第17話 ぼくと、にばんめのはなし
太陽が落っこちてしまったのだ。
空は真っ暗で、外はすごく寒い。なのに、雪も雨も降らなくて、ぼくのこころもなんにも息をしていない。ぼくの中にあったはずの太陽は、どこから見ても見えなくなってしまって、なんにも見えないから、ぼくの身体もこころもうごかない。
揺さぶろうとしても、からからに乾いてしまった脳みそから、なにかが転がり出てくることなんてなくて、だのに、お葬式が八回続いたみたいに、涙だけは止まらなくなってしまった。
ほっぺたで涙が乾いて、がびがびしている。
ぼくのほっぺたは塩漬けになってしまったのかもしれない。
おまわりさんたちは、なにをしているんだろうか。
ぼくが交番に行かなくても、きっと仕事をしているんだ。
パトカーさんに乗って警邏をして、帰ってきたら書類をいじって、たまにやってくる近所のひとだとかを相手にして。
ぼくがいなくたって、おまわりさんたちの日常は回っていくし、頭の中に浮かんだおまわりさんは、ぼくに背中を向けて仕事をしている。こっちを振り返ってくれる気配なんてない。
そのことについて考えても、悲しい気持ち以外はなんにも浮かんでこなくて、ぼくは枕に顔を押し付けて、どうにか悲しい気持ちがどっかにいかないかと頭を叩いた。
ぼくのげんこつがぼくの頭をがんがんやっても、やっぱり耳からゆるんだねじが飛び出してくることもなくて、頭の中で死んで溶けた脳みそが、ぼよんぼよん腐汁に浮いてたゆたっているだけだった。
なんにも考えたくない。
眠って明日になって、新しいぼくが目を覚まして、あったかい布団から出られなくて少し微睡んで、そうしたらなにもかもがなかったことになるはずなのに。
ぼくは眠ることすら出来なくて、布団の中で膝を抱えて丸まっていた。
あたまのなかでは、おまわりさんもパトカーさんも、ぼくに背中をむけている。
今朝は彼の姿が見えない。
俺は発掘してしまった書類をいい加減にチェックしながら、以前あった悪夢のような日のことを思い出していた。
けれど、彼が望んで自ら死ぬなんてことが、そうそうあるわけでなし。
俺は、思いついた嫌な予感を振り払おうと頭を振った。
二日酔いでもないのに頭痛がして、ただでさえやる気の出ない書類を弄る手が乱雑になっていく。
心なしか、今日はいつもより空が暗く見えて、曇って雨が降るのかと思うけれど、そんなこともないようだ。
ただ、いつものように青い空なのに、それがまるで薄皮を隔てた向こう側を覆い隠す為の偽物の空のように思える。
こんなに空は、フィルムのような青だっただろうか。
違和感を掻き消したくて、俺は外に出てたばこに火をつけた。
フィルターを通した苦い煙で肺を満たして、日常を始めようと努力する。
てんてんと落としたたばこの灰を見ながら、イメージとしての彼の小指に火を押し当てようとして、そうする先が無いことに気づいた。
「……そんなね。癖ってわけじゃないんだよ」
誰にともなく言い訳をする。
視界の端で、その言葉をパトカーが聞いているような気がした。
俺はパトカーに近づいて、広いボンネットの上にたばこの灰を落とした。つるつるした車体を滑り落ちて、灰は崩れてしまった。彼がいたら、汚れてしまうと、ひどく憤慨して俺に苦情を申し立てるだろうが、今日はその声はどこからも聞こえない。
彼の頭に灰を落とした時は、そのまま彼の髪に乗って、彼が動くまで微動だにせず黒髪の中で溶けることなく留まっていたのに。
「なぁ、あんたはどう思う?」
彼の真似をしてパトカーの前に座り込んで、もうじきにフィルターを焦がしそうなたばこを口に咥えた。
パトカーはなにも言わない。
彼でなくては、パトカーとコミュニケーションなんてとれるはずがないのだ。
いつか彼が言っていた話を思い出す。
「パトカーさんは、すごく優しいんですよ…。ぼくの話を辛抱強く聞いてくれて…。絶対に急かしたりしないんです…。ずっと待っていてくれるから、ぼくは…ゆっくり言葉を探していられる…」
俺の中のぼくは、少し目を伏せていて、俺の方は見ない。
「パトカーさんは…ぼくのことを急かしたりしないけれど…。ひとは…すぐぼくを急かすから…。ぼくが言葉を選んだり、もう少し待っていて欲しいのに…。ぼくのことを引っ張って、痛いくらい眩しいところに連れて行こうとする…。ぼくはまだそこには行きたくないのに…。もう少しあとにして欲しいのに…」
ぼくは、膝を抱えて顔を伏せてしまう。
どうしたらいいのかわからないのだ。言葉を知らなければ、的確に自分の気持ちを表せないのと同じように、彼はきっと、彼自身の気持ちを、うまく形作ることを、それを誰かに伝えて、助けてもらう術を、持っていないのだ。
