第40話 挺身者の成れの果て

正暦1944年 11月16日 モスクワ 軍病院の一室。


 11月10日

 ヂュガシヴィリグラード解放! 歴史的大勝により侵略軍を大撤退させる!


 11月11日

 愛国機甲師団がドイツ戦車を痛打! ドイツ侵略軍は更なる後退を余儀なくされている!


 11月12日

 北部、南部、各戦線にて我らが連邦軍の反撃を阻む者なし!


 11月13日

 我らの共産党書記長同志ヂュガシヴィリ、連邦と党の勝利は近い、と発言


 11月14日

 南部方面軍は旧ウクライナ国境まで到達!

 ウクライナの解放はもはや時間の問題


 11月15日

 破竹の進撃! ドイツ軍戦車、連邦軍最新戦車の装甲を破ること叶わず!


 11月16日

 大祖国戦争が始まって以来、初の戦死者追悼式典がモスクワ市内にて開催される模様。共産党関係者も多く参列する予定






 片目でプロパガンダと偏向報道に染まった文字列をなぞる作業にも幾分、慣れてきた。


 ラスカーは新聞をベッドの脇に置かれたナイトテーブルの上に放り投げた。

 原隊を離れ療養を始めてから一週間が経とうとしていた。

 酷すぎる損傷は野戦病院の設備では治癒する事が出来ないと、ラスカーが気を失っているうちにモスクワまで輸送され、気付けば清潔なベッドの上で寝かしつけられていた。


 士官だから、重傷患者だから、と個室まで用意され、毎朝新聞が用意されるというVIP扱いを受け、手持ち無沙汰のままラスカーは窓から雪の積もったモスクワを眺めるだけの生活を送っていた。

 もっぱらの趣味と言えば窓から外を眺める事と、新聞を隅から隅まで読み尽くすぐらいだ。

 我ながら枯れた趣味だと思うが、片目だけで見る世界というのは案外興味深いものであった。不便さも加味した上で、だ。


 窓の外には雪がちらつき始めていた。ラスカーは今日行われる追悼式典はきっと大変だろうな、と他人事のように感じていた。

 今日の追悼式典で悼まれる英霊達の名前の中にラスカーが最も尊敬していた上官の名前は無い。南部戦線の英雄はきっと近しい人間以外の記憶からはこのまま風化していくのだろう。

 羅列された戦没者の名前欄の中に、一人。見知った文字列を見つけてしまう。自分の為に自らの命を投げ打ってくれた部下。大事な…。

 そう思うとラスカーの心は締め付けるような圧迫感に苛まれる。自分の無力と悔い、知らず知らずのうちに自分を強者と驕っていたことを恥じるばかりだ。

 縫合跡を隠す眼帯の下の、何も無くなってしまった部分が疼く。体は泣こうとしているんだとラスカーはそう思うことにした。


「寝てばかりだと、余計な事まで考えてしまっていけないな…。身体も鈍ってしまう」

 この病室にはラスカーの他に患者はいない。何も無いという孤独感が、今のラスカーの心を占めていた。

(人恋しさか………。久しく忘れていた感情だな)

 自覚したとしても、今の現状は変わらない。今日も今日とて、この病室で窓と新聞を交互に眺める一日になるのだ、とラスカーは気怠げに布団を身体に寄せて瞼を閉じる。


 砲火も、銃声も、怒号も、喧騒も、ここは遠すぎた。静寂は思考を妨げてくれない。考えることを止めさせてはくれない。


 耐え難い喪失感がラスカーの身に波濤の如く押し寄せる。


 何を失った? どれほど失った? どれだけの価値があった?


