第41話 痩せ狗

正暦1944年 11月20日 モスクワ ジューコフスキー基地


「ラスカー・トルストイ大尉。参りました」

 敬礼の為に振り上げた腕が重い。体調にはもう悪い部分は無いと診断されていたはずだが、重く感じられた。

 ラスカーはこの日、初めて職務を、職責を面倒と思ってしまった。

 今は、何もかもが面倒で、煩わしい。


 基地の司令官という肩書きを持った男、エリョーメンコ少将の狐のような顔を、ラスカーは睨む。

 左目を眼帯で覆っている為、右目でしか彼の顔を見る事は出来ないが、両目で見てもきっと不快に思ってしまうことだろう。


「やぁ。体はどうかねトルストイ同志大尉」

「快調とは言えませんが業務に支障は無いだろうと」

「それは良かった。それじゃあ早速だが君には第一○一航空機甲大隊から一度外れてもらう。君が次に配属されるのは…、これまた新設の部隊なのだがジューコフスキー教導隊という部隊だ。主な任務は普通の戦技教導隊とは変わらない。FoTEに関する空戦技の技量向上、研究、習熟に務め、そして後進の指導も行ってもらう。第一〇一大隊の前身である、試験大隊から研究任務を受け継いだ形と言えば概ね合っていると思う。配属理由は君の怪我の具合を考慮した結果だ。自分のその技量と治療してくれた腕利きの医師に感謝するといい」

「はっ、承知しました」

 左手で小脇に抱えていた制帽のツバを握る指に力が入る。

 ラスカーに掛けられる言葉の全てが、自分自身に追い打ちをかけているようだった。悔しさが込み上がって、唇を噛んだ。


「同志少将閣下。一つ、質問をよろしいでしょうか」

「なんだね? 許可しよう」

「第一○一部隊は、現在南部戦線で戦っているはず。自分を含め少なくない欠員を出してしまいました。それなのに、このタイミングで教導隊を新設するのは悠長ではないでしょうか。今は人民の為に、一人でも多くの戦闘員を前線に送るべきなのではないでしょうか」


「部下の仇が取りたいかね? ラスカー・トルストイ同志大尉」

「これは私情では無く、自分なりの戦略的整合性を考慮しただけであります」

 確かにパイロットは必要だろうが、今から育てていては間に合わない。目の前に垂らされた蜘蛛の糸はいつ途切れてもおかしくはないものだ。


「ふむ…。なるほど、戦力の逐次投入が愚かな行動というのは合っているだろう。チャンスがいつまでも目の前にぶら下がっている道理は無いのだからね。君のその判断も正しいのだろう。だが、それはこの欧州大戦に限っては、だ」

「限って…とは?」

 含みのある言い方に、ラスカーは踏み込んで聞いてしまう。


「同志大尉は欧州大戦が終結すれば、世界に平和が訪れると思うかね? 相容れないイデオロギー同士が存在するこの世界が」

「連合も一時的な、寄り合い所帯でしかないと」

 全ての資本主義は社会主義を経て、共産主義に移行する。全ての人間が等しく扱われる理想の世界。連邦の掲げる理念の結晶。

 その為に打倒されなければいけない資本主義者、自由の国アメリカ合衆国と。


「中華では呉越同舟という言葉があると聞く。呉と越の二国は敵同士であったが、運悪く同じ舟に乗って川を渡ることになった。狭い船内で喧嘩をしてしまっては舟が沈んでしまう。彼らは生きて川を渡るために協力して舟を漕いだらしい。つまり、そういう事だ。そういう関係でしかないのだよ。彼の国と我らが連邦は。教導隊は連中の言葉で言えば先行投資だ。先だって準備をしていれば困らずに済むだろう?」

「枢軸は、ナチスドイツはもはや敵ではないと、閣下はお考えなのでしょうか」

 エリョーメンコ少将が立ち上がって、ラスカーの肩に手を置くと、すれ違い様に口を開く。

「あれだって我々の予想よりも遥かに長く戦っている。だが、技術力を除いたあらゆる面で連合国が圧倒し始めているのだよ。それに、大尉が交戦したあの機体。モグラからの情報だと、なかなか面白いパイロット部品を積んでるそうだ。ワンマンアーミーに頼り始めた国など、物量で擂り潰せばいいのだよ。ノモンハンのように…いや、あれよりはマシだろうがね」

