第16話 つめはがし

彼が帰ってきた。

とは言っても、出かけていたわけではなく、ストーブの灯油を入れてきてくれただけなのだが、灯油を零したのか、彼からそのにおいがする。

それも、手についただとかのうっすらしたにおいではなくて、炬燵の対面に座っても、そのにおいはふわふわと俺の鼻腔に入ってくる。

「灯油、零したのか?」

「えっ…あ…少し…」

彼が話すと、においが濃くなる。

俺は、ここのところ感じていた違和感を思い出した。

灯油の減りが早いのだ。

ポリタンクにたっぷりと入れて満たしてあるはずの灯油が、以前なら一月はもっていたように思う。

それが半月とは言わないが、確実に早くなくなっている。

彼がこっそりと灯油を盗み飲んでいると、俺は疑念が確信に変わるのを感じていた。

普通なら、灯油を飲むなんて、それも頻繁に、なんてのは、あり得ない話なのだけれど、彼はガソリンを好んで飲みたがる。

ならば、その延長として、彼がたびたび灯油を飲んでいたとしても不思議には思わない。

ガソリンは、俺が与えなければ飲めないけれど、ポリタンクは外に出しっぱなしなのだから。

「灯油、飲んでるでしょ」

「…あ…」

彼が口元を手で触る。俺は、やっぱりなと息を吐く。彼の異食癖…と言っていいのだろうか。それを今更咎めるつもりはないのだけど、俺に黙って灯油でなにかしている、というのが、少し気に入らなかった。

彼の指が、唇に触れて、何事か話そうと迷っている。開いた指先が口元を隠し、切れ切れに吐かれた母音を漏れ出させている。

「…あの…ご、ごめんなさい…」

「勝手に飲むのは、窃盗だよ。現行犯かなぁこれ…」

「そんな…た、逮捕…」

彼はおどおどして、辺りを見回す。

彼が話すたびに、唇の隙間から灯油のにおいが漏れ出て、あたたかい室温で揮発していく。

「ど、どうしたら…逮捕起訴…。こ、困ります…」

流石に俺が警官でも、彼を現行犯逮捕しようなんて思ってはいないのだけど、彼の中ではもう既に裁判にかけられて、何かしらの罰則を与えられるところまで進んでいる。

炬燵の上に置かれた、彼の指先、そして爪を見て、俺はまた、彼への意地悪を思いついた。

「自分で爪を…五枚剥がしたら許してあげるよ」

今度は俺が、口元を手のひらで隠す番だった。

彼の少し伸びた爪なら、ペンチを使えば挟むことができるだろう。そう思っての提案だった。

細身のラジオペンチと、圧着ペンチの二種類を、彼の前に並べる。俺は、彼がどちらを選ぶのか見ていた。彼は最初に、細身のラジオペンチを手に取ったが、支点が小さく、震える手ではうまく挟みきれず、中途半端に持ち上げて刃先を滑らせてしまう。

