第9話めぐるめぐる季節のにおい
手元で火花が散る。かしっ、かしっと、小さな音を立てて煌めいた火花が、揮発したオイルに絡まって熱く立ち上がった。
ぼうっと音を立てて燃え上がった光を吸い込むと、先端に熱く火種が灯る。
誰にともなく呻き声を発しながら、俺は二度、三度と煙を吸い、吐いた。
元々妻帯用のこの駐在所には、居住スペースとなるよう、古めの日本家屋が併設されている。交番内を通る以外に出入りすることのできない特殊な間取りだ。交番の中に取って付けたような磨りガラスと格子の玄関があるのは、なかなか不思議な光景だ。
引き戸を開き、一直線に伸びた廊下の左右に、水回りのドアと小部屋が並び、突き当りの階段を使い、二階に行くことができる。
水回りに向かい合うようにして並ぶ部屋が三部屋あり、その一室が俺の部屋として区切られている。
そうは言っても、普段あまり開くことはなく、せいぜい着替えや、細かな私物を取りにくる、殆どクロゼット同然の扱いをしていた。
玄関側、つまり最も交番に近い部屋である、仮眠室兼居間を寝床にしているからなのだけれど、最近、一日のうちに何度か、喫煙室として自室を使う回数が増えていた。
細く開けた窓から、部屋にこもった空気が逃げていく。
俺は新しいたばこを取り出して、封を破いた。
とんとんとパッケージを叩いて伸びてきた紙巻を、唇に咥えてまた火を点ける。
今迄は、居間だったり台所の換気扇だったり、少し外に出たりして一服をしていたのだけど、彼がここに居座るようになってから、部屋に引っ込んで、開け放った窓の傍で言われもしないのにこっそりとたばこを吸うようになっていた。
彼がたばこ程度でなにか言うような気はしないが、なんとなく、吸わない相手の前で吸うのを忌避していたのだ。
そうして、気を遣っていたある日、彼が俺の部屋のドアを開けた。
ノックもなく開いたドアに、換気しきれず溜まっていた煙が吸い込まれていく。
「わ…真っ白…」
今日は夕食後に自宅に帰ったので、もう来ないものと思っていたのに、彼はわざわざ交番で寝る為に戻ってきたようだ。
めっきり自宅に帰ることも減った彼は、枕を並べて俺と居間で眠るようになっている。
帰った時と服が違うので、着替えを足しにでも帰ったのだろう。きっと、洗濯籠の中に、彼の服が丸まって入っている。
そう言えば、そろそろ夜が寒いと昼間話していた。
「おまわりさん、たばこ吸うひとだったんですね…!確かにたまににおいはしてたけど…」
彼は煙たいだとか、くさいだとか言うこともなく、小さな秘密をみつけたような、ほんの少し嬉しそうな声でそう言った。
「君が吸わないから、わざと隠れて吸ってたのに」
「ぼく平気ですよ…?隠れなくていいですよ…?」
「じゃあ、もうあっちで吸っても平気だな」
俺は窓を閉め、たばこを咥えたまま灰皿を持ち、部屋を出る。
窓へと流れていた煙は、行き場をなくし、迷うようにうねって廊下に漂っていく。
台所の窓が開けたままになっている。きっとそっちへ向かっていくのだろう。
彼は俺の後ろをついてきて、居間に入るとテレビをつけてそれを見始めた。
俺も、たばこを吸いながらぼんやりテレビを眺める。居間の窓を少しだけ開けると、アルミサッシが、きゅる、と音を立てた。冷たい外気がつるつると入り込んでくる。
久しぶりにこうしてテレビを見ながら一服しているな、と思った。
一人で暮らしていた時は、だいたい夜になると、こうしてテレビを見ながらたばこを吸っていた。何を目的とするでなく、やっているバラエティ番組を流しても、さして内容など頭に入らないのだが、特に目立つ趣味もない人間が夜を過ごすというのは、どうしたって漫然とした時間の浪費になりがちなのだ。
体操座りの彼は、真面目な顔をしてテレビを見ている。
素足のつま先が、無防備にさらけ出されて、前述の通り冷えるようになってきた昨今、冷たくないのかと少し思った。
「あし」
「え…?」
「足、冷たくないの?」
「冷たいですよ…。でもぼく、靴下苦手で…靴履く時以外はちょっと…」
