呼び出しに応じたラスカーに驚きつつ、女性的な柔らかな表情を崩さない。
「エリョーメンコ少将閣下から執務室まで来て欲しい、と」
「それは今すぐか?」
「はい」
ラスカーは一度テーブルの上にぶちまけられた書類を鑑みるが、ただ眺めているだけであったから構わないと判断した。
「少し待て。準備する」
準備と言ってもネクタイを締め、制服を羽織るだけだ。手短に全ての動作を終わらせ、廊下に出る。
「それでは行きましょう大尉」
「あ、あぁ」
何気なくクラースヤの後ろを歩いているが、エリョーメンコ少将に呼び出される心当たりなどある筈が、無いとは言い切れないのだろうか。自分の見落としていた部分で何か不味いことがあったのではないか、などとラスカーは考えてしまう。
「大尉は何か作業中だったのでありましょうか?」
「ん、いや別にそういうわけでは無い。まだ本格的に仕事が振られてないからな。資料に目を通していただけだ」
そう目を通していただけだ。目が記号を追って右往左往していた。その動作にラスカーは何の価値も見いだせない。
ラスカーは不意に廊下の窓を覗いた。外では滑走路に居並んだKs-17が十六機。中隊規模で訓練を行っているようだった。
先頭の一機が離陸しようとしているのかスラスターを瞬かせ加速する。ラスカーは離陸する為に操縦桿を握る手を後ろに引いた。
「大尉? どうかされましたか? 大尉?」
ラスカーは手に操縦桿など握ってはいないし、ここはFoTEのコックピットの中ではない。
「…何でもない。アラビア半島やらアフガンやらを列車で渡ってきたから疲れがなかなか取れなくてな………。悪い、時間を取らせたな。行こう」
(睡眠時間はまぁ足りている筈だ…。後、健康を害しそうな要因と言えば………)
叙勲式の後はザイシャと一緒に基地近くで飲んでいた。思い当たる節と言えばそれくらいか。
歩きながら考えているうちにエリョーメンコ少将の執務室まで着いてしまった。
クラースヤはラスカーの部屋でした時のようにノックをして入室する。
「マリベル・クラースヤ通信兵少尉。ラスカー・トルストイ大尉をお連れしました」
「ラスカー・トルストイ大尉、入ります」
部屋に一歩足を踏み入れた途端に足が少し沈んだ。固かったリノリウムの床は遥かな南方にしかないのか、とまた感傷に浸ったしまう。
「あぁ。クラースヤ通信兵少尉、ご苦労」
エリョーメンコ少将はクラースヤに礼を言うとラスカーに向き直った。
「赤旗勲章の着け心地はどうかなトルストイ同志大尉」
「はっ、自分には過ぎたる名誉かと存じます。ですがこの勲章に恥じぬ働きをするべく今後も精進致します」
「うむ。その言葉に偽りが無いこと期待する。さて、君を呼んだわけだが、今日の晩は予定が空いているかな?」
「はい。部下への挨拶がまだですが閣下の御命令とあらば後回しでも問題ありません」
エリョーメンコ少将は目を細めて笑う。ラスカーは何故かこの笑みが苦手に感じた。今まではそうでもなかったのだが。
「それは良かった。今日は参謀将校らが集まる晩餐会があるんだが…私の同僚がこぞって君の出席を求めてくるんだ。存外しつこくてね。無理にとは言わないが、どうだろう。付いてくるかね? 付いてくるならくるなりで君にも多少のメリットはあると思うが………どうだろう」
料理も出世にもさほどの興味が無いラスカーにとって行く理由も無ければ断る理由も無かった。強いて言うならエリョーメンコ少将が来てくれと頼んでいるのだから、部下としては行かねばなるまい。
「閣下の頼み事を断れる者はこの部隊にはいないでしょう。お供させて頂きます」
(まぁ美味いものを食べて帰ろう)
ラスカーが承諾すると、エリョーメンコ少将は満足そうにまた目を細めた。
「そう言えば同志大尉。アフリカに行ってから雰囲気が変わったな。少年の生きる時間と大人の生きる時間はこうも違うものなのだなぁ」
一人、何かを納得したように呟くエリョーメンコ少将に対してラスカーは―――、
「はぁ…そうでしょうか」
ラスカーにはエリョーメンコ少将が何を意味してそんな事を言ったのか分からなかった。しかし、エリョーメンコ少将は何も言わず狐を思わせる笑みを浮かべた。
ラスカーには縁遠い建物の前にドライバーは停車した。
エントランスに待機していた将校の一人が車に近づいてきて車のドアを開く。
「ありがとう。さ、ここだ。君達も付いてきなさい」
エリョーメンコ少将はラスカーとクラースヤにも降りるよう手招きをした。