 欠けていたものが疼いて、しかし、どこが欠けているのか分からない。埋め方も分からない。

 言葉をくれた人間ほど、ラスカーから遠ざかって行ってしまう。


 ラスカーは仰向けに、天井に手の平をかざす。


「もう一度、戦場に………。疼きの収まる場所に………」

 そうすれば、余計な事は考えなくていい。生きる為の最善策を体はしっかりと覚えているのだから。

 今まではそうやって生きていた。戦ってきた。

 だが、とラスカーは考えてしまう。

 そんな生き方を人の生き方と呼べるものか、と。

 それは本能と欲求の為に生きている獣と同じではないのか。


 エルヴィラは言った。ラスカーを、獣の如き少年を、『最愛の人』と。


 愛とはなんだ。アイとはなんだ。哀ならば理解出来る。失うことだ。奪われることだ。

 ラスカーは喪失を忌んでいた。子供のように恐れていた。


 奪われない為に力を求めたはずだった。だが、この手は何も掴めず、何も壊せていない。

 握りこぶしを作ろうとも、掌に力は入らない。


「あぁ…ああ………!」

 空洞に熱が籠ってくる。

 痛みを伴った熱さが、ラスカーに無言を以て伝えてくれた。

 ラスカーは自身が無力なのだと知った。少年の今までがなんの意味も持っていなかったのだと、分かってしまった。


 自己性の喪失を悟った。最も恐れていた、しかし、最後に残っていたものは自らの手で濃霧の彼方、矮小なるその手の届かないどこかへと運び出されてしまったのだ。






正暦1944年 11月16日 ドイツ国内某所


「あァ! ああああああああああアアァ!」

 全身を熱した針で突き刺しているかのような激痛がアドルフを苛む。

 アドルフはベッドに寝かしつけられていた。両手両足を拘束され、出で立ちは白の手術着だが、その端々に赤黒い血痕が見られる。

 アドルフは狂乱状態のまま、手足の戒めを引き千切ろうと何べんも何べんも繰り返し、皮膚が裂けてしまっていた。


「カーレス、鎮静剤を投与する。総統閣下より頂いた言葉を思い出せ中尉」

「忠誠こそが我が名誉忠誠こそが我が名誉忠誠こそが我が名誉忠誠コソ我ガ名誉―――」 

 白衣の研究員が半透明の液体が詰まった注射器をアドルフの腕に注射した。鎮静剤が血流に混じって体を巡ることでようやく意識と肉体が切り離される。

 全身に気怠さが回って、力が抜けていく。

「あぁ…先生。先生、俺………」

「いい。みなまで言うなアドルフ。怖い夢を見た。そうなんだろう? ヴァルキュリオル移植実験に成功したのはアドルフが初めてなんだ。どうか、後に続く者の為に堪えてほしい。私にはそうとしか言えないんだ。すまない」

 研究員は同情するとばかりに顔を暗くして、部屋を出て行ってしまう。

 虚ろな目で彼の背中を見ているが、一体自分は何を思ってソレを見ていたのか、意識が混濁している状況ではよく分からなかった。




 小一時間ほど何を考えてか天井を眺め続けると、ようやく思考がまとまるようになってくる。

 アドルフは上半身を起こす。

 ここは特別に与えらえたアドルフ専用の部屋だ。私物の所持も一般隊員より多く許されているのだが、この部屋にはただ一つを除いては彼の職能を示すものしか置かれていなかった。

 時計に目をやれば、もう正午を過ぎていた。腹は空いていない。

『お目覚めですか』

 脳内に声が響く。

 こんなものは呪いだ。人工的に植え付けられたパラノイアだ。

「出てくるな。挨拶一つで理性を吹き飛ばされてたまるか」


 ザイフリート特務隊が研究していたのは、人工知能による無人兵器の開発だった。

 兵器の高度な操縦を可能にする脊髄接続の為のナノマシン移植には少なくない金がかかる。手術費は大抵、どんな組織も国の金で払われる。予想されていた戦線の複数化に備えコスト削減は急務だった。

 しかし、研究は困難を極め、そして行き着いた結果が、すでに手術を受けた人間の体内にあるナノマシンのコンピューターに人工知能をインストールするという馬鹿げた計画だ。

 一つの体に二つの脳がある状態を作り出し、量産されたパイロットをエースパイロットにアップグレードしようということだ。

 何人もの失敗を作り出し、ようやく完成したアドルフも精神が半壊してしまった。


 朝もブリュンヒルデが勝手に出てきたせいで、脳に重大な負荷が掛かって、ああなってしまったのだ。

 二つの精神が一人分の神経回路を使用している状態だ。最後に出撃したのは一週間前。だが、それから毎日のように錯乱状態になって研究員を呼びつけてしまっている。


 抑鬱的な感情を一人抱き、アドルフは立ち上がる。拘束具のあとは痛々しく、血の塊が固まっているが、もう一回一回洗うのも馬鹿らしいと思えてしまう。


 アドルフはテーブルに飾った、唯一個人を表せる大事な物を手に取る。それは写真立てだ。中には故郷で自分の帰りを信じて待っているはずの婚約者の写真が入っている。

「ミーナ………」

 この世でただ一人。アドルフが全てを投げ打ってでも守りたいと思えた存在。果ての見えない戦争の先で、一緒になろうと誓い合ったひと

 写真の中のミーナはにこやかに笑ってレンズに映っている。この笑顔を見ていれば、どんな困難も耐えられるとアドルフは信じられる。


 不意に頭痛が走り、写真立てを手から落としてしまった。床に写真立てのガラス破片が散らばる。

「しまった………」

 アドルフは床に落ちた写真立てから中身を抜き取って、テーブルに戻すと、ベッドに身を投げ出した。

 まだ頭が痛む。起きているのが辛かった。

 部屋の隅には食事がトレーに乗せられているのが見えているが、頭痛のおかげで食欲もクソもなくなってしまった。


『食事は必要かと』

「誰のせいだ。眠いんだ俺は…。今日はもう喋るなブリュンヒルデ」

『あなたに死なれては私が困るのです』

「しゃべるなって言ってんだろッ!」

 壁に拳を叩き付けた。痛みもよく分からない。だが、壁に着いた血の跡がどれほどの力で、そして痛みを伴っていたのかをアドルフに教えてくる。


「そのうち食う。だから、今は寝かせてくれ………」

 言い切るとアドルフは意識すら手放して、泥のように眠り始める。

 この時ばかりは孤独というものを明確に感じられる。

 移植手術に成功して以来、アドルフは孤独に飢えるようになっていた。煩わしい同居人もいない。たった一人の孤独を。

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