手を伸ばして触ってみると、成る程、冷たくなっていた。
まだこたつを出していないから、出してしまえばじきに気にならなくなるだろう。
押入れにしまわれた冬の風物詩を思い出し、彼から手を離すと、また彼はテレビに見入り始めた。
俺には面白いのかよくわからない事件の特番は、彼にとっては面白いのだろう。
時折、口角があがって、体を揺らしている。
ああ、そうか。
パトカーが出てくると、嬉しいのだ。
彼はいつだって愛しいパトカーのことを考えているし、そこから繋がる全てものを、パトカーに繋ぎ直して楽しんでいる。
恐らく彼に、することもなくぼんやりと時間を過ごす夜は少ないのだろう。
街で見かけたパトカーや、好きなかたちの車の話を、彼にさせるといつまでも話していて、夜が更けていったのを覚えている。
久しく、一人で過ごす夜の、その退屈で些細な過去のことを忘れていた。
彼は毎日を楽しむ術を知っている。
その安寧たる横顔が、凄まじく色濃い悲しさを押し込んだものだとしても、だ。
さて、俺はどうだろうか。
俺は、火種を持った手を彼に近づける。
また気づかない。
冷たい彼の左足の小指、爪の上に、たばこの火を押しつけた。
しゅっと、小さな音がした気がする。
「わぁ…!?あつ…!?」
突然のことに、彼が驚いて飛び退る。
「な、な、なんです…!?えっ…!?」
逃げ遅れた足首を掴んで、再度小指の爪を焼く。
焦げた妙なにおいが、たばこの煙に混じっていく。
「うあっ…!あー…!」
彼の力は、俺の握力から逃げるには弱く、固定されたまま、身体だけがばたばたと暴れる。
こちらを蹴ろうとする右足をねじ伏せて尻に敷き、しゅっ、しゅっ、と、小さな音を立ててまた爪を焼く。
繰り返すごとに、彼の爪は焦げ、変形していく。
火を当てる度に、つま先がぎゅっと握りこまれ、白く肌の色が変わる。
冷たかった足が、少し温かくなってきた気がする。
「なんなんです…!?ねぇ、おまわりさん…!?」
「いや、べつに…」
俺は彼に、こんなことをする理由を説明することができなかった。
本当に、理由なんてなかったのだ。
ただ俺は、彼の爪にたばこの火を押しつけてみたいという、好奇心だけでそうしていた。押し付けたらどうなるだろうか。彼はどうするだろうか。どんな顔をするのだろうか。どんな声を出して、どう反応し、俺になんて言うだろうか。
そうしてやってみたら、存外に非力な彼と、見る見るうちに変化する彼の足が面白くて、もう少しやってみたくなったのだ。
燃え尽きてフィルターを焦がし始めたたばこを灰皿に突っ込み、新しいたばこに火をつける。
小指の爪は、黒く焼け焦げ、赤い肉を覗かせている。
割れ弾けた赤い肉を目掛けて、また火種を押し付ける。
「ギャッ…!」
彼の悲鳴が上がり、反らした背中がひくつく。痛みに強い彼が、脊髄反射を起こしているのだ。
起き上がろうとする彼の腹を、何度も蹴って仰向けに転がす。
小さな火種でも、位置をずらして何度も焼けば、肉は溶け、穴があいていき、広がったクレーターのような傷跡の底から白い骨が見えた。
それもまた、熱い火種に炙られて、真っ白とは言い難いのだけど。
穴にたばこを入れて、ぐりぐりとしていると、火種が落ちてしまった。
俺は片手でたばこを咥え、また火をつける。隣の爪にも穴をあけ、焦がしてもてあそぶ。
「うっ…う…ゔぅ…。たば、たばこ、もったいないですよ…?そろそろ、やめたほうが…」
吸いかけの赤と白のパッケージには、まだ半分ほど中身が入っている。それと、確か、居間の棚に、カートン買いしたものの残りが幾らか。
「そうだね。まだ十本はあるけど、さすがにね」
そう言って、俺は結局その夜、彼の左足の爪全部に、じゅくじゅくと体液を染み出させる穴を開けた。
すっかり煙たくなってしまった部屋の窓を思い切り開ける。どっと、冷えた外気が室内に雪崩れ込み、代わりに暖まった空気を外に吸いだしていく。
循環する空気の中で、なに食わぬ顔で二人分の布団を敷く。彼の見ていた番組は、いつの間にか終わってしまっていた。けれど、彼はきっと録画をしている。