 少将が嗤う。耳障りな、甲高い声で。

 「それでは、これから会合があるのでね」とエリョーメンコ少将は執務室から出て行った。

 ラスカーも制帽を目深に被る。

 渡された辞令はラスカーの手の中でくしゃくしゃに潰れてしまっていた。



同日 基地内食堂


 空はどれだけ晴れていようと、心は深い霧に包まれているよう。見聞きする全てが現実感に欠いている。まるで映画か何かを観ているようだ。


 気まぐれに注文したブリヌィはすっかり冷め、ジャムの中の砂糖の甘みがしつこく舌に絡みついてくる。


 食堂はそこそこの賑わいを見せ始めた。その中で一番の賑やかさがあるのは若い士官連中のいる席だ。

 彼らはシミュレーター訓練を2000時間行い、そして戦場へと赴くのだろう。恐らくはウクライナや旧ルーシの前線へ。第一〇一隊の補充員として。

 一年前までは自分もあんな風だったのだろうかと、左目を覆う眼帯を撫でた。

 その後は、何も考えないようブリヌィを口いっぱいに頬張った。

 無くなってしまったものは戻っては来ない。彼らを見るラスカーの右目には確かに羨望の念が込められていた。


(新しい上官に挨拶しないと………)


 食べ終え料理を載せていたトレーを返却口へ戻す。


 かつての古巣は、もうラスカーの知っていた場所ではなくなっていた。


 自分だけが一人、立ち止っている。







同日 基地内 教導隊割り当ての部屋


「ラスカー・トルストイ大尉。入室します」

 右手でドアノブを回し、扉を押し込む。

 左手で制帽を脇に抱えると、ドアノブから離した右手でいつも通りの敬礼を行う。


「今日付けで、ジューコフスキー戦技教導隊に配属されましたラスカー・トルストイ大尉であります」

「おお! おぉおぉ! 待っていたよ大尉。ささ、そこだと寒いだろう。暖房の隣まで来るといい」

 ラスカーにそう呼びかけた男性は、まるで孫にでもしてやるかのように、ラスカーに向かって手招きをした。


「はぁ…。イヴァン・ウラジーミロヴィーチ・ヴォイニーツキー大佐」

「ヴォイニーツキーと呼びたまえ。それかワーニャでも良いぞ、大尉」

 ヴォイニーツキーは見事に蓄えられた髭から白い歯を覗かせて、にこやかに笑った。まさしく好々爺という言葉が似合いそうな男だ。

「了解致しましたヴォイニーツキー大佐」

 ラスカーが暖房の暖気が当たる位置まで近づく。

「つれんのぉ…。まぁ、いいわ。ようこそジューコフスキー教導隊へ。我が隊は新たな同志を歓迎する、なんてな。まだ、私と大尉、そしてもう一人を足した三人しか配属されておらんよ」

「はい…? 大佐、今何と?」

 一応は教導隊だろう。まだ初動とは言え、三人というのは少なすぎるのではないのだろうか。


「仕方あるまいよ。なんせこのご時勢だ。何もおかしなところが無ければ基本は前線行きだ。大尉。閑職にようこそ、の方が挨拶として正しいかな?」

 ラスカーは反駁しようとするが、言葉を呑み込んだ。

 つまるところ、その通りだと納得してしまったからだ。

 怪我、骨折ならまだしも、左眼球を摘出したとなれば、まだ働けているだけマシなのかもしれない。

「口が過ぎたな。まだ配属されてくる者はいる、にはいるが療養中との事だ。奪還作戦で大量の負傷者を出したからな。文句を言ってやるのも酷だろう。さて、大尉にはまず初めに大事な事を伝えておこう」

「大事な事、でありますか」

 オウム返しに、ヴォイニーツキーは満足そうに頷いた。


「私は生粋の陸軍人であり、体に機械を入れたことなど健康診断ぐらい。つまり、ジューコフスキー教導隊の実質的なリーダーは大尉、お前さんってことだ」

「はぁ………」

「なんだ、リアクションが薄いじゃないか。そこはもっと、何だってぇ!? ぐらいの反応を期待していたんだが」

 そっちの方が反応に困る、と言いたくなる衝動を抑え込み、ラスカーは曖昧に相槌を打った。


「見ての通りの死に損ないだ。未だにボケが来ないんで、この教導隊のお飾りの部隊長を仰せつかった。基本は事務仕事をするから実務は大尉に一任したいと思う。どうかね?」

「大佐がそう仰られるのでしたら、全力で務めさせていただきます」

 「うむ!」とヴォイニーツキーは雑にラスカーの肩を叩いた。


「大尉。君はこの後暇かね? 私は部下と飲み合うのが生き甲斐なんだ」

「………承知しました。お供させていただきます」

「そうか! そうかそうか! さぁ行こうじゃないか。どうせ仕事という仕事もまだ来ないんだ。アルコール産業の発展の手伝いを忙しい連中の代わりにやってやろう!」

 そう言うと、ヴォイニーツキーは豪快に声を上げて笑う。

 ヴォイニーツキーがラスカーの肩に手を回すと、ラスカーを引っ張って室内から出てしまった。


「息子と飲み合うのが、夢だったんだが…ウチには娘しかいなくてな。しかも、三人姉妹と来た。そのうえ家内と性格がそっくりでなぁ。ウチに居場所が無いんだよなぁ………。ふぅむ。君のような息子を持てたご両親はさぞ、鼻が高いだろうな。傷病兵とは言え、組織に必要とされて残されているのだから」