持ち替えた圧着ペンチは、彼の爪先をかっつりと咥え、軽く引っ張っても抜け落ちる気配はない。

「う…うぅ…うっ…」

幾ら彼が痛みに強いと言っても、あの敏感な爪の先だ。相当に痛むだろうし、躊躇うのもわかる。

俺はたばこを吸いながら、彼が自分の爪をどうすべきか迷っているのを見ていた。

俺がやるならば、一気に剥がすだとか、わざと少しずつ剥がしたり揺すぶったりして、彼を楽しむ為に試行錯誤するだろう。

けれど、彼はそこまで考えは至らないようで、一気に剥がそうと力を込めて、その強い痛みに怯え、緩めてしまうのを繰り返している。

これでは、いつまで経っても、五枚なんて剝がせやしないのではないか。

「早くしないと。ワッパ持ってこようか?」

「ゔ…ぁ…。だ、だめです…!もう少し、待って…!」

意を決したように、彼の右手に力が入る。泣きそうな声と共に、びちっと剥がれる音がして、小さく赤い雫が、敷いておいた新聞紙の上に跳ね落ちた。

「ゔーっ…ぐぅっ……」

やはり、流石に痛いのだろう。

親指の一番大きい爪を最初に剥いで、余計に彼の中で、これはすごく痛いものだと刷り込まれてしまったように思う。

続く人差し指の繊細な神経に怯え、圧着ペンチの歯がかちかちと震えている。

それでも、俺が「ワッパ取ってくるね」と、腰を上げようとすると、ペンチで爪を噛み、引き剥がす為に努力する。

「あ゛ッ……くぅ…」

人差し指の爪が新聞紙の上に落ちて、小さな音を立てた。

覆われていたものを引き剥がされ、露出した柔らかな肉からは、血が滲み、まるで真っ赤な爪が生えているようだ。

続いて中指も、少し躊躇った後で、泣きそうな顔をしながら、彼は剥がした。

「あと二枚」

俺は、三本目のたばこを灰皿で押し潰しながら言った。

五本目のたばこが吸い終わるまでに終わらなければ、と俺が言うと、彼は薬指に取り掛かった。

しかし、半数の指がじくじくと痛むのだ。うまくちからが入れられないのだろう。

息が荒くなり、右手が震え、左手の指は無意識に逃げようとしてしまう。

なかなかペンチで挟めない間に、四本目のたばこは、ゆっくりと短くなっていく。

彼の剥き出しの肉に、たばこの煙を吹きかけると、沁みるようで悲鳴をあげた。

「ひっ…や、やだぁ…。おまわりさん…それ、やめてください…!」

「早くしてよ。俺、待ってるんだから」

薬指の爪が、捻るように引き剥がされ、また新聞紙の上に血のしみを増やす。

俺が五本目のたばこに火をつけてすぐに、彼は小指の爪を剥がし切った。

「うん、お疲れ様」

俺は、新聞紙の上に散らばった彼の爪を指先で並べながら、労いの言葉をかけた。

「うん。ちゃんと五枚。逮捕しないよ」

「あ…あぁ……よかった…」

「手当してあげるから、ちょっと待っててね」

彼を部屋に置き去り、工具箱を漁る間も、咥えたばこの俺の唇は上がりっぱなしだった。

戻ってきた俺の持っているものを見て、彼は少し驚いたようだ。

大きめのチューブに入った、ゴム系接着剤だったのだから、それも仕方のないことかもしれない。

「くっつけてあげるよ。不便でしょう?力が入らないだろうし」

「え、え…あの…」

俺は彼の手首を掴む。赤く熟れた肉が五つ、指の先に並んで、今も血を流している。

「先に止血しなきゃね。うまくつかないかもしれないから」

俺は、彼の肉に、たばこの火を押し当てた。

「ア゛ッ…!ひぃっ…!イ゛ッ…!」

じゅう、と、残っていた水分のせいでたばこの火が湿気る。

しかし、火種は先端だけ消えたばかりで、問題なく赤く灯されていた。

離して、一口たばこを吸い、火種を増やし、また押し付け、それを五指に繰り返していく。

彼は口を歪めて、至極辛そうに、けれどどこか嬉しそうに、小さな悲鳴をあげていた。

五指がすっかり焼け、出血が止まると、俺は彼の剥がされた爪を一枚拾い上げ、チューブから接着剤を絞り出した。

薄く爪に塗って、振って少し乾かす。

そして、彼の火傷跡に生乾きの接着面をぺとりと乗せた。

「ア゛ッ…ア゛ァァ…!ア゛ッヅイ…!ヒッ…!」

シンナー臭い薬剤が、どのように彼の生傷に作用するのか、想像するに難くない。

