第30話 痛くなければ覚えませぬ

「いっ…て…」

シャワーを浴びながら、腕についた紫色の痣を指で押してしまった。

ちょうどUの字を置いて、もうひとつ反転させたようなかたち。即ち、歯型だ。

それは、最初こそ、歯のかたちに沿ってへこみ、赤くなっていたのだが、日が経過するにつれて、赤紫に変色し、ひとに見られたらぎょっとされるような様相へと変化していく。

彼は、腹をすかすと、俺にかぶりついてこようとする。食事をねだるだけでなく、あわよくば俺の肉を味わいたくてたまらないのか、彼の悪食は健在だ。

かじって肉を剥がれるだけなら、すぐに治癒してしまうので、俺はあまり気にしない。けれど、彼の歯が俺の腕に食い込み、ぎちぎちと噛み切ろうとちからをいれられるたびに、俺はうんざりするような痛みを彼からいただくことになる。

俺の痛覚は、未だ人並みなのだ。

改めて自分の身体を見ると、彼方此方にそんな歯型が残っていた。

暫く前のものは、黄色にうっすら緑を混ぜたような色に変わり、薄くなっていく。

これから、薄着になる時期に、四肢に歯型をつけた男なんて、おかしな趣味人に思われてしまいかねない。俺はあくまで、田舎町の気のいいおまわりさんでありたいというのに。

彼に怪我をさせられるのが嫌というわけではない。彼から俺になにかしてくるというのは、彼なりの愛情表現ないし、甘えていることと同義だからだ。

すり寄って甘えてくる彼のことを、確かに俺は愛らしく思ってしまっている。猫撫で声で近く、女の子たちには感じたことのない、慈しみすら混じったような不思議な気持ちに、俺はまだ表す言葉を見つけられていない。

いくら彼が甘えてくれているという痕跡だとしても、こうもたびたび痣まみれにされていては、やはり業務に支障をきたしてしまう。叱りつけてやめさせるのは簡単だが、それではあんまりだとも思う。