ゆえにただただ、濁流のようなかなしみと、外側から突き刺されるような急かす言葉に圧倒され、なにも言えなくなり、動けなくなってしまう。
俺はたばこの火をコンクリートに押し付けて、新しいたばこに火をつける。
彼が自分で動けないのなら、俺がどうにかするしかないじゃないか。
待っているのを、彼はきっと知らないでいる。フィルターを噛みながら、俺は俺がどうしたくてどうすべきなのかを考えた。
山積みの書類なんてものは、明日にだってできる。
犬歯がフィルターに食い込んで、ぎりりと音を立てた。
「なぁ、あんたはどうしたい?」
銀色のグリルの真ん中で、金色のエンブレムが静かに俺を見ていた。
俺は俺で、パトカーはパトカーで、彼はいつだってパトカーが自分のことを全部受け入れて、肯定してくれるのを信じている。
それが、彼の中でどんなにか大切でひとつしかない信仰なのだとしたら。
僭越かもしれない。彼はひとが恐ろしいのだから。
けれど、俺は、どうしても、彼のふたつめのなにかになりたくなってしまったのだ。
彼の一番がパトカーさんなら、俺が二番めに、彼を理解する努力をしたい。
踏み潰したたばこの紙巻が破れて、茶色い葉っぱがコンクリートの上にひろがった。
立ち上がった俺に、パトカーが、やっと立つ気になったのかと、笑った気がする。
成る程、パトカーは俺が結論を出すまでじっと待っていたのだ。彼の言った通りに。
ポケットの中から鍵を取り出して、エンジンをかける。一瞬の間の後に、身震いしてガソリンの燃焼が始まる。
俺はからからに乾いた唇を舐めて、アクセルを踏んだ。
彼は彼の家にいるはずだ。
パトカーを家の前に停めて、俺はドアを閉める。門柱は煤けて、もろく剥がれ落ちていた。
ぽっかりと口を開けるように、玄関がちょうど彼が一人通れるくらいに開きっぱなしになっている。その大きな隙間から、枯れ草にほんの少し鉄錆を混ぜたようなにおいが流れ出していた。
このにおいは今までに、二回、嗅いだことがある。
初めて嗅いだ時、この中で彼は自ら死んでいた。そして、二度目に嗅いだのは、俺が彼に頼まれて、彼を殺した日だ。
助けて欲しいと言う彼を、俺はこのにおいの中で、惨殺したのだ。
今回は、彼はなにを求めるのだろうか。とんと検討もつかず、どうしてやるかも考える前に、俺は暗い家の中に入り込んだ。
揃えられたスニーカーの横に、革靴を並べて置き、上がりかまちにつま先を乗せる。
急な階段を軋ませ、上るたびに、枯れ草にほんの少し鉄錆を混ぜたにおいは強くなっていく。
彼の部屋のドアに手をかけ、一瞬躊躇った。
ゎんゎんと鳴きじゃくる、真っ黒い蝿の群れを思い出したせいだ。
彼の死骸に群がり、恐ろしく齧り付くそうとする蝿の群れ。羽を、身体を震わせ、空気を鳴らして、部屋中を飛び回るその姿。
けれども、俺は、彼に会う為にドアを開いた。
空気は一切震えることも、ドアを開いたせいで、外に流れ出すこともなかった。抵抗もなく、色もなく、けれど、ゼラチンで固めたように、この部屋の中は、四角く停止していた。
ベッドの上に、膨らんだ毛布が見える。一か所だけ外光を取り込むために開かれたカーテンの下で、頭も出さずに、きっと中で丸まっている。
手足を縮めて、ちいさく、ちいさく。
「なぁ。おい。今日はこないのか」
彼は答えない。
布団を剥ぎ取ってやりたくなったが、もし彼が、たまらなくここから出たくないのだとしたら、それは俺の本意ではない。
毛布の上から、彼の身体を叩くと、細い声が、言葉の体を成さずに聞こえてきた。
家の中の、重油のような重く暗いものが、彼にへばりついている。
俺は毛布ごと彼を抱きかかえた。
未練たらしく彼に絡みついた重くて暗いものと、枯れ草にほんの少し鉄錆を混ぜたにおいを振り払おうと、俺は部屋を出る。
彼は布団に簀巻きにされるままで、相変わらず動こうともしない。布団越しに感じる手応えが、ぐにゃぐにゃとしていて、ひとの身体がどんなものだったかわからなくなる。
階段をゆっくりと降りる。ひとの重さを有している彼が、とても軽く、それこそ布団の分程しか腕に負荷がかからなくなっていた。毛布の隙間からなにか零れ落ちていくような気がして、背後を見るのが恐ろしくなる。
「やめるなよ。まだひとでいろ」
彼が聞いているかは、わからない。
靴を履き、開きっぱなしの引き戸を潜り抜けて、パトカーの中に彼を運び込んだ。
後部座席に彼を置いて、俺は運転席に座った。エンジンをかけ、交番に戻るか少し迷いながら、そのまま辺りを流すことにした。
彼はまだ動かない。
俺は適当なことを、彼に聞こえたらいいと思いながら話した。
一時間ほど、ぐるぐると走り続けただろうか。
まだ、彼は動かない。空を見上げると、未だフィルムのような青色で塗られている。今は何時なのだろうか。