「そう、ですね…。そのように思っていてくれたなら、自分にも価値があったのだと思えます」

 ラスカーはヴォイニーツキーの腕を肩からそっと外し、ヴォイニーツキーの後ろ側に立つ。


「大尉…。君はある意味で理想的な軍人だ。体制に好かれる人間、という意味だ。私にはそんな生き方は肌に合わなかったがね。ラスカー、君は若い。気の赴くままに生きるという選択肢もきっとあるはずだ」

 そう言うと、ヴォイニーツキーはこちらに向けた顔を前に戻して、歩き出してしまった。

(そんな生き方が出来れば、どれだけ楽だったろうな………)

 二歩分遅れてラスカーも右足を前へ踏み出した。







 曰く、イヴァン・ウラジーミロヴィーチ・ヴォイニーツキー大佐は赤軍時代からの歴戦の軍人。

 曰く、大粛清を生き延びた大ダヌキ。

 曰く、かの翁の肝臓はアルコールを感じられない。


「ダッハッハ! 愉快や愉快! その豪快な飲み姿のなんと晴れやかなことよ! 良い飲みっぷりだ! 気に入った! ウチの三女と結婚しないか? ヴィクトーリアと言うんだが」

「大佐、もう十五杯めです。まだ飲み…いえ、せめて制服を脱がれてはいかがでしょうか?」

 昼過ぎから飲み始めて数時間。安月給とはいえ、税金で食っている身だ。ラスカーは気が引けてならない。


「いいか。ラスカー大尉。酒を百薬の長。ロシア人の血液はウォッカで構成されている。つまり、病人の貴様に私は薬を飲ませているだけだ。治療行為を憚る理由が何処にある?」

「恐れながら、酒を幾ら飲んだとて、無くなった左目は再生しません!」

「ん? あ〜気の持ちようだ! 貴様のように鬱々とした顔は見てるだけでムカついてくるのだよ。俺は!」

 ヴォイニーツキーがラスカーのグラスに並々と酒を注ぐ。

 零れないように慎重にグラスを持ち上げると、ラスカーは一気に呷った。

 アルコールが喉を通った瞬間、体に火がついたようだ。


「あぁ。倅にしたいくらいに見事な飲み方だ。どうだ、本気でウチの所に来ないか?」

「大佐。酔いがまわり過ぎでしょう。そろそろ切り上げられては如何ですか?」

「何を言うか。まだ酔っておらんわ。………大尉。君は前線に行きたいかね?」

 ヴォイニーツキーは不意にそう呻いた。

 ラスカーはもちろんと言おうとして躊躇ってしまった。初めてだ。


「それが当たり前の反応だよ大尉。普通は命が惜しいんだ。裏を返せば大尉は尋常ではなかったとも言えるがな。君を作り上げたのはこの国だ。この国は理想の国になるはずだった。人民は全て平等で、神の関与など一つも無い、人間の理想郷にな。それが、今や若者に普通の感性を持たせてもやれない。それが、俺は悔しい」

 ヴォイニーツキーは涙を浮かべ、小声でそう漏らした。ラスカーは周囲を伺う。まだ人の来ない時間で良かった、と心の底から思う。


「大佐。やはり酔いがまわられているようです。その発言は党への批判と受け取られかねません」

 ラスカーとヴォイニーツキー、バーテンを除いて他に人間はいない。が、盗聴された可能性はある。

 ラスカーの肝が冷える。

 これほどの好好爺を秘密警察に逮捕させるなんて堪ったものではないと思ってしまった。

「ぬぅ………。仕方ない、か。今日はもう戻って戸締りをよくしてから寝るとしよう。大尉、何かあったらこの老いぼれを差し出すといい」

「大佐。あなたは泥酔し、心にも無いことを呟いていた。そうでしょう」

 ラスカーはじっとヴォイニーツキーの皺深い顔を見つめる。

 自分でも何を言っているのだろうと思ってしまう。密告だって、しようとすればいくらでも出来る。それなのに庇うだなんて。

 ヴォイニーツキーは目を丸くして、そして「うむ」と頷いた。そして、大きな背を丸め千鳥足で店を出ていく。

 その姿にラスカーは酷い既視感を覚えた。

 それは―――。




 それは描いた理想を、信じていた理想に殺された人間の背中姿だった。

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