俺は頭をひねって、どうにか彼に噛む位置を変えさせ、あわよくば、仕返しの体をとって、彼を苛む方法を考えた。

湯船の中でぼうっと思案を巡らしていると、先日購入した針のことを思い出した。

あれを使ってみる口実にさせてもらおうと思った。

ざぶりと音をさせて立ち上がり、俺は脱衣所へ向かった。

濡れ髪をバスタオルでがしがしと拭きながら、居間に戻ると、彼は畳の上に寝転がって、熱心になにからくがきをしていた。

ちらりと覗き見ると、パトカーの絵を描いているようだ。

彼は絵が達者で、たびたび絵を描いているのを見かけるが、俺には到底描けないようなものを描いている。

特にパトカーの、ライトのきらきらした描写力は素晴らしいもので、彼が「パトカーさんの目が、すごくきれいでおいしそう」と言っていたことに起因するのかもしれない。

さしずめ、好きこそ物の上手なれ、と言ったところだ。彼のその熱意には、いつも感服する。

俺は戸棚から針の入った箱を取り出し、ポケットに入れる。彼はまだ絵を描いている。

たばこを吸いながら、彼の楽しみがひと段落するのを待った。

しばらくして、彼が顔をあげる。

俺より先に風呂に入った彼の髪はまだ濡れている。俺は近くにくるように呼ぶと、首にかけていたタオルで彼の頭をがしがしと拭き直した。

彼の頭を拭きながら、俺は口を開く。

「ところでねぇ。そろそろ暑くなってきたじゃない?」

「あ…そうですね…。はい…」

「これから薄着になるわけだ。で、俺の腕、どう思う?」

「……むらさき」彼は言った。

率直な感想に吹き出しそうになる。堪える。

「あのね、半袖になったおまわりさんの腕が、こんなことだとみんなが吃驚するでしょ?」

「あ…あぁ……!」

彼は少し怖がったような声を出す。彼は決して察しの悪い方ではない。ここまで言えば、俺が言わんとしていることをきちんと汲み取っているだろう。

「ご、ごめんなさ…、あ…あの…」

「いや、噛むのはいいんだけど、もう少し場所をね、選んでほしいなってだけなんだけど」

「うっ…あ、は、はい…」

俺は、彼の頭からタオルを離す。うつむいた彼の横顔に、しっとりと濡れた髪が影を落としている。

体操座りのつま先が、所在無げにもぞもぞとしている。

「口で言うだけだと、きみはたぶん忘れてしまうからね。よくよく覚えていられるように」

俺はポケットから針のパッケージを引っ張り出しながら言った。彼の目の前で開封して見せ、なにをするつもりなのかを教えてやる。

彼は体操座りの足をぎゅっと抱え、小さな声で「はい…」と、返事をした。

彼の目が、ほんの少しだけ、笑う。

足の下にバスタオルを敷いて、俺は彼に向き合ってあぐらをかいた。

彼の左足は、相変わらず火傷跡が並んでいる。俺はそこに吸いかけのたばこを押し当てて火を消した。

「ゔ…ゔぁ…」

吸い殻を灰皿に放り込む。プラスチックのケースを開けると、中には細い銀色の縫い針がたっぷりと詰まっていた。幾つか種類があり、太さも様々だ。俺にはどれがなにに使うのかの判別はできない。

どうせ今からするのは裁縫ではないのだ。突き刺すことができればいい。

三十本入りのものが二つある。彼の右足にびっしりと生やすには充分な本数だろう。

細めのものを一本引き出して、彼の足の親指と人差し指の間に、ぷつりと突き立てた。皮を破り、肉を刺す手応えが指に伝わる。

激痛ではない。彼には充分耐えられる痛みだろう。

俺は次々にケースから取り出した針を彼の足に植えていく。

足の甲は、すぐに固い骨に当たってしまうから、専ら骨の隙間を縫い、奥へ奥へと針を押し込んだ。

植え付けられた本数が増えるにつれて、彼が身動ぎするたびに、内側で針同士が触れ合い、肉を裂く。

内出血を起こし、彼の足は紫色になっていく。

ぷつり、ぷつり。

突き刺す痛みは変わらないが、きっと四方八方から植え込まれ、内側から裂かれる痛みは、疼痛から着実に強いものへと変わっているだろう。

彼は小さく呻きながら、膝を抱えている。一際太い針を突き刺すと、紫色になった部分を瀉血するように、ぴゅるぴゅると血が溢れてきた。針を引き抜く。中に溜まっていた血液が、バスタオルへ吸われていく。

綺麗に整列して流れていたはずの血液が内側に溜まり、水疱のようになっているのだろう。

足の甲ばかりでひとつめのケースが空になってしまった。既に彼の足は、腫れはじめている。

びっしりと植わった針のおかげで、彼の足はまるで針山だ。細い出血が線を引いて網目のように絡み合っている。

俺は彼に足の裏を見せるように言った。

彼はつま先を持ち上げ、その為にまた生じる痛みに身体を震わせながら、俺に従った。

足の裏にも、細いものから順に針を植える。つま先立ちなんてさせて歩かせたら、彼はどんな痛みを感じるのだろうか。想像の範疇にないおぞましい痛みを考えて、俺は口角を引き上げた。


