第40話 夏は死の季節

夏の入浴は、些か億劫である。

けれど、たまには湯船に浸かりたい日もあるもので、俺は、浴槽に満たされた湯に身体を沈めた。

じわりと、両足の疲れが、痺れのように感じられて、程よい温度の湯面に溶け落ちていく。

もろもろと身体の疲労が崩れて、湯の中で浮き沈みし、薄まっていく。

俺は目を閉じで、目頭を幾度か指で揉んだ。

後頭部が湯面に浸り、揺蕩うような錯覚。

とぷ、とぷ、たぷ、たぷ。

船腹を叩く波のような音が、俺の耳のすぐ横で聞こえる。

鼓動のような音。俺の心の臓が、それを立てているのかもしれない。

白い電球の明かりが、瞼の向こう側で瞬いたような気がする。赤い視界が、ゆっくりと黒く塗られ、俺は安堵の息を吐いた。

海の中に沈んでいく。

水のにおいは、眠るときのにおいによく似ている。

夏のにおいだから。


とぷん、と、浴槽の湯が音を立てた。

少し眠ってしまっていたようで、俺は幾らかぬるまった湯の中で目を開けた。

夢を見た気がする。

深海で揺蕩うような、薄暗くあたたかな、さかなになったような夢。

水面は赤く、黒く、赤い金魚が身を翻して俺の前を泳いでいた。

和金のようなかたちに、胸びれと腹びれ、尻びれを振袖のように大きく華やかに生やした赤い金魚。それが、俺の眼前にふわりふわりと回遊し、時折、そのやわらかなひれで俺の頬を撫でていく。

あたたかく、安らかで、俺はそれを追って行こうと、身体をくねらせた。

するりと、金魚は俺の牙を逃れてしまう。

けれど、逃げるわけでも、先を泳ぐわけでもなく、ただ、俺の眼前をふわりふわりと揺蕩うだけなのだ。

水のにおいの中で、彼は身を翻して、俺の前に常にいる。

淡い夢の余韻に浸っていたい。けれど、いい加減にここから出なければ、さかなではない俺は、ふやけてしまうし、なにより身体が熱くなりすぎてしまう。

身動ぎすると、ぐらりと視界がぶれ、のぼせてしまったのがわかる。

「あー…」

間延びした声を上げながら、兎も角、この身体を温め続ける湯から脱出しようと、腰を浮かせた。

頭がぐらぐらして、気分が悪い。熱い身体を鎮めようと、冷たいシャワーを頭からかぶったが、あまり即効性はなかった。

湯気が身体にまとわりついている。冷えていかない。

俺はよろよろとした足取りで脱衣所に出る。こちらにも、湯気が溜まっていた。

長湯をする季節でもないのに、意図せず眠り込んで、熱く火照った身体が鉛のように重い。

身体を拭くのもそこそこに、バスタオルを肩にかけ、濡れたまま下着だけ身につけた。

兎に角涼しいところへ、と、足を運ぶ。

朦朧とした意識のまま、ドアノブに手をかけ、廊下に出る。

つっ、と、鼻からなにか垂れてきた。

手のひらで受けると、それは赤く滴る血だった。きっと広がった毛細血管のどこかが弾けて、鼻腔を流れ落ちてきたのだろう。

鼻血をとめるのも億劫で、俺は、幾分かひんやりした廊下に歩き出す。

肩にかけたタオルにはたはたと、赤くしみがついた。

「うっ…」

気持ち悪さに顔を伏せる。

垂れた鼻血が、板張りの床に音もなく落ち、咲くようにひろがった。

乾いたタオルすら暑くて、俺はかけていたタオルを引き抜いて床に落とす。

そうして、ずるずると壁に背を預けながら、廊下に座り込んだ。

気分が悪い。

胸や腹に垂れた鼻血が、洗ったばかりの肌を汚していく。

ぽた、ぽた。

それは俺の血潮で、こんなにも静かに緩やかに、頼りなく落ちていく失血があったのかと、濁った意識の中で思った。

手のひらで鼻血を受け、どうするかと思案していると、彼の両足が俺の視界に入った。

様子を見に来たのだろう。

ひた、と、彼の素足が音を立て、一歩俺に近づく。

とくとくと溢れる鼻血を受け続けた俺の手を、そっと取って、彼はその手のひらにてろりと舌を這わせた。

手のひらを滑る、柔らかくあたたかい舌が、上りきった体温には少しひんやりとさえ感じた。

彼の舌が、俺の指の股を舐める。むずがゆいような感覚。

五指全ての間を、彼の舌が這い、べたついた血液をこそげ落としていった。

彼の唇が、俺の指先を誘い込み、口内でゆっくりとねぶる。

繊細な神経は、彼の味蕾のおうとつさえも的確に俺に伝えてくる。

ぬるく、柔らかな舌が、爪の隙間にこびりついた血を唾液で溶かして飲もうとしているのだ。

爪の隙間に入り込んだ血を舐めている間も、俺を苛む出血は、だらだらと顔を伝っていく。

鼻腔が塞がれ、呼吸がしづらい。口を開けて、浅く呼吸を繰り返した。

彼は、俺の指をうまそうにしゃぶっている。ようやく、五指から口を離した彼は、俺に向かってしあわせそうな声で言った。

「おまわりさん、苦しいですよね。早くとまるように、余分なのを取ってあげますからね…」

彼は、座り込んだ俺に向かって身をかがめ、そう言った。

口の周りに血をつけた彼が、穏やかに微笑んでいる。

言葉を返そうとして、気道に入りかけた血液に噎せる。

喉から押し出された飛沫が、赤く、彼の頬や髪に点々とあとをつけた。

彼は構わず、俺の唇についた血を舐め、顎にも舌を這わせた。

それでも、鼻腔からとろとろと流れ出す鼻血は、彼の舌で拭い切ることができず、結局、また俺の顎を伝って胸へ落ちていった。

彼は唇を舐めて、俺の鼻先へと舌を伸ばした。

ずる、と、鼻腔に流れ込んでいたものを吸い出される。どろりとした異物感が、彼の唇に吸われ、一時、楽になった。

彼の喉が、ごくりと音を立てる。

再び、吸い付かれ、鼻の中を液体が動くのがわかる。彼が、吸い出した血液を口の中で味わって、さもうまそうに、恍惚とした表情で飲みくだした。

出血量が少なくなったのか、ちゅ、ちゅ、と、小刻みに吸い付き、彼は名残惜しそうに眉を寄せた。

元々大きな傷ではないのだ。

すぐに止まってしまうだろうことは明白で、彼に血液を与える時間は短いものだというのが、少しだけ惜しかった。

顎を伝っていた血糊を、彼が舐める。

そうして、喉元を、ゆっくりと降り、胸に落ちて乾きかけたものに到達する。

ちろちろと動き回る舌が、こそばゆいような、少しだけ快いものに感じられた。

冷や汗の玉が浮いていた俺の身体を舐めながら、彼はぼそりと、「しょっからい…」と、漏らした。

血の味は、薄まってしまっていただろう。

「はー…。はー…」

俺が口で呼吸する音と、彼が俺の胸を舐める小さな水音だけが、しんとした暗い廊下に広がっている。

盆も近い夏の夜に、虫の鳴く声も聞こえなかった。

彼の食事の時間。

夏は死のにおいがする。

俺はこのまま、喰われていくのだろうか、と、浅い呼吸を繰り返しながら思った。

彼の顔面は、すっかり血で汚れていた。

忘れたように、俺の鼻先がぽたりと、血の雫を落とす。

顎を伝って、また胸に落ちる。彼はそれを拾い集めて嚥下する。

彼は彼なりに、俺を助けようとしている。多少の食欲は否定できないけれど、それはあくまで好意からの善良な思考に基づくもので、その感覚を受けるたびに、俺は安堵し、彼への穏やかな気持ちを積んでいく。

「は、ふ…」

どちらの息遣いだっただろうか。

湿り気を帯びた木板の上で、穏やかに行われる食事と、安寧のきもち。

それはなにか、特別な夏の夜のように思えて、俺は朦朧とした意識のまま、身体を彼に預けていた。

少し身体が冷えてきた。

全身に漬け込んでいた鉛のような重さが幾分か薄れ、そして、出血も減っている。

俺は腕を持ち上げて、胸に舌を置く彼の頭へと手のひらをおいた。

柔らかい髪が、ふっかりと俺の手のひらを受け止めて、その下で彼が息づいている。

「なぁ…水…、持ってきてくれ…」

俺がそういうと、彼は頭を上げて、台所に小走りに去っていった。

口内にすら入り込んだ血の味が、舌を、歯を、すっかり漬け込んで、彼の血肉を求めて喰らいついた時に似た味を俺に与えている。

けれど、彼の血でない俺の血は、随分と苦く、生臭かった。

彼は、この味をどう思っていたのだろうか。

「おまわりさん…、おみず…」

彼が、コップに汲んだ水道水を俺に渡す。

口の中をすすぐようにしてから、飲んだ。

二口、三口と飲むうちに、すっかりと口内を支配していた腥い鉄錆の味とにおいが、胃袋の中へと押し込まれていった。

ぬるい水道水ですら、清涼感がある飲み物に思え、俺は空になったコップを彼に渡して、もう一杯を要求した。

彼はすぐにそれを持ってきてくれた。

ゆっくりと、今度は水の味を確かめるように飲んだ。

カルキのにおい。

薄いプールのにおい。

夏のにおい。

これもきっと、夏の死のにおいのひとつであって、夏は死に続けている。

灼熱の炎天下で、夏は死を作り続け、その死の狭間に、幾ばくかの穏やかさを残す。

夏の終わりに金魚が死に、また冬に生き返る。

それに近いことを、彼が言っていた気がする。

顔をあげると、彼はまだ、顔面に血糊をつけたままでいた。

俺はバスタオルの端をコップの水につけ、濡らし、彼の頬を拭った。

「なぁ」

「はい…」

少しくすぐったそうに目を細めて、彼が返す。

「夏は、どんな季節だって言ってたっけ」

彼はきょとんとして、へら、と笑った。

「春が連れていってしまったものが、溶けて、いろんなものも溶けて、全部混ざっていくんですよ…」

「ああ、そう。そうだ」

夏は、春に連れられたものも、生きているものも、死んだものも、全部がひとつの流動体へと変化して、渦巻き、秋になって固まる準備をするのだ。

だから、どこにいても、死のにおいがする。

まっさらな夏の夜明けは、殊更そうで、早い夜明けは、そのぶん長く死を送る。

血の味は、きっと生きた味で、だから彼はそれが好ましく思うのだろう。

彼はいつも死を背負っている気がした。もしかしたら、それは彼自身ではなく、彼の中にある、真っ黒いどろどろしたものたちのせいなのかもしれないけれど。

「おまわりさん、大丈夫ですか…?血はもうとまったみたいだけど…」

「ああ、ありがとう」

彼の顔を拭い終えて、俺は壁に手をつきながら立ち上がった。

随分と意識は明瞭で、頭の中にぐるぐるとさんざめいていた思考の波も、凪いでいた。

「少し夜風にあたってくる」

「ぼくもいきます…」

Tシャツとハーフパンツを身につけ、たばこを持って、彼と交番の前に出る。

とっぷりと暮れた夏の夜。

気温は低く、けれど絡みつく湿気がまだ残っていた。

それを少しずつ削り取るように、夜風が流れ、俺の吐き出した紫煙をも引きずって、空の中に巻き上げていく。

彼がしゃがみこんで、パトカーの前で死んだ蝉を覗き込んでいる。

死は、日常に染み入っていて、きっと多くの人は、あまりに自然に存在するので、気付かないのだろう。

ひとは、誰もが、明日にでも死ぬ。

それを逃れた俺と彼とパトカーが、死のにおいの夏を、ゆっくりと夜更かしていく。

湿気た空気の先に、星がちらついている。

旭日と共に、また死の季節が訪れて、灼熱で命を溶かしてひとつにしようとする。

そんな話を、彼にしてみたいと思って、俺はたばこの煙を吐いて、彼に話しかけた。

さて、彼はどんな答えを返してくれるだろうか。





20160803

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