第8話怪異の侵蝕に音は無く
「おぉ…」
ぴったりと肉の張ったふくらはぎを撫でながら、俺は感嘆した。
傷口を見ないようにと、視線を逸らし続けてはや二日。
肉の再生には少し時間がかかり、この二日間は、足を引きずって歩くことになってしまっていたのだが、今日からはその不便を感じることもなくなりそうだ。
叩き潰された膝関節も、元のかたちに収まり、正常に曲げ伸ばしできる。ギプス替わりなのかがちがちに巻かれていたガムテープを剥がした時は、見覚えのある膝のかたちにほっとした。
これで通常通りの警邏にも行けるし、訪ねてきたひとに足をひねったと嘘をつく必要もないのだ。
俺は、パトカーのアクセルとブレーキを踏みながら、足が健全に稼働する幸せを感じる。
けれど、ただただ自分への喜びを噛みしめていられるのも、時間の問題だった。
傷が癒え、日常の生活に戻るにつれて、自分を散々な目に遭わせた彼になにか復讐をしてやろうという気持ちがふつふつと芽生えてきた。
報復されても、文句の言えないことも、俺にしたわけだし、何より、どうせ彼は死なない。
かと言って、そっくりそのまま仕返して、彼の肉を俺が食べるのは、勘弁願いたい。
しかし、とても痛い目に遭わせてやりたくて、俺は半日そのことを考え続けていた。
昼過ぎに、彼がやってきた。
足を引きずっていない俺を見て、おまわりさん足治ったんですね…!と、嬉しそうに笑う。
「よかったですねぇ…。パトカーさんも少し心配していたんですよ」
ねぇ、と、パトカーに話しかける。じきに興味が移ったようで、ボンネットの上にてのひらを乗せ、今朝の夢だとか、もうじき発売になるゲームのことをパトカーに話し始めた。
その後ろ姿は無防備で、これからしてやることを考えたら、少しだけワクワクしてしまった。
パトカーに向き合う彼の背中に一歩近づく。
さして身長の高くない彼は、俺の胸くらいに頭がある。黒い髪の真ん中につむじが見える。俺はポケットに忍ばせていた綿紐を、彼に気づかれないように引き出した。
しゅる、と、首に紐を巻きつける。しなやかな綿紐は、彼の首にぴったりと沿い、頸動脈を圧迫する。容易く彼の脳は酸欠を起こし、ぐらりと傾いた。
事態を理解する暇もなかっただろう。ちからの抜けた彼の首から紐を抜き取り、その身体を抱え上げた。
ここのところ、すっかり血を吸う機会が増えてしまった風呂場のタイルは、心なしか血脂に曇っている気がする。冷たいタイルに彼を座らせ、カランの根元に縛りつけた。
靴と靴下を脱がせ、脱衣所に放る。
膝が曲げられないように、関節にガムテープを巻いている間も、彼はぐったりと気を失ったままで、下を向いていた。
ぽんと投げ出された二つのつま先は、これから起こることを何も知らない。
俺は、大ぶりのカッターナイフをポケットからつかみだす。ちきちきと音を立てて伸ばされた銀色の薄刃は、取り換えたばかりで汚れひとつない。
それを彼の足の甲に押し当て、刃先を皮膚に食い込ませ、引く。少し突っ張るような重い手応えを残して、まっすぐに引かれた一本の線から、ぷつぷつと赤いしずくが幾つも浮き出し、震えて身を寄せ合う。
肉と皮を裂かれる痛みに、彼が悲鳴を上げて目を覚ました。
「イ゛ッ…!?な、なに、おまわりさん…!おまわりさ…」
混乱しているのか、普段なら俺の顔を見たりしない彼が、こちらを向いた。
「この間、俺の肉食っただろ。そのお返しだよ」
彼の言葉に答えて言うと、何事かぶつぶつ言いはしたが、明確に反論することはなかった。
理由づけしてやれば観念するのだろうか、抵抗することもなく、両足をタイルに投げ出したまま、こうべを垂れた。黒髪が一斉に下を向き、彼の顔を覆い隠す。
「…!ううっ…イ゛タイ…イ゛タイぃ…ウゥゥッ…」
彼の足の甲に薄刃を突き立て、皮を開いていくたびに、あんなによく切れたカッターナイフは、脂で鈍ってくる。
深く強く差し込むと、かりかりとした手応えがあるのは、骨だろうか。