すれ違う車の少ない方へ少ない方へと道を選ぶ。ゆるゆるとくねる山道を上っていく。
俺は、木立の影を選んで、パトカーを停めた。
「ちょっと休憩しよう。なにか飲むか?」
途中、コンビニでやたらに買い込んだジュースや菓子の詰まった袋をがさがさやっても、彼はなにも言わない。
俺は袋からコーヒーを取り出して、プルタブを起こした。
喉が渇いていたせいで、少ない内容量は、すぐに空になってしまった。
俺は運転席を降りると、後部座席のドアを開け、足だけ外に出したまま、座席に腰を下ろした。
こちら側が恐らく彼の頭で、手を伸ばせば毛布越しに触れるだろう距離だ。
彼の頭に背を向けて、俺はたばこに火をつける。
空き缶を灰皿の代わりにして、ゆっくりと空を睨んでいた。
開きっぱなしのパトカーのドアから、外の空気が中に入っていく。たばこの煙も吸い込まれたが、すぐに大量の空気で薄められていく。ここは、真四角に区切られた空間ではない。あらゆるものが動き、流れ、ゆっくりと入れ替わっていく。
時間の流れがわからなくなっていた。数時間経ったのかもしれないのに、空はまだべったりとした青色を貼り付けている。
「…なにか、あったのか?」
俺は、漸く、彼に本題を問いかけた。
たっぷりの間を置いて、毛布の中からくぐもった声が、聞こえてきた。かすれている。
「…パトカーさんの…ことも…。おまわりさんの…ことも…。わかんなくなっちゃって…」
切れ切れに聞こえる彼の声。
彼の中のなにかが崩れてしまって、自分を認識することができなくなってしまった話を、ゆっくりと話してくれる。時間をかけて選びさえすれば、彼の選択する言葉は流暢で、的確だった。
彼は彼を維持するものを見失い、ぐずぐずに溶けてしまいそうになりながら、なんとかなろうとしているのだ。
きっと彼は、彼が観測するシュレディンガーのねこのようなもので、彼が彼を認識し続ける限りは、彼はここにいて、どこにもいられる。
そうだとしたら、彼がどこにもいなくてどこにもいられないのだとしたら。
彼は彼たるものを失って、ただのねこになってしまうのではないだろうか。彼のかたちを、彼は覚えているだろうか。
俺は、毛布越しに彼の頭をぽんぽんと叩いた。
それに反応するように、彼の言葉の続きが引き出された。
「ぼくは…おまわりさんのことがわかんない…。パトカーさんなら、ちょっとはわかるけど…。おまわりさんは、ひとだから…ぼくが…思っていることと違うことを…。そうしたら、ぼくは…おまわりさんのことを邪魔してるかもしれなくて…。それなら…ぼくは…いないほうがいい…うう…うっ……」
後に聞こえるのは、彼の嗚咽ばかりだ。
この何時間か、ずっと彼は泣き続けていたのだろうか。
俺のことがわからない。ただそれだけのことで。
ひとだから、と、理解することを放棄してしまえばいいのに。彼にとって重要なのはパトカーで、俺はたまたまそれを運転し、動かすことができただけだ。だから、それだけのものとして、彼は俺のことを気にかけなければいいのだ。
本当に、本当にパトカーにしか興味がないのだとしたら。けれど、それはきっと、彼の気持ちとは差異がある。
彼は、俺にも興味を持っていてくれるのだ。
「あのなぁ」
俺は、彼を怯えさせないように考える。気を抜いたら、俺の感情が丸裸になって口から飛び出してしまいそうだった。
ああ。それでも。
俺は、言葉を慎重に選んで探せるほど、達観していない。
「わがままぬかせよ」
俺は、大きく息を吸う。
「もう、君は俺の交番の、生活の中に入ってきてんの。散々引っ掻き回して、俺もこんな…。あー…死んだり生き返ったりして…そんなん…そこまで、君が俺たちのことに干渉しといてさぁ」
また、たばこのフィルターを噛む。
濃い煙を、いっぱいに肺に流し込んで、俺は続けた。
「今更なんだよ、もう。わがままぬかせって。そうして、君がどうしたいか決めたらいい。君が俺にさせたこと、そんなんさぁ…」
煙が目に沁みたのかもしれない。
ぼろぼろと涙が溢れ出てきて、声が上ずる。
「頼むよ。俺がパトカーの次に、君のことを理解できるものに、させてくれよ」
まだ肺の中には、煙が残っている。
俺は、フィルターを噛みながら肺の中に煙を足した。
「君がそうして欲しいなら、俺がまた殺すから…」
彼は、中で寝返りをうった。毛布越しに、まるまった彼の形が動く。
俺は、彼が自分で言葉を選ぶまで、彼が望むだろう通りに。
パトカーと一緒に押し黙り、たばこの吸い殻を、空き缶に詰めながら、なかなか翳らない空を見ていた。
少しずつ、空が動き始めている。
了
20160229
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