第46話 くろくてこわいもののはなし

はた、と、目が覚めた。

冴えてしまった瞼が開いて、気づけば、眼前に鎮座する、真っ黒い底なし沼のような天井を見上げていた。

今日は、月の出ない夜だっただろうか。

遮光カーテンで区切られた先の、夜の帳を窺うことができずに、俺は黙して、天井を見つめていた。

靄のような黒いシミが、浮いては消え、浮いて消えしている。

隣にいるはずの寝息がなく、ああ、今日は、彼がこの部屋にいないのだと、そう実感する。

珍しく、彼が自分の家に戻った夜だった。

俺は、数度、深呼吸をする。

俺の吸い、吐く呼吸音だけが、停滞した静寂を震わせた。

俺は仰向けになったまま、天井を見ている。

真四角の暗闇は、そこにあるはずの蛍光灯の影すら飲み込んで、俺を落下させようと口を開いている。

眩暈を感じて、見るのをやめた。

浮遊感に身体がぞくりとし、思わず身を起こす。起こした半身は、じっとりと汗をかいていた。

手探りで、枕元のたばことライターを掴む。

安いオイルライターの火打石が、火花を立てて、小さな炎が手元に灯った。

みし、と、家鳴りがした。

咎められたような気がして、たばこに火をつけ、ライターからすぐに手を離した。

朱色の火種が、たばこの先端に灯っている。

俺は手を伸ばして、この暗闇を打ち消そうと、電灯の紐を探した。

する、と、なにかが俺の手の甲を撫でた。

手を引っ込めた瞬間、かちん、と音を立てて、俺の指の間に挟まっていた紐が引かれた。

きん、きん、と、金属音のようなものが聞こえ、白い蛍光灯が二度瞬いて、俺の頭上を照らす。

部屋を満たしていた暗闇は、すっと小さくまとまって、部屋の四隅に隠れていった。

蛍光灯の下で、俺はたばこを吸った。

紫煙が、ゆるゆると天井に向かって登り立ち、光の中に吸い込まれるように、薄まって消えていく。

視線を横にやると、彼の分の布団が、持ち主不在のまま、敷かれている。

この世から音が消滅したのかと紛う程の、静けさだった。

外界の虫の声も、なにかの機械音も、俺以外のいきものの気配すらも。

全く、静けさの中に潜り込んで、俺の耳には届かない。

「ふうっ…」

わざと音を出して煙を吐く。

その音は、俺の耳に届いたから、俺の耳がどうにかなっているわけではないのだろう。

ごそ、と、足を動かす。

布ずれの音がした。

それに安心して、たばこを咥えなおす。

みし、と、音がした。

耳をそばだてる。

みし、…………みし

彼の足音ではない。

彼はあんな風に、何秒も間をあけて足を踏み出したりしない。

なにか、いるのだろうか。

いるはずのないものの妄想に囚われそうになる。かぶりを振った。

打ち消されなかった不安が、俺の耳にまとわりついて、静寂が耳鳴りのように聞こえる。

閉められたドアの向こうに、なにかいるような、そんな妄想だった。

黒いひとのかたちをしたものが、灯りを見つけて、這いずるようにゆっくりと、こちらに近づいてくるような。

家鳴りだと、思う。

風の音もしない夜に、家鳴りだけが、俺の耳に届いているのだと。

今にも、背後のドアのノブが下げられて、ドアを押し開け、一歩、踏み出しているのではないか。

みし、と、足音を立てて。

俺は振り返る。

聞こえたのだ。

かちりと、ドアノブに手をかけた、噛み合うような音を。

「……!」

ドアノブは、動いていない。

静かに、閉じられたドアに張り付いている。動かない。

動かないのだ。

だのに、きぃ、と、ドアが動いて、三寸ばかりの暗闇を、明るい室内へと引き込んだ。

ぞくりと、全身の産毛が総毛立った。

暗闇の隙間が、俺を見ている。

蝶番が緩んでいるのだろうか、そう思いたかった。

彼はいないのだ。誰もここにいるはずがなく、ドアノブを下げることなく、ドアが開かれる事はない。

俺は、火種の消えてしまったたばこを咥えたまま、三寸ばかりの細い暗闇を凝視していた。

なにかが、一歩踏み出してくるのではないか。

そう思えて、目をそらすことなど、できはしなかった。

心の臓が、早鐘のように鳴っている。

身体は動かない。

ただ沈黙して、俺の中の鼓動だけが、この世界の音だった。

しゅる、と、縄目のような暗闇が、明るい床を這って、俺に近づく。

その縄目の細い先端が、俺の中指に触れた。

「ああ…」

既視感のある、恐ろしい気持ちが、途端に俺に流れ込む。

それは、俺が彼のかなしみを飲んだ時と同じものだった。

彼がいないから、俺を。