テレビの電源を落とすと、ざわめきが消え、静けさの輪郭がくっきりとする。窓を閉めて振り返ると、彼はつま先を抑えてうずくまっていた。
「ほら、寝る時間」
電気を消す俺に急かされて、彼はべそべそと泣きながら、布団に逃げ込んでいった。
それが、昨夜の話だ。
まだ眠っている彼をそのままにして朝食を作っていると、匂いに誘われて彼はごそごそと布団から這い出してきた。座卓に配膳をしていると、眠そうにしながらを箸を取る。
昨夜のことを忘れたように、はぐはぐと朝食を頬張る彼に、傷を見せてみろ、と言うと、素直に足を差し出した。
学習なんてしていないのかもしれない。
俺はまた彼の足をつかみ、朝の貴重な一時間を使って、治りかけた穴を開け直したのだ。
ぼこぼこに穴のあいた爪先は、一晩のうちにとても薄い皮を張り、ぶよぶよとした水疱を作っている。
あまりに水分が多いと、火種が消えてしまうので、ご丁寧に爪で水疱を破り、ティッシュを当ててごしごしとこすってやった。
削るようにこすった火傷は、裂傷になり、広がっていく。
浮いた血液が凝固する頃には、そこにはまたぽっかりと虫食いのような丸い穴が広がっていく。
「アヅイ…!アヅイぃ…おまわりさんっ…」
そして、また今夜、こうして彼の足を掴んで、存分に皮膚を焼き切って遊んでいるのだ。
彼も彼で、死ぬに足りない怪我を受けたまま、布団に転がっていたのだから、逃げる程ではないと思っているのかもしれない。
傷口からはじまった熱が、彼を浮かせて動くことができないという可能性もあるのだけれど。
どちらにせよ、彼の治癒力より早く、俺が穴を開け続けるので、どんどん傷口が広がっていく。
小指に至っては、すっかり皮膚が剥がれ落ち、申し訳程度に骨に張り付いた肉が腐食していくのを待っている。
「おまわりさん…イ゛ッ…アヅイぃっ…」
時折、ジッポライターに持ち替えて、じりじりと彼の指を炙って楽しんだが、血の通う肉をこんがりと焼きあげるには至らなかった。
それでも、彼の穴だらけの足を下からも焦がすことは、随分と効いたようで、ふつふつと泡立つ血肉を見ることはできた。
すっかり様相を変えた足を見たくないのか、目元を覆った彼の服の袖が、じわじわと涙を吸って色を変えていく。
室内に満ちるたばこの煙と、皮膚を焦がす悪臭が、付けっ放しの換気扇に吸われていく。
随分な数のたばこを、こうして彼に押し付けて遊ぶ為に浪費したように思う。
小さくなった火種を煽る為に、口に咥えてふかすと、ほんの少し、彼の皮膚のにおいがした。
「ゔぅっ…ゔっ……ゔぅぅ……」
長く彼の足首をつかんでいた左手がだるい。
手首を痛めては、警邏の際にギアを入れ替えるのが億劫になるだろう。
手を離すと、彼の足はかかとを畳に叩きつけ、転がった。
彼はちぎれそうになっている足の指に、恐る恐る手をかざし、皮膚がとろけて癒着した様を見ると、諦めたように息を吐いた。
仰向けのまま、まだぐすぐすと泣いているようだ。彼が泣くのは、珍しいことのような気がした。
俺はずっしりとした疲労感を感じていた。
上がった体温を冷ましたくなり、
「たばこ、外で吸ってくる」
灰皿をつかみ、立ち上がる。
サンダルをつっかけて外に出ると、きんと冷えた空気が肌を刺す。
吐き出す息が、煙を吸わずとも白く、じきに深く冬になるのだと思う。
咥えたたばこの煙を深く吸うと、疲れた体は更に体重を増し、じんわりと足が地面に沈んでいくようだ。
それが、むしろ地に足がついたような気がして、俺を安心させる。
やかんの湯を沸かす石油ストーブだけでは、頭のほうばかりが暖かくなってしようがない。
かじかむ手に、彼の冷え切ったつま先を思い出し、明日はこたつを出してやろうと決めた。
ああそう、これからは毎日とは言わないけれど、たまには彼の足でたばこの火を消すのを楽しみにしよう。
こたつの中に伸ばされた彼の足首は、きっととても捕まえ易い。
了
初出20160206
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