将校クラブ。軍の慰安施設だ。酒に料理。基地やらでは確実に食べられないものを提供してくれる、らしい。だが、前線で戦う兵士にとっては縁もゆかりもない場所である。士官であるラスカーも中にまで入るのは初めてだった。
ラスカーは車から降りると、自分の制服が乱れていないか気になりだした。
晩餐会と言うからにはもっとそれらしい場所で行うものとばかり思いつつ制服の襟を正す。
「早くしたまえ」
「申し訳ありません閣下、ただ今」
クラースヤが先行しラスカーはその後を追った。
ロビーに出ると、クラースヤが案内係に三人出席の旨を伝え、エレベーターに乗り込む。
エレベーターは大食堂のある二階で止まり、エレベーターがその鉄扉を開かせると三人の鼻を香ばしい香りが駆け抜けた。
「今日は腕のいいコックがいるようだ。上々、上々」
エリョーメンコ少将は変わらぬ薄ら笑みを顔に貼り付けながら呟いた。
エレベーターを降りれば匂いは一層際立った。
「おぉエリョーメンコ少将殿! ご無沙汰ですなぁ。彼が例の?」
「えぇ。トルストイ同志大尉、こちらはメーデルスキフ同志少将殿だ」
エリョーメンコ少将に紹介され、ラスカーは敬礼をする。
「ラスカー・トルストイ大尉であります」
「あぁ、そんな固くならないでくれ。今日ばかりは無礼講なのだよ。君のお陰でね」
「自分のお陰、でありますか?」
聞き返すがメーデルスキフ少将はワインの注がれたグラスを片手に会場内に紛れてしまった。
「さ、これから挨拶周りだ。舌鼓を打つのはしばらく我慢してくれたまえよ」
エリョーメンコ少将が話しかけた先々でラスカーのお陰で首の皮が繋がっただの、左遷されずに済むだの、とそんな言われ方をされるがラスカーには一切何のこっちゃである。
答えを知っているであろう人々は酒に酔い、肉に舌鼓を打っている。
会場を一通り見て周り、来場者の殆どと挨拶を済ませたエリョーメンコ少将はようやくウエイターからグラスを貰ってワインを飲み始めた。
「面倒を掛けたな。後は楽しんでいってくれて構わないぞ」
そしてエリョーメンコ少将もまた、グラスを片手に人混みの中に紛れてしまう。
この場に残されたラスカーはため息を吐いた。
「大人気でありますね大尉」
「自分でもよく分からない理由のおかげで純粋に喜べないがな」
クラースヤは通りがかったウエイターからグラスを二つ貰い、一つをラスカーに手渡した。
「あぁ、そういえば大尉は列車の中のはずでしたね」
「何か知ってるのかクラースヤ通信兵少尉」
何か知ってる風なクラースヤに自分が何故どこに行っても誰に聞いても持て囃されるのかを尋ねるとクラースヤはなかなか信じられないような事を口にした。
「アメリカ合衆国のベルトローズ大統領からトルストイ大尉の戦功を称賛する旨の電報があったんです。そしてそれを機関紙で大々的に伝えた結果が………」
「これか………」
なるほど。合点がいった。とラスカーはワインを口に含んだ。葡萄の香りがラスカーの喉を貫いた。
(アメリカ海軍のせいで失敗した作戦を、ソビエト連邦共産党が許すわけが無い。作戦局に払わさせるつもりのツケが今回のアメリカ大統領の発言で取り消しになったのか。作戦局から生贄を出す事は無く、それでいて党のメンツも一応は守れた、と)
何もしなければ生贄を欲する党によって参謀本部の要職から両手の指じゃ足らないくらいの空席が出来ていた事だろう。
最悪の結果だけは回避出来た事を記念して今ここで杯を酌み交わしているのだ、ラスカーは思い至る。
(何ともお気楽な事だ。前線では水の一杯すら貴重だというのにな………)
酒の味と共に軍の中枢に対する若干の失望を飲み干す。不意に目を閉じると、そこには灼熱の砂漠が思い浮かんだ。
(なんと味の無い祝杯だろうか)
これならばザイシャとパブで飲んだ安酒の方が遥かに味わいがあった。
「トルストイ同志大尉!」
声を掛けられ、振り向くと顔を真っ赤にした将校らが立っていた。
「この度はなんと感謝を申し上げたらいいか! 同志大尉のおかげでどうにか転属許可証に名前を書かずに済んだよ。作戦局の将校全員の命の恩人だ同志大尉!」
「いえ、もう一度自分がモスクワに戻って来られたのもあなた方のおかげですから」
穏やかな、というより気怠げな表情で返事をするラスカーの言葉は自分が思っている以上に棘が立っていた。
(一大反攻作戦だったのだろう? なら、なぜ顔を真っ赤にして酔える? 俺の気持ちが理解出来ない? 狼どもをこの世に一分一秒たりとも生き長らえさせる、この現状に甘んじることができる?)
