第48話 褐色の笛吹き男Ⅲ

正暦1945年 5月22日 クロンシュタット 旧市街地


 AKMライフルを握る手が震えていた。

 アリアナは部下に不安を見せないようにと気丈に、冷徹であろうと、与えられた役割をこなすべく、各小隊を見渡す。

「これから放火犯の探索を開始する。発砲は自衛的手段として許可はされているが、こちらからの先制的発砲は認められない。我々は政治の枷を課せられた軍隊である。国際法を遵守するのは必然なものであることは自明だ。その枷を破ろうとした者を祖国が容赦すると思っている愚かな軍人が私の部下の中にはいないと私は確信しているが、くれぐれも私を失望させないでちょうだい」

 声を出すと楽になる。意識が、自分の感情とかけ離れていく感覚は非日常の中にあっては気持ちが楽だ。

 いつも通りにやれるとアリアナは確信した。

「ひよっこ少尉共は下士官の意見をよく聞いておくことだ。それを屈辱だと感じる者はここで死んだ方がマシだと思え。貴様ら、食糧を無駄に消費するブタが一匹死ぬんだからな。生きたければ先達に従え。本当の戦場では階級が自分を守ってはくれない。祖国連邦が掛けたコスト以上の働きを私は期待している」

「「はっ!」」

 息を肺の奥まで吸い込んだ。生暖かな空気には懐かしさがあった。

 沸き立つ生存本能を飼い慣らし、理性とエゴがその身を統べる。戻ってきた、戦場の熱狂を全身で浴びる。

 兵士の目が醒めた。




同日 火災現場付近


「同志曹長、状況に変わりはないか。指令室でも聞いたが、もう一度報告を」

「はっ、カシヤノフ同志大尉殿。難民の殆どをクラースヤ同志中尉殿の部隊が引率されました。ただ、リストに記載された人数と実際の人数が合わないと」

「その者達の名前は分かるか?」

 アリアナがそう尋ねるとエネルフ曹長は頷きを返した。

「同志軍曹、未発見者のリストを同志大尉殿にお見せしろ」

「はっ! こちらになります」

「ありがとう」

 軍曹がアリアナにリストを手渡した。それらをアリアナは黙読し、頭に顔と名前を叩き込む。

「五名ね………ザルな作戦だこと」

 カリユライド、ロイヴァス、ラタス、マクシモフスキー、クランツ。彼らがラスカーが言っていた鼠である可能性が高くなった。

「各小隊長、コイツらの顔をよく覚えなさい。この五名を確実に捕縛するのよ」

「「はっ!」」

「建物が倒れるぞ!」

 消火作業にあたっていた兵士が叫んだ。全員が振り向くと、煌々と燃え盛った建材が傲然と落下する。

「消火班退避!」

 建材が地面に叩き付けられて、舞い散った火の粉が兵士達を覆い隠す。




同日


 カリユライドは一心不乱に走っていた。彼方には燃え上がった市街地。その光を受ける背中もだんだんとその明度を下げていく。

 連邦軍の施設はすべて照明を落としてあって、カリユライドの目は暗闇の中で必死にある建物を探していた。

 ナチスの親衛隊が言っていた連合国軍の有人兵器の奪取ないしは破壊。それを成功させればドイツが祖国を復活させてくれる。その為にカリユライド達はFoTEに関する施設へたどり着かねばならなかった。


 闇の中をどれほど走ったか。背後まで夜の帳に包まれたカリユライドは静寂の只中にあり、聞こえるのは自分の鼓動と荒い息だけだ。

 仲間はどうなっただろう。独りでいると、カリユライドは唐突にそう考え始める。脳が勝手にそうさせるのだ。

 もう誰かは辿り着いただろうか、それとももう自分以外は捕まってしまったか。

 こんなことを考えては駄目だ、とカリユライドは頭を振った。

 その時、向かいの通りが話声が聞こえた。ロシア語だった。連邦軍の兵士だ。

 何を言っているのかは分からない。だが、兵士の会話の中でカリユライド、と自分の名前が出た瞬間、カリユライドの心臓が嫌に高鳴った。続いてロイヴァスらの名前も。短い息が連続して体内から出ていく。

 兵士の声が近付いてくる。カリユライドは身を建物の陰に伏せた。ライフルを構えたソ連兵は辺りを見回しながら、そしてカリユライドの隠れる建物の前を通り過ぎた。

 話し声が遠ざかっていくのを陰から覗いて確認するとカリユライドは建物の陰から飛び出した。

 急がなければ。カリユライドの名前は既に向こうに露見してしまっている。連邦軍はもうカリユライド達の目的に気付いたかもしれない。

 カリユライドは唇を噛んで、噛んで、皮が裂けるまで。もう戻れはしない。カリユライドは疾駆する。

 戦うと決めたのだ。この世の理不尽から、家族を守るのだと。アカい悪魔を払う為に褐色の悪魔と手を組んだのだから、向かう先は結局地獄なのだとしても、その道半ばで愛する誰かの笑顔を見られたなら、それは何より尊い事なのだから。




同日


 指令室から退室したエレーナは、何をしようかと考えながら廊下を歩いていた。もはやこちらの方が一般的になってしまった促成士官教育を受けているとはいえ、エレーナ・ネムツォフとは共産党に属する政治家、俗にいう政治将校である。軍事は二の次であり、一番の仕事は大隊内の風紀の取り締まりだ。