切れ味の失せた刃物で傷口を撫で回すのは、なかなかに難儀で、俺は一回目の刃を折った。
かきん、と、小気味よい音を立てて折れた刃が、タイルに落ちて、場にそぐわない涼し気な音を立てた。
途端、薄く尖った刃先は、本来の鋭さを取り戻し、皮膚を裂く役目を果たす。
足の甲の中央で、ぱっくりと口を開けた赤い肉をゆっくりと押し開き、皮と肉の隙間に薄刃を割り込ませていく。
「ぎぃぃ…!ううううっ…いたい…いたい…ぃぃっ…」
彼の足が跳ね上がるのを、膝で押さえつけながら作業を進める。
固い脛の骨の下で、彼の足がぶるぶる震え、意思に関係なくじっとしてはいられないのだとよくわかる。
剥いだ生皮を左手でつまみ、引っ張りながら、ゆっくりゆっくりと刃を入れる。彼の鮮血で指がぬめり、皮を掴み損ねて彼の真っ赤な足に爪を立ててしまう。
ようやっと、片側の皮を足の裏まで剥いだ頃には、カッターナイフの最初の一枚がすっかりだめになってしまっていた。
替え刃に差し替え、まだ剥がなければいけない。
「ふぅぅっ…ううっ…ぐぅぅ……」
彼の押し殺したような苦悶の声が、冷たい風呂場に響く。
助けを呼ぶこともせず、足の皮を剥がれるに任せる彼のことを、やはり化け物の類だと、俺は思った。けれど、こうして俺の指の先に感じる肉と体温は、確かに俺が知るひとという生き物のそれで、認識の差異に生まれたひずみが、小さなしこりとなって腹に残る。
じきに彼の片足がすっかり剥かれ、真っ赤になった肉が、全面に露出された。俺は額に浮いた汗を手の甲で拭いながら、ふーっと息を吐いた。
その空気の流れが、彼のつま先にあたり、彼は裏返った声を上げた。それでも、俺のことをひどいだとか責めたりだとかはせず、じっと歯を食いしばって、眉を寄せている。
もう片方を。
しなければならないという義務はなく、冷静に考えなくとも正気の沙汰でないのに、俺の手は休むことなく彼の生皮を剥ぎ続ける。
ただの仕返しとしては執拗で、まだ食したいという理由を持って俺の肉を削いだ彼のほうが真っ当なのかもしれないけれど、俺は少なくとも、この作業を嫌なものだとは思っていない。
指先で皮をめくり上げ、泣き呻く彼の体を押さえつけ、用途に適さない刃物で彼を長く苦しませることに、俺は没頭していた。
じきに、彼の両足の皮は、指の近くと足の裏の少しで繋がるばかりになり、タイルの床にぺたりと張り付いている。
「ううっ…うううっ…いたい…いたい…空気が…足を…焼いてる…」
ぼろぼろと泣きながら彼は言う。
そう、尋常でない痛みに、わけもわからず涙がでるのだ。
それはきっとそういうもので、頭の中が痛覚一色に埋め尽くされると、どうしようもなく涙が出るのだ。
彼から流れ出た血液が、ぬるぬるとタイルを滑って排水口へ向かっていく。
本当は、皮を剥いで終わりにするつもりだったのだ。
けれど、俺の手は、床にちらばった小さな薄刃のかけらを拾いあげ、それを彼の剥き出しの皮膚へと埋め込んだ。
「い゛ぃぃぃっ…!」
切れ味は鈍くとも、刃物であり、硬く尖った金属片であるそれは、彼の骨と骨の隙間にぐっと押し込めば、筋繊維を割きながら内側へ入り込む。
タイルへ散らばったものを、拾っては詰め、拾っては詰め、繰り返す。俺が彼の足を剥ぐのに使った替え刃は、四枚半程度だ。それが山になっているものだから、段々と嵩が減っていくのを、既に俺は面白くすら思っている。
彼の身体が跳ね、足の指にぐっと力が込められる。
カランに引き結んだ縄目がぎしぎしと音を立て、曲がらない足を伸ばしたまま、皮を垂らしたつま先が空を掻く。
「ゔゔゔゔぅ…お゛まわりざっ……ごめんな、ごめんなざいぃ…」
ぐるぐると唸るような声をあげて、彼が泣く。彼が明瞭に発した言葉は、謝罪して痛みから逃れるためではなく、俺を宥めるような声音だった。
俺はもう怒っていない。彼にそう伝えると、彼は安心したようにほんの少しだけ笑んだ。
俺は俺の怒りでなく、澄み切った冷静さで、彼の足に薄刃を植え込んでいたのだ。