腹の中身を引き捕まれ、四肢を裂き、頭を、脳を、墨色の手が、爪を立てて引き裂くような、そんなかなしみが、俺を喰おうとしているのだ。

俺は立ち上がり、そのかなしみをもたらそうとする影を探そうとした。

ドアノブをつかみ、部屋の光を廊下に送る。

蝶番の金切り声の後、しんと、黒い沈黙が、廊下に広がった。

一歩踏み出す。

みしり、と。

俺の足の下で、木板の床が僅かに撓み、隙間なく埋められたそれらを、擦れ合わせて音を立てる。

みしり。

窓のない廊下は、外光を取り入れるものは、なに一つなく、ただ、俺の背後にある部屋の、蛍光灯の明かりだけが、浮島のように、四角く世界を照らしていた。

腹の奥の黒いかなしみが、ごろりと胎動する。

それはたちまち、かなしみから寂しさや、無力感へとかたちを変えていく。

削ぎ落とされる自尊心。膨らむ不安。

足が竦む。

身体を丸めて、そのまま眠り続けたくなるような、ただ、わけもわからず泣いていたいような、そんな気持ち。

積み上げてきた一切のしあわせが、全て打ち崩され、粉になって消えていきそうな、恐ろしい気分だった。

先が見えず、目の前に広がる暗闇そのものが、俺を包む全てのようで、なにもかもをかなしみの原因としか思えなかった。

目を逸らしたいのに、腹の奥で胎動する、黒く渦巻く気持ちが、それ以外を視界に入れさせてくれず、つらい、苦しい、そんな気持ちだけを、直視させようとしてくる。

全身を絡め取り、引き裂く感情の中で、俺はもう一歩、踏み出した。

彼の思うかなしみが、これに近いならば、俺は彼を少し理解できるようになる。

そう思った途端に、黒く渦巻くものは、胎動を微弱なものとする。

「なんだ、お前たちは、ひとに勝てないのか」

口先から流れた言葉は、苦悶の声ではなかった。

これがもし、俺だけのもので終わるのならば、そう。

どこか居心地のいい、おぞましい安寧へと、全身を浸しただろう。

けれど、俺は、彼のことを考えていて、俺の気持ちは、彼を理解する為に必要なものであったとしたら。

手招くような、静寂と暗闇は、俺の餌になりうるのだ。

手に持っていたたばこの箱から、一本を取り出し、火をつける。

俺は火種を咥え、悠然と、怪異の巣食う廊下を歩いた。

みし、みし、と、足音がする。

俺のものだ。

頽れない俺の為に、暗闇の怪異が、道をあけていく。

暗闇の廊下を、一歩一歩踏みしめ、突き当たりの階段まで行く。

電灯のスイッチに手を伸ばす。

かちん、と、小さな音と共に、黄色い電球が瞬いて、永遠のように続く暗闇と見せかけていたものが、ただの廊下に変わる。

俺は階段に腰掛けて、まっすぐ前方にある玄関を見つめた。

その先は、墨で塗り潰したように黒く、あの先に、怪異は逃げ込んで、こちらを見ているのだ。

磨りガラスの向こう側から、俺を。

咥えていたたばこの灰が、自重に耐え切れず、足元に落ちた。

ほろりと砕けた灰を横目に見て、ここから玄関に向かおうかと、少し思案した。

あれがどういうものなのか、俺は知らない。

ただ、彼をどうにかしようとしているのだけはわかるのだ。もし、あれが彼のひとつであったとしても、彼ならば問題は無く、彼でなければ、なおのこと、気兼ねすることはない。

ゆっくりとした足取りで、玄関に向かう。

磨りガラスの向こう側は、やはり、真っ黒い闇色で、その先になにかがいたとしても、俺に視認することはできない。

鍵を外し、引き戸を開ける。

この先は、見知った交番の事務所で、俺はここに踏み込むことを、憚かる必要はなかった。

がらり。

引き戸が音を立てる。

交番の中を見回して、そこが既に完全な暗闇でないことに気づく。

いないのだ。

あのおぞましい悲しみを与える、黒いものが、いないのだ。

俺は車庫に通じるドアを開く。

薄暗がりの中で、パトカーは、じっと鎮座していた。

彼の王が、静かに、俺を待っていた。

「もう少し待っててくれ」

吸いさしのたばこを灰皿に突っ込み、制服の上着を羽織って、パトカーの鍵を持つ。

車庫に戻りながら、彼にメールを打った。

今から迎えにいく。

それに対して、彼から、すぐに返信がきた。

「こわいのがそとにいる」

俺は笑って、パトカーのボンネットに手を置いた。

シャッターを上げて、パトカーのエンジンをかける。

ゆっくりと、暗闇を切り裂くように、ヘッドライトが周囲を照らす。

赤色灯が、くるくると瞬いて、滑り出すように、パトカーが動いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る