第47話 礫死体ふたつ

ずるり、と、身体からちからが抜ける。

みしみしと、俺の肋骨が湾曲し、重圧に耐え切れずに折れる音がする。

「げほっ…」

咳と共に、どぷりと、口から血が溢れて、胸元を濡らした。

「あー…。なんでだよ…」

手足がしびれて、妙に寒く感じている。

俺は、ぐらつく頭を無理やりに起こして、腹に食い込んだパトカーのボンネットを見る。

「俺じゃあねぇだろ…」

溢れ出た血反吐を、ボンネットの上に吐きこぼしながらそう言うも、パトカーは沈黙して、エンジンの振動を俺に返すばかりだった。

ぎゅる、と、タイヤが、アスファルトを噛んで、俺に車体を押し付ける。

前輪に引っかかった、彼の腕が見えた。

話は、少し前に遡る。


俺がその音に気づいた時には、彼の身体は弓のように曲がっていた。

彼はひとこと「あ」と、間の抜けた声をあげた。

パトカーが、立っていた彼を側面から跳ね上げ、ボンネットに乗せたのだ。

鈍い音と共に、ぐにゃぐにゃに曲がった彼の腕が、空を掻いて、なす術なく、鉄板の上に落ちた。

転がった彼の身体は、パトカーのフロントガラスにぶつかり、急停止の反動で振り落とされる。

べしゃりと、転がり落ちた彼は、目を見開いて、鼻血だらけの顔で、パトカーを見上げていた。

俺が声を出すいとまも無く、パトカーは再び加速し、彼の頭に、バンパーを叩きつけた。

ぐしゃり、と。

彼の顔面が、鉄の塊に殴打され、変形する。まだ、彼は動いていた。頭を上げて、彼の王を見ようとしていた。

パトカーが後退し、そして勢いをつけて前進する。

ごしゃり。

倒れ伏した彼の頭蓋を、身体を、車体とアスファルトの隙間に挟み込み、すりおろすように、パトカーが前後に動く。

執拗に彼を轢き潰し、彼を、一個体から、肉の塊へと変化させていく。

ごりごり、ぶちぶちと、なにが砕け、すりおろされ、ひきちぎれているのか、想像にし難い音が、タイヤがアスファルトを噛む音と協奏している。

彼の胴体を往復する、黒いタイヤが、血に濡れて、てらてらと光る。

彼を破砕する音ばかりが続く。

タイヤに絡め取られた彼の腕が、タイヤハウスに引っかかって、がくがくと震えている。

彼の頭蓋骨が、車体の下に入りきれずに引っかかり、その度に、がん、がん、と音を立ててバンパーに顎をぶつけた。

ぶちり、と、音がした。そうして、断裂された筋肉にかろうじて繋がって、彼の頭部が、ごろりと、転がった。

バンパーを、グリルを、ボンネットを、その金色の旭日までも、血染めにしたパトカーが、彼の死骸の前で、停止した。

どぷどぷと、彼の体内にあった体液が、行き場を無くして溢れ出し、アスファルトに広がっていく。

引き裂かれた肉の隙間から漏れ出した臓器が、どろどろと零れ落ちて、それらは、タイヤに踏み潰され、一緒くたになっていた。

ひしゃげた顔面が、半分だけ、未だ彼の顔のままで、その黒いまなこが、法悦の悦びの中で息絶えたのだと語っていた。

あれ程に、彼を蹂躙し尽くしてなお、パトカー自身は、傷一つ、へこみ一つ受けていなかった。

飛び散った血潮を受けて、悠然と、彼の死骸の前に、鎮座している。

びったりと浸されたように、顔面を彼の血と肉と脂で濡らし、パトカーは、彼の死骸の上に、君臨している。

死んでいることがわかっていても、俺は彼の死骸に近寄った。

俺のちからではここまで彼を破壊することなどできないだろう、その様に、俺は目を奪われていた。

そして、こうも破壊し尽くされてなお、彼はしあわせの渦中にいて、それもきっと、俺には届くことのない、圧倒的な力量の差。

「あんた…」

俺の声は、震えていた。

羨望に近く、畏怖もあり、嫉妬すら覚えた。

二番目でいいと思い続けた俺が、この時だけは、彼をこうすることができる、警邏車両に、敬意と共に、羨ましいと、思ったのだ。

彼の死骸を、触った。

全身の骨を砕かれ、その折れ目が、白く血肉の中から突出している。

彼の臓器は、ほとんどが既に腹の中にはなく、パトカーの車体の下で、原型を留めることなく、潰され、引き伸ばされ、タイヤの溝の隙間に吸われている。

ほとんど切断されてしまった、彼の頭を持ち上げた。

繋がっていた筋繊維が、びちびちと音を立ててちぎれ、頭部だけになった彼は、とても軽かった。

顎の骨が砕け、赤い舌が、口から垂れている。

アスファルトに擦り付けられ、皮を剥がれた半面は、筋肉を露出させていたが、どうにか、眼球は、まだ眼窩の中にあったが、彼の目の色を窺い見ることはできなかった。

潰れていない半面は、しあわせそうに上を向いた彼のまなこを残していた。

その姿が、痛ましい程に切なく、俺の胸を締め付けた。

彼の腕をぶら下げたパトカーが、俺を見ている。彼は、俺を轢くのだろうと、わかった。

エンジンがかかり、パトカーが車体を震わせる。膝をついていた俺は、彼の頭を抱いたまま、パトカーの眼前に立った。

腹に、パトカーの鼻つらがめり込んで、俺は身体をくの字に曲げる。

停止の気配も見せずに、パトカーは走り続けた。背中に、硬い壁のようなものがあたり、そこでようやく、パトカーは、走ることをやめた。

「が、ぁっ…!」