「ささ、もう一杯如何です?」
「はぁ、どうも」
傾けられたボトルから、グラスへ酒が注がれるが、とても飲む気にはなれなかった。注がれた酒は獣畜生の糞尿と比べられるほどだ。
適当な返事をするラスカーは、それでもなお矢継ぎ早に何かを言ってくる参謀将校らが鬱陶しく、間抜けで不謹慎で怠惰で醜悪で。およそ思い付く全ての悪態に当てはまりそうに思えてきた。そのせいか、テーブルに音が立ってしまう程度の力でグラスを置く。
「申し訳ない。久しぶりのアルコールで酔ってしまったようだ。少し夜風に当たりたいのだが、構わないだろうか」
「えぇ。勿論です」
すまないな、と心にもない捨て台詞を残してラスカーは会場を出た。
たら、れば、などと言い訳がしたいわけじゃない。失敗するべくして失敗したのだ。なら、何が作戦遂行を妨げる要因だったのだろうか。ラスカーは珍しく答えを見つけたような気がしていた。
それはきっと人間の怠惰なのだ。喀々と撤退したアメリカ海軍の怠慢だ。失敗してもその事実を平然と受け入れた参謀将校らの怠慢だ。
起こるべくして起こった失敗はきっと、始まる前から決定されていたのだ。
「なまじ自分のせいではないおかげで余計にな」
言い訳は簡単にラスカーの口から這い出てはモスクワの闇に溶けていく。
行き場を無くした感情は喉から溢れて、林立するコンクリートビルの中で消えていく。
なぜラスカーは戦っていたのだろうか。それは後方でヌクヌクとしている彼らを肥えさせる為では無かった。
「父さん、母さん………」
(なぜ俺の両手は大事な人の手を掴めない…どうしてこんなに小さく短いんだ…!)
ドイツ兵、保安警察に連れて行かれる両親、ラスカーを庇って死んだ中隊長。FoTEとの遭遇戦で死んだ部下達。扉の向こうで泣き崩れたアリアナ。
そこで、なぜアリアナの姿が思い浮かんだのか。確かに喧嘩別れのような状態で離れ離れになってしまったが、アリアナはおそらくまだ生きている。それなのにどうして今ラスカーが彼女を思い至ったのか。
「お前の声が聞きたいよ、アリアナ………」
いつだってアリアナはラスカーに道を示していた。かくあれかし、とそうである為に自身を律してきた。その度に自分の至らなさを痛感して。そうやって今まで甘えていたのだ。
ラスカーはベランダの欄干に置いた手を握りしめる。
「いや、弱気では駄目だな。またアリアナに怒鳴られてしまうな………」
ラスカーの見上げた先に、摩天楼のその頂上には欠けた三日月が浮かび上がっている。
「やってやる。失敗する要因を全て潰せば成功するしかあるまい?」
月に向かって拳を突き出す。彼女も見ているであろう月に向かって少年は吼える。
猟犬だ。灰色の狼の喉笛を食いちぎる血の毛並みの猟犬だ。
繋ぐ手で無いのなら、敵を潰す手であれ、と。
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