第41話 風邪の日

カーテンを閉め切った部屋は、灰色だ。

昼間なのに、宵の口の色に染まった室内で、エアコンの稼働音だけが響いている。

眠る彼を見ながら、俺はたばこを吸っていた。

少し窓を開けてやったほうがいいかもしれない。部屋の中が白く煙っている。

珍しく彼が体調を崩した夏の日。朝起きてきた彼は、ひどくだるそうで、赤い顔をしていた。

けほっ、と、小さく咳をして、お茶を飲みに行こうとする背中を追う。

額に手を当てると、熱く、夏風邪をひいたらしい。

「夏風邪はバカがひくって言うんだけどなぁ」

「だ、誰が莫迦ですって……あー…ぼく…?」

食いさがることもなく、彼はふらふらと、コップに注いでやったお茶を飲んで、椅子に座って息を吐いた。

「腹は?下したりしてない?」

「はい…。おなかはきもちわるい…けど…」

うー、と唸って、テーブルに突っ伏した。

「今日はいつもの玄米茶じゃなくて…。なにかあとで飲み物買ってくるから、それ飲んで寝てなよ」

「う…はい…」

普段なら、眠くないだとか、ゲームがしたいだとか駄々をこねる彼が、とても素直で、余程具合が悪いのだと俺にもわかる。

熱い身体の彼を支えて、布団に入れてやる。

とりあえずの処置で、額に濡れたタオルを乗せてやると、気持ちよさそうに目を細めた。すぐに飲めるようにと、玄米茶を入れた急須も枕元に置いてやる。

「買い物行ってくるから」

「やだ…」

彼の指が、俺の指をつかむ。きゅ、と握られたちからは、矢張り弱くて、どうにも心細いのだろう。

「すぐ戻るから。食べやすいものとか…食べたいものあったら、電話かなんかして」

頭を撫でてやると、渋々ながら手を離し、けれども、なにかしたいと、小さな声で言った。

ゲーム機は神経に障るだろうと、文庫本を一冊手渡して、俺は車庫に向かう。

警邏ではないけれど、一応は制服を着て、警邏の体を装う。

この片田舎では、駐在さんがパトカーを私物化していると咎めることなどないのだけれど。

熊蝉が、しゃあしゃあと白い声で鳴いていた。じきに、太陽が高く昇り、かっとするような灼熱が降り注ぐ。

その前に、必要なものを用意しなければ。

パトカーは、いつものように押し黙って、車庫の中にいた。

運転席に乗り込み、エンジンをかける。まだ熱くなる前の朝だ。どこか薬局があいているだろうか。

田舎町のドラッグストアは、9時半にはどうにか営業を開始していてくれた。客のいない店で、スポーツドリンクだとか、解熱剤だとか、ビタミン剤、熱を冷ますシートを籠に突っ込んでいく。