ヴーーッ…ヴーーッ…。


座卓に置かれた、俺のスマートフォンがバイブ音を立てた。液晶に映し出された名前を見て、出なければいけない相手であることを確認する。

「電話出るから、静かにしてて」

俺はそう言って、彼を仰向けに転がし、腹に跨って、右手でその口を塞ぐ。彼が手の下でこくこくと頷いている。

俺の手に両手をあて、喋らないことを誓うように。

通話ボタンをタップし、左耳にあてる。聞き慣れた同僚の声が聞こえてきた。

「あー、はい。お久しぶりです。そうですね…はい…」

俺は相槌を打ちながら、彼の口に中指と薬指を押し込む。小さな歯と舌を弄り回しながら、通話を続けた。

口内はあたたかい。

中指と薬指とで、彼の湿った舌を挟み、すべって逃げられる。それをまた追い回し、挟んだり押したりして、柔らかい粘膜の感触を楽しむ。

歯列を指でなぞり、八重歯を爪先で叩き、上顎のでこぼこを指の腹でくすぐる。

見下ろした彼の顔は、苦しそうに眉を寄せ、それでも声を出すまいと耐えている。

「はい。わかりました。警戒しておきます。……はぁ。ちょっと手が塞がってて…すみませんね。いえ。明日にしてもらえれば。はい、大丈夫ですよ。ええ…」

耳元で、通話の切れる音。俺はスマートフォンを耳にあてたまま、彼の口内を指で嬲る。

「…ぅ…」

奥まで入れれば、反射的にえずいてしまうのは当然なのだ。彼の舌の付け根を越え、奥まで指を差し込もうとすると、彼は涙を浮かべながら身体をひくひくさせる。

「ゔ…ぐぅえっ…!」

絞り出された嗚咽。

途端、彼の顔が絶望に染まる。約束を破ってしまったという、とても哀しい顔をした。けれど、彼はなにも約束を破ってなんていない。

「もう電話してなかったから、大丈夫だよ」

俺はスマートフォンを座卓に戻し、彼の頭を撫でた。そうしながら、よく我慢したね、と、褒めてやった。

「きちんと約束を守れた。えらいな、きみは」

彼は手のひらに擦り寄るように、頬をくっつける。

「…続き、しようか」

彼の頭を撫でながら、また体操座りの体勢に戻す。足を上げさせ、残っていた針を足の裏に植えていく。

バスタオルは血を吸い、乾燥して硬くなっていた。そこにまた、新しい血が吸われていく。

ぶつり、ぶつり。

甲より固い足裏は、針を差し込むのに少しちからがいる。

ぐっと押し込むと、真皮を突き抜け、途端柔らかくなった肉へと勢いのままに深々と刺さる。

針を伝って、重力に従い、ぽたぽたと血の雫が落ちていく。

複雑に入り組んだ筋繊維を掻き分け、固い金属が彼の組織を食い破る。

勢い余った針先が、甲側から先端を覗かせる。

抜き出した針を、ライターで炙り、赤くなる迄加熱する。それを彼の足へと植え込む。

「あ゛ーー…」

一瞬、肉の焦げるにおいがして、彼が身体を反らす。倒れた背中が畳を叩いて、ぱたんと音を立てた。

痛みに反り返った指先にも、針を植えた。ひらの部分より痛覚があるのだろう、彼は両手で顔を覆いながら、ぐずぐずと泣き始める。俺は手を伸ばして、彼の頭をぽんぽんと叩いてやった。

パッケージの中身がなくなってしまい、俺は最後の一本を彼の小指に深々と刺しながら、どうしようかと思案した。

そして、六十本をすっかり足に植えつけられた彼を、俺は抱きかかえて立たせた。タオルの上で片足立ちするように言う。

彼は、俺にしがみつきながら、とん、と、体重を針だらけの足に乗せた。

「い゛っ…あ…あ゛、あ゛、ひぃっ…あ゛ぁぁっ…」

彼の身体が倒れそうになるのを支え、何度も立たせる。わざと不安定に身体を揺らさせた。

彼は俺の身体に腕を回し、どうにか立ち上がったままでいようとする。

従順に、縋り付くように。

足裏から入った針が、貫通して甲から先端を覗かせる。入り組んだ針の先端同士が、あらゆる方向から突き刺さり、彼の足を血袋へと変えていく。見た目の出血が然程でなくとも、きっと彼の内側は、恐ろしい様相になってしまっているだろう。

膝にちからが入らなくなってしまったようで、じきに彼は、俺に体重を預け、ずるずると畳の上に崩れていってしまった。

俺は彼を抱きとめ、畳の上に寝かせた。針を抜いてやろうかとも思ったが、以前カッターナイフの刃を植え込んだ時のように、引き抜いてやるのも悪くない。

彼の頭を撫でながら、俺は問うた。

「これで、忘れないかな?」

彼は浅く息をしながら、答えた。

「どう…。忘れ…ないといいな…」

曖昧な返答だった。

「あ…でも、噛むのはいいんですよね…?」

「う……。服着て見えないところなら…」

「…気をつけますね……」

以降、彼によってつけられる歯型が、下半身ないし腹や肩に集中し始め、けれど回数は増えていく事態に陥るのは、初夏の頃の話である。

彼はきちんと、俺の言葉を理解し、記憶してくれている。




2016.4.27

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