時折、押し込んだ金属片を手のひらで覆い、体重をかけてやると、彼は書き殴ったような悲鳴をあげた。
いずれ、両足にびっしりと金属片を生やし、とうとう力を入れることも叶わないのか、彼はぐったりと脱力した。
呼吸は浅く、浮いた脂汗が玉になって額を落ちていく。
「やぁ、大丈夫か」
自分の口から出た言葉に苦笑する。
大丈夫もくそも、彼の足を引き裂いて弄んだのは俺であるのに。
どろんとした彼の目が俺を見て、何事か言おうと口を開く。
ごぷ、と、濡れた音と共に、彼の口からは胃液が溢れ、二度、三度と嘔吐した。
「おまわりさん…あし、あつい…」
ひひっ、と、引き攣るような笑い声を発して、彼はそれっきり沈黙した。
突然、周りの音が一斉になくなったように感じられ、俺は彼をそのままにして浴室を出た。
爪の中まで入り込んだ血を落とすのには難儀したが、ぬるま湯と石鹸を使っているうちに、世界は音を取り戻した。
外は、夕方になっており、茜色の空に黒い影を背負った鳥が飛んでいる。
半日ぶんの業務を後日に回し、俺はパトカーにエンジンをかけ、警邏に出ることにした。
何、さして毎日詰め込んでやる仕事など、俺の元にはあまり無いのである。
立ち寄り場所で挨拶を交わし、世間話をする相手の誰が、つい先程までの俺が、彼の皮を剥いで楽しんでいた想像をするだろうか。
緩やかに染み込んでいく怪異じみた日常に、きっとその人たちは、生涯気づくことはない。
そして、俺の日常は、どちらかと言えば彼の側に既に引き込まれて、何食わぬ顔で交番に戻り、生活を営むのだ。
手ずから調理した夕食を済ませ、その後に風呂に入るには、洗い場の彼をどうにかしなければならない。
また動き出す前の彼の身体は冷たく固く、ずっしりとしていた。
拘束を解き、こびりついた血液を、シャワーの水で洗い流すと、水流に押し出された破片がいくつか、排水口に落ちていった。彼の身体を動かしている間に、垂れさがっていた足の生皮は、自重に負けて、べたりと落ちてしまった。俺はそれを、床に落とした消しゴムを拾うような気安さでつかみ取り、脱衣所のごみ箱に入れた。
胃液のかかってしまった服を剥いで、俺の部屋着を着せ、布団に転がす。
顔だけならば、彼は昏々と眠っているようで、実際、きっとその状態にはとても近い。彼が蘇生するその瞬間をこの目で見たことは無いが、彼はまるで、朝目覚めるそのように眠そうに眼をこすって身体を起こすのだろう。
そして俺は、数日ぶりに死体と同じ屋根の下で夜を明かす。
「かゆい…」
彼はそう言って、つま先を掻いた。
俺の差し出したカッターナイフとピンセットを受け取ると、透けて見える金属片目掛けて突き刺し、皮を切開してピンセットで引き抜く。
「なんで死んでる間に抜いておいてくれなかったんですか…」
「数が多くてさ…」
「そのせいでぼくはこんなに…痛かったり痒い思いをしてるのに…」
彼はぶつぶつ言いながら、次の金属片目掛けて、カッターナイフの切っ先を入れる。
彼が起き上がって翌々日。
つま先に埋め込まれた金属片は、排出されるように彼の中から押し出され、数を減らしている。
それでも、まだ幾つも残っているらしく、彼は歩くたびに痛みを訴える。歩けない彼はすっかり交番に併設された居住スペースに居ついてしまっていた。
そんな彼を疎ましく思うことは無く、むしろ、気まぐれに行った作業が、細く長引くことに、俺はうっすらと達成感を覚えていた。
「あぁ…またこっちも…あぁ…まだある…先っちょが出てきてる…」
小さく切り開き、引き抜かれた薄刃は、ぬめる血でピンセットを滑り、床に落ちて小さく音を立てた。ちゃりん、と澄んだ小さな音だった。
「いいよ、手伝う」
俺はそう言って、彼の手からカッターナイフを取り、薄い皮膚を切り裂く楽しみを再度味わうのだ。
了
初出20160203
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