あとは何が必要だろうか。

体温計は、どこかにあったか覚えていない。俺は滅多に風邪をひいたりしないものだから。

体温計をひとつと、食べやすいだろう、ゼリーの類、彼の好きな紅茶味のクッキーだとかアイスだとか。

随分、彼の好みを知ってきた気がする。

会計を終えて、買い物袋を下げてパトカーに乗り込む。

パトカーは、少し彼を気にしているようだった。

しかしまぁ、こういうのは俺の役目だから、あんたは、手出ししなくていいと、口に出すでなく、パトカーのハンドルを二回、指先で叩いた。

気温がぐんぐんと上がっている。

交番に戻り、車庫でパトカーから降りると、むっとするような夏の湿気と土臭いにおいが、まとわりついてきた。

この暑さを彼のところまで連れて行くわけにはいかないから、早足で交番に入る。

ぴしゃりと閉めた引き戸の向こうで、夏のにおいが管を巻いていた。


彼は布団の中で、文庫本を読んでいた。

「おかえりなさい…」

「ただいま」

けほっ、と、また小さく咳き込む。

「体温計買ってきたから、熱測って」

パッケージを破って、本体を取り出し、彼に渡す。

ぽやんとした声で、彼は返事をして受け取った。

暫くして、電子音が鳴り、確認すると、矢張りそれなりの発熱をしていた。少し薄めたスポーツドリンクを飲ませ、額にシートを貼り付けてやろうとして、手を止めた。

真っ白なシートは、なんだか味気なく、俺はマジックペンを一本手に取った。

「早く治るように、車でも描いてあげよう」

「おまわりさん、絵へたなのに…」

「車くらいかけます」

やわらかいシートは、思いの外描きづらくて、やわらかそうな車がかきあがった。

「なんでタイヤが一列によっつついているのか…」

「いいから貼っとけ」

彼の額に、貼り付け、ぺしんと指先で叩いた。

「つめたい…きもちいい…」

「なにか食べやすそうなもの買ってきたから、すきなの選んで。アイスとお菓子はもう少しあとね」

彼が買い物袋をがさがさやって、そのラインナップに目を輝かせた。

「ゼリーとかにしときなよ」

「コーヒーゼリー…たべたい…」

「ん」

俺は立ち上がって、彼が選ばなかったものを冷蔵庫に入れがてら、スプーンを取りに台所に行く。

冷気が顔に当たって、火照っていた頬を幾分か冷やしてくれた。

スプーンを持って、彼のところに戻ると、彼は嬉しそうに、うつ伏せたまま、コーヒーゼリーのカップをつついていた。

「はい。自分で食べられる?」

「ん、はい…」

蓋を剥がしてやったカップとスプーンを持たせ、ゼリーにはクリームをかけてやる。

彼は黒くて白いそのたべものを、金属のスプーンでひと匙すくって、口に入れた。

ほころばせた口元。頬が赤い。

冷たいゼリーが、彼の熱を内側から冷やしてくれることを期待する。

彼がちまちまとゼリーを食べるのを見ながら、俺はたばこに火をつけた。

ふうっ、と吐き出した紫煙が、エアコンの風に揺らめいて、部屋の中に広がる。

ほんの少し開いていたドアの隙間から、するりと抜けて、廊下へと流れていった。

「それ食べたら、ビタミン剤飲んで少し寝な」

「はい…」

名残惜しそうにカップを舐めながら、彼は返事をした。

毛布にくるまって、丸くなった彼は、じきに寝息を立て始める。

俺は彼を見ながら、ぼんやりと指先の火種を遊ばせていた。

三十分ほど、彼は眠っただろうか。

呻き声をあげて、俺に向かって手を伸ばした。

「どうした?」

「…きもちわるい」

赤かった頬が白くなっていた。

起き上がるに起き上がれない彼をそのままに、台所から適当なボウルを持ってくる。

「ここ、出せるなら出して」

「やだ…もったいない…やだ…」

うつ伏せた彼の背中をさすりながら、出しなさい、と繰り返した。

彼の身体にぐっとちからが入り、僅かに背中が丸まった。

「う、げっ…げえっ…げっ、げっ…」

彼の口から、暗い色の吐瀉物がぼたぼたと流れ出し、ボウルの中に落ちた。

薄い胃液のにおい。

「げえぇ…。げっ…う、うぐっ…げえっ…」

彼は額に汗を浮かべながら、胃の中身がなくなるまで、繰り返しえずき、吐いた。胃液が混ざった吐瀉物のにおいが、鼻につんとする。俺は彼の背中をさすって、不安そうな目を宥めていた。