俺は彼の悲鳴を意に介さず、二枚めを貼り付けた。

彼の悲鳴が再び上がる。

「ヴッ…。ウウウッ…アヅイ…アヅ…」

彼の指が、爪を握りこもうとし、しかし握り込めば更に痛みは増え、どうすることもできず猫の手のように指を丸めて蠢いている。

それを無理矢理こじ開けて、三枚目の爪を貼り付けた。

時折、わざと揺すぶって、半端に貼りついた接着剤で彼の傷口を刺激する。その度に、彼は泣きそうな悲鳴を喉から細く垂れ流して悶えている。

「あんまり暴れるから、最初の方が歪んじゃったじゃない」

俺は、そう言って、曲がってくっついてしまった爪に指をかける。

「ま、待っておまわりさ……すぐ新しいの生えてくるから、まだそのままア゛ァァ…!イ゛ッダ…ぁ…いィ…」

接着剤はさすがの強度で、彼の肉ごと爪を剥がす事ができた。また、血が染み出してくるので、たばこで焼いて止血する。爪にこびりついてしまった肉片を剥がして、また接着剤をつけて彼の指に戻す。

貼り付けては剥がして、焼いて貼る。

その作業を、俺は何度も五指全てに繰り返した。

彼の顔色は真っ青で、荒く息を吐き、ただ指五本だけを痛めつけられているだけだというのに、まるで満身創痍の様相を呈していた。

「もうどのあたりに爪が生えてたかわからないんだけど…この辺り?それともこっちか…どう思う?」

「ヴッ…グゥ…ゥッ…。そこ、だとおもう…」

「俺はもう少し先の方だった気がする」

みぢみぢと、無残な音を立てて、また皮膚を貼り付けた爪が剥がされる。

彼の爪の下にあった薄い肉は更に薄くなっていて、もうじきに皮膚組織の下にある骨が剥き出しになるだろう。接着剤と肉片を引っ掻いてこそげ落としながら、かわいそうな彼の指を思った。

俺は、彼の爪を彼の骨を貼り付けてみたくなった。

そうするには、もう少し、この接着剤と度重なる扱いにごわごわと変形してしまった爪で彼を弄ぶ必要がある。

口に咥えたたばこの煙に隠れて、俺はたまらなく楽しくて、口角を引き上げた。

これは俺が彼を許すという建前の虐待であると、ちらと思った。

彼も恐らくそれを理解している。その証拠に、彼は俺の前から手を引っ込めることなく、炬燵布団を、あいた手で握り締め、この行為に甘んじている。

それがなんとも言えず嬉しくて、意識の共有を感じる。

俺は彼のことしか考えていないし、彼も俺のことと、俺が与える痛みしか考えていない。それはある種、絶大な信頼の関係に近く思えた。

一頻りいたぶられた指先は、骨を晒し、その周りにかりかりに焦げ付いた肉をくっつけている。

そろそろいい塩梅かと、彼の骨に爪を貼っていく。

肉を越えたせいか、それとも麻痺してしまったのか。

彼が痛みに漏らす悲鳴が少なくなってしまったのが少し残念だ。

俺は咥えていたたばこをつまんで、彼の手の甲に三度、丸い穴をあけた。

「な…。ぎぃ…!なんで…な…」

「うん」

ちゃんと俺を見ている。

彼の目は、俺の手が次に何をするのか知る為に、俺の指先に釘付けだ。

そうでなければならないのだ。

他のものに意識を向けるなんて、それは謝罪の為の虐待の時間に相応しくない。

俺は、わざと緩慢な動きで、彼の骨に爪を貼っていく。

時折、位置を調整するように、半乾きの爪をぐらぐらと揺すって、文字通り、骨身にしみるような痛みを彼に与えて楽しんだ。

五枚全てを貼り終えた時は、少し名残惜しくも感じた。

ひどく不恰好になったら彼の左手に、なんだか愛着を持ってしまったような。

「もう、盗むのはやめてね」

俺が低く言うと、彼は許されたことを確認したらしく、こくんと頷いた。

俺の後ろでは、石油ストーブがしゅんしゅんとやかんの湯を沸かしている。

冬が終わって、このストーブをしまった時は、彼は灯油が飲めなくなることにがっかりするのだろうか。

そうしたら、俺はどうしようか。

彼の何を引き換えにしてもらって、彼の望むものを与えてやろうか。

短くなったたばこを、灰皿で揉み消して、冬の先の季節にする彼への虐待へと想いを馳せた。




初出20160304

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