鉄の塊と、壁の隙間に叩き込まれ、全身の骨肉が、みしみしと音を立てる。

それでも、彼の頭を離さないでいられた。

パトカーと壁の間に挟まれたまま、俺は腕の中の彼を見て、安堵した。

パトカーが後退し、また、車体を俺に押し付ける。

みし、みし、と、骨が軋み、骨盤がへし折れる寸前に、圧力を弱める。

そして、車体を押し付ける。

その繰り返しだ。

前輪に引っかかった彼の腕が、俺に手を振るように、揺らめいた。

彼は俺の腕の中にいて、そこにもいるらしい。

俺の内臓を押し潰し、腹からそれらを溢れさせようとしているパトカーが、どこまでがパトカーで、どこからが彼なのか。

そもそも彼はどれなのか。

俺は彼の頭を抱いて、湧き上がる赤黒い血を、嘔吐し続けた。

「ぢくしょう…イッデェ…」

腿から下は、とうにパトカーによって粉砕され、ちからが入らないどころか、感覚すらない。

もし、失禁や、脱糞をしていたとしても、痺れたような感覚ばかりで、俺にはわからないし、それを確認しようにも、パトカーと壁の間にいる俺は、自分の下半身をまじまじと見ることすら叶わないのだ。

パトカーが僅かに後退する。

重力に引かれ、足の萎えた俺の身体は、ずり落ちて、そこにまた、パトカーが車体を押し付ける。順繰りに、頭部に向かって、潰されていくのだろうか。

彼の頭を抱いて、いつまで意識が保てるだろうか。

「あ゛…お゛ぁっ…」

かろうじて受け皿のような体裁を保っていた骨盤が砕ける鈍い音がした。

ぞろり、と、腹の中身が、血袋のようになった下腹部へと落ち込んでいく。

それをまた、パトカーが圧し潰すものだから、砕けた骨の破片と、溜まった血が、内側から俺の下腹部を裂いていく。

ぶつり、と、なにかがちぎれる。

全身に吹き出していた汗が、ふっと冷えて、一拍。

はらわたが下垂していく猛烈な不快感と焼け焦げるような痛みに、俺は吠えた。

彼の頭蓋を抱え込み、筋組織が剥き出しになった顔面に歯を立て、唸る。

血みどろのボンネット、彼の黒い目。

血潮をかぶり、橙色になった旭日章。

ぐるぐると俺の視界が回る。

まだ、腕のちからを抜きたくなかった。

「あ…あぁ…」

パトカーが俺の拘束を緩める。

俺は文字通り、崩れるように、アスファルトの上に落ちた。

履いていたスラックスは、足を通していないかのように折れ曲っている。

ベルトの上から、溢れ出た俺のはらわたが流れ出して、僅かに脈動している。

広がった臓物を、手のひらで触って、俺はそこで初めて、こんなにも、自分のはらわたがあたたかいのだと知った。

彼が、俺の腹で眠りたいと言うわけだ。

パトカーが、俺から距離を取っている。

エンジンの低い音を響かせて、俺と彼を見ているのだ。

赤灯が、くるくると明滅して、それがパトカーの優しい気持ちのものなのだと、俺は思った。

タイヤがアスファルトを踏み締めて、回転する。

点灯していないライトは複雑に光を受けて、宝石のように、美しかった。

アクセルをベタ踏みしたような急加速で突進するその時に、ちょうど

旭日章を誂えた、銀色のグリルが、俺の顔の高さにあって、

血にまみれた宝石が、俺の視線を一瞬奪う。

頭部を叩き潰され、死に体となった俺の身体には、まだ彼の頭が乗っていた。

彼を抱くように、倒れ伏した俺の上を、パトカーが繰り返し、繰り返し、彼と俺とを、一緒くたに轢き潰すべく、タイヤを滑らせた。

サイレンが、高らかに鳴る。


「………」

俺は、事務机に突っ伏していた。

顔を上げて、まず、周りに誰かいないかを確認した。

彼が、パイプ椅子に座ってうたた寝をしている。

「起きなよ」

彼の頬を二、三、平手で打つと、彼は至極眠そうな声で返事をした。

「いたい…いたいです…。おき、おきますから…」

よだれを服の袖て拭いながら、彼は不思議そうに、俺の顔を見た。

「どうしたの」

「おまわりさんが夢に出てきたんですよ.」

ふふっ、と、彼は嬉しそうに笑った。

「ぼくが外にいると、パトカーさんが勝手に動いて、ぼくにちゅーしてくれるんです…。おまわりさんは、それを見てるだけ…」

夢の共有なんてものが、あり得るのかは知らないけれど、俺はその先を話すように、彼を促した。

「パトカーさんにぐちゃぐちゃにされて…へへ…。すごくしあわせで…おまわりさんが、ぼくの頭を抱えて、パトカーさんを見てるんですけど、それから先は、見られませんでした…!」

うふふ、うふふ、と、頬を染めて、いとしいひとの夢を見たと、繰り返す彼を置いて、俺はたばこを口に咥えた。

舌に乗せた煙は、よく知った苦味とにおいで、これは間違いなく現実なのだと、俺に教えてくれた。

これが、現実だとして、あれは、どこまでが夢だったのだろうか。

俺も彼も、恐らくまだ、二人同時に死んだことはないのだ。

その時の、再出発点は、どこになるのだろうか。

彼の瑞夢と、俺の悪夢。

果たして、彼とほとんど同化する夢を、悪夢と言い切れるのか。

俺は答えが出せずに、フィルタを噛んだ。

パトカーは、なにになるのだろうか。






20160927

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る