「はぁ…は…。あ…うっ……はぁっ…」

彼の身体を撫で、もう出ないか?と聞く。彼は無言で頷いた。

口をすすぐように、と、玄米茶のコップを渡す。彼は、ひとくち含んで、口の中をすすぎ、ボウルの中に吐き出した。

あまり、高い熱にならなければいいが。

嘔吐し、疲れたのだろう、彼はぐったりとしていた。

残っていた玄米茶を飲み干して、毛布に潜り込んでいく。病院に行くかと聞いても、きっと彼は首を縦にはふらないだろう。

俺は彼の頭を撫でて、兎も角安らかに眠ってくれればと思う。

そうして、昏々と眠った彼が目覚めて、いつもの調子で起き上がってくれれば、俺もいつもの調子で返すことができるのに。

今日の彼は、パトカーに会いに行きたがることもなく、ひたすらに布団の中でその倦怠感と熱を持て余している。

いっそ殺してしまえば、明日の朝、俺が目覚めた隣で、彼がきょとんとした顔でこちらを覗き込んでいるのではないだろうか。

青い顔のまま、毛布にくるまって目を閉じている彼を見ながら、どう殺そうか考えた。

喉を手のひらで押し包み、隆起する喉仏を奥へ奥へと圧迫し、呼吸を阻害する。

きっと彼は身悶えて、酸素を求める口は、金魚のようにはくはくと、明滅するいのちのさまを俺に見せてくれるだろう。

彼の指先の薄い爪が、俺の腕に食い込んで、がりがりとその軌跡を残し、皮と肉とを剥いで、爪の内側に赤く線をつける。

いずれ、その痛みを俺に与えることもできずに、全身からちからを抜き、息をすることを忘れるのだろう。

ひそめられた眉と、苦悶に歪む黒いまなこ。

死なない彼が生きようとする行動の矛盾と、いきものの脈動。

俺は自分の手のひらを見つめていた。

彼が、小さく咳をする。

意識が引き戻され、小さな彼が弱っている姿に視線を向けた。

できないな、と、俺は額に手を当てた。

それは俺の本懐ではないのだ。

彼を殺す理由に、届かない。

俺が彼を殺すのは、もっとこころを震わせる、強く浅ましい好奇心の成れの果てでなければならないのだ。

そうでなくては。そうでなくては、俺はただのひとごろしになってしまう。

彼への好奇心をもって、彼を楽しみ、知るために、俺はこの手を使わなければならないのだ。

もしくは、彼が望んだ時のために。

じっと彼を見る。

もう二時間もしたら、昼食の支度をしよう。それまでは、本来の俺の業務をすべきだと、そう思って、彼の眠る部屋から離れた。

しばらく、交番での作業に没頭し、危うく昼食のことを忘れるところだった。

机に置いたスマートフォンが振動し、彼からのメッセージを通知する。

おまわりさん、とだけ書かれたそれを見て、俺は書類をまとめ、休憩中の札を交番の引き戸に下げて、彼の元へ戻った。

幾らか熱が引いたのか、彼は目を瞬かせて、スマートフォンをいじっていた。

「ゲームするくらいには元気になってきた?」

そう聞くと、彼はこくんと頷いて、

「おなかがすきました…」

と、小さな声で言った。少し掠れている。

スポーツドリンクを少し飲ませて、なにか作ろうと台所へ向かう。

冷や飯とたまごに、ねぎを刻んで、たっぷりの湯と出汁で煮る。薄く味付けたたまご粥を、俺と彼の二人分作った。

熱い粥は、きっと彼が食べ始めるには時間がかかるだろうと、小どんぶりと椀を何度か行き来させて、熱を冷ました。

彼の前に出すと、ふんふんとにおいを嗅いで、スプーンを手に取った。

少しだけすくって、舐めるように粥を口に入れる。

「おいしい…」

彼はてちてちと音を立てながら、その白い粥を口に運んだ。

小さな舌が唇を舐め、ゆっくりと小さなひとくちを味わっている。

それを見ながら、俺も粥を食べた。

俺が食べ終わる頃に、ようやく彼は、器に入っていたものの半分を腹におさめた。

「食べ過ぎないようにな」

「はい…」

少しずつ、少しずつ、彼は粥を口に運ぶ。

うつ伏せたままで食べるのは、難儀なようで、途中から疲れたと呟いて、食べ進めるペースが落ちる。

「食わせてやろうか?」

そう言うと、彼は俺にスプーンを差し出した。

少し身体を起こして、餌をねだる雛のように、舌をほんの少し突き出して、スプーンが近づくのを待つ。

少なめのひとくちを、彼の口に与える。

てろ、と、口の端から、白い粥をが垂れて、彼がそれを舌で舐める。

少し、性的な興奮を感じてしまって、今はそういう時じゃないと、腹の中で自分に言い聞かせた。

与えた粥を、彼が、ちゅる、と音を立てて吸う。

すぼめられた唇が、どうにも扇情的で、目を逸らした。

早く中身が無くなって、席を立ちたくなっていた。

股間が膨らんでいるのを、今日は彼に見られたくなかった。

ようやく器の中身が空になり、俺は片付けという面目で、立ち上がろうとする。

「おまわりさん…」

きゅ、と、スラックスの裾を掴まれた。

「ちんちん…あの…。お礼に…あの…やりましょうか…?」

彼が、そう進言して、俺は器を持ったまま、どうしたものかと迷った。

「いや、治ってからにしてくれ」

身体に障るといけないから、と、続けると、彼は心底意外そうに俺を見て、へら、と笑った。

「はい…!」

随分と余裕が出てきたようで、俺は少し安心した。

流し台に食器を放り込む。

シンクの高さは、俺の股間よりも下だ。

いつも低くて調理に苦労するのだけど、俺は、彼からは見えないのをいいことに、ジッパーを下ろして陰茎を引き出した。

勃起したそれを、握ってしごく。

シンクの水を出しっぱなしにして、水音で搔き消しながら、俺は夢中で彼の唇で射精しようと、右手を動かした。

「はっ…はぁ、はぁっ……。あ…くぅっ…」

ぴゅる、と、曇った銀色のシンクに精液が飛んで、流れる水に飲まれて排水口へと落ちていった。

「ふーっ…ふーっ…」

先端に残ったものを、指先で拭い、手を洗う。衣服を戻して、なに食わぬ顔で、スポンジに洗剤をつけて食器を洗った。

彼はなにも気づいていない。

彼がいつもの彼に戻って、お礼の続きをしたいと申し出てきたら、存分に、そうしてやろうと、そう思う。

白く泡立った洗剤を流し、ふと、いつか彼に洗剤を飲ませてみようか、などという、そんな好奇心が浮かんできた。

それはまた、明日か明後日か、少し経ってからの話なのだけれど。

わくわくする妄想をしながら、彼の元へ戻る。

体温を計らせると、ほとんど平熱で、俺はすっかり安心して、彼の頭を撫でた。

手のひらの下で、彼が笑った。

明日以降になにをされるのか、ちっとも知らないのだから。






20160811

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