 エレーナは一応腰に下げたホルダーから拳銃を取り出してみる。

 重い。ずしりと手の平以外にもその重量がのしかかってきている。


 第一〇二航空機甲大隊への配属が決まった時、書類を手渡した上司は手綱を握れと言っていた。それは政治的指導によって反革命分子の誕生を未然に防げ、という意味だとエレーナは信じ、意気込んで合流したのだが、大隊の中でエレーナ・ネムツォフは不自然なほどに浮いていた。

 トルストイ大隊長の冷ややかな視線。先ほども垣間見た失望したという雰囲気。彼らと自分とでは見てきた世界が違いすぎたのだ。


 それを如実に感じさせるのが手の中のコレだ。

 引き金は硬く、重い。人命を損なうという意識がエレーナの指を鈍らせている。だが、彼らは平気で引くのだろう。身体を濡らす返り血を以て自分の生存を確認する彼らを、エレーナもまた同じ人間とは思えない。


 エレーナが埋められない溝に気付いた時、唐突に廊下の窓が割れた。

「っ!?」

 飛び散ったガラスの破片の中に赤茶の煉瓦が一つあった。

「これが少佐の言っていた………」

 こんな物が勝手に飛んでくるわけもなし。混ざっていたのだ、難民の中に。弱者を装った窮鼠が。


 エレーナが割れてしまった窓がある方向へ拳銃を向ける。

 エレーナは人命救助の為と、だが、それはエレーナ自身の独り善がりだったのかもしれない。

 難民の中にドイツと内通している者がいた。トルストイ少佐は元より難民というものを信じていなかった。

 自分だけが物事の本質を垣間見えてすらいなかったことに強い憤激を覚える。

 保身などエレーナは考えたことはない。全てはイデオロギーと連邦の為に。連邦の中で悪さをしようとしていた鼠をまんまと信じていた自分の汚点は雪がねばならない。


「そこに誰かいるのは分かっている。大人しく出てきて貰おうか」

 従う者の方が馬鹿だと言わんばかりの静寂が返ってくる。エレーナはまだ足元を掴みかかる恐怖の泥濘に足を取られながらも、一歩一歩割れた窓に近付いていく。

 細かな破片を軍靴で踏み潰し、息を殺してエレーナは窓から顔を覗かせた。

 ここは一階だ。下に人がいることは充分に考えられることだった。

「いるんだろう………!」

 怒気を孕んだ声と共に拳銃を窓の下へと向ける。


「ぁっ………」

「うそっ、本当に………っ?」

 エレーナの引き攣った感情によって咄嗟の発砲の機会をまんまと逃した。

 エレーナと目が合ってしまった男は恐怖に染まった目を反転させて、叫び上げるとエレーナの腕を握り掴んで下に引きずり降ろした。


「きゃあっ!?」

 地面に背中を叩きつけた痛みと同時に、エレーナの腹部に何かがのしかかった。

「ふゥッ! ふゥッ!」

 男が興奮した様相でエレーナを睨み付けている。

 本能的な危機を感じたエレーナは拳銃を握ろうとしたが、どこにもない。着地した瞬間に思わず手放してそのままどこかに行ってしまったらしい。


 その瞬間、エレーナの視線は定まらなくなった。

「ッァ………!」

 首を絞められている。痩身からは想像もつかないぐらいの強い力でエレーナは首を絞められて呼吸が出来なくなっているのだ。

「ぁすけっ、て………」

「ふゥッ! アアア!」

 興奮した男にはエレーナの命乞いは届かない。アドレナリンの過剰な分泌によって、思考能力は暴力の一極化を促しているのだ。


 頭が薄暗く幕を下ろし始めている。痛みを感じるのが鈍くなって、やがて音も聞こえなくなってくる。苦しさだけは如実に伝わってきて、この責め苦に抗う気力もエレーナの中から失われつつある。

 その時、一発の重低な炸裂音が轟いた。すると喉を押さえ付けていた圧力が消え去って急激に流れ込んできた空気に喉がむせた。


「けほっ………けほっ………」

 二発目のそれが鳴り響く。

「ウガあぁぁぁッ!」

 男の悲鳴が聞こえた。エレーナは何が起こったのか分からない。先ほどまで自分を苦しめていた男は今、地面を芋虫の如く這っている。よく見れば出血していた。左肩と左足から、赤黒い水たまりが月明かりに照らされている。


「無事か、同志准尉!」

「トル、ストイ………少佐? どうして、こちらに………」

「悲鳴が聞こえれば嫌でもこうなるさ。もう部下が俺の手の届く範囲で死んでいくのを見るのはごめんだ」

 一瞬、彼に残されたその澄んだ右の瞳に深慮を垣間見るも、それは瞬きと共に消えていた。

「さて、婦女暴行の現行犯なわけだが………まずは止血しなければならないか」

 トルストイ少佐の言う通り、男は出血を続けている。このままなら朝を待たずに失血死するだろう。

 男は血が足りなくなって、のびていた。地面に転がる様は先程までの光景と噛み合わさって、狩人に狩られた獣のようだった。


「歩けるか。なら手伝って欲しい。こいつは医務室に監禁するぞ」

 獲物であるならば、持ち帰らなくてはならない。まして、この男は有益な情報を持ち得る可能性がある人物なのかもしれないのだから。

「はい、同志少佐殿」

 あぁ、とエレーナは体感した。ここは狩場なのだ。知恵無き者から狩り殺される。覚悟の無い者から撃ち殺される。狩人も獣も表裏一体の、不毛なる戦いの荒野がヨーロッパ全土を飲み込んでいるのだ。

 道理を弁える者に習うことこそ、全ての基本。エレーナは唇を噛んで、トルストイ少佐に追従した。

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