第38話水責め

じゃぷ。

彼がバケツに手を突っ込み、スポンジを濡らす。

たっぷりと水を含んだスポンジをゆるく絞り、洗車用のシャンプーをその上に乗せていく。ぐしゅぐしゅと泡を立て、ボンネットにスポンジを押し付ける。

丸く、円を描くように、くるくると泡を広げ、丁寧に洗っていく。

その横顔は、たまらなく楽しげで、言うなれば、好きなひとを愛しむように身体を洗ってあげる、そんな喜びに近いのだろう。

そんな、彼とパトカーのスキンシップを、俺はたばこを咥えて眺めていた。

麗らかな晴天、と呼ぶに相応しい、穏やかな陽気は、梅雨の合間に見せる雲の切れ間だ。

絡みつくような湿気も、今日ばかりは、緩やかに吹く風に流されていったようだ。

続くしとしととした細かい雨粒と、砂埃で、すっかり濁っていた車体の輝きを取り戻すべく、彼はしあわせそうに、パトカーに水を掛け、スポンジで洗い落としていく。

ボンネットをすすぎ、側面へと彼がうつろうとする。

「おまわりさん…」

そこで、彼が俺を呼んだ。

「んー…?」

「上…届かないんです…。洗ってもらっても…」

「ああ」

俺はパトカーと彼に歩み寄り、スポンジを受け取ると、ルーフへ手を伸ばした。

彼には届かない、パトカーの屋根部分や、昇降機や赤色灯の辺りも、俺ならば容易に手が届く。

俺が咥えたばこでルーフにスポンジを押し付けている様を、彼は物言いたげにこちらを見ていた。

「…きみも洗いたいの?」

「…はい」

脚立を、とは思ったが、わざわざ倉庫から運び出すのが面倒に思え、俺は彼にスポンジを渡す。

彼の脇に手を差し込み、抱き上げる。

曲げた腕に座らせるようにして、彼をルーフより高い位置へと引き上げた。

「わぁ…!」

彼はあまり、この高さからパトカーを見ることなどないのだろう。

真っ黒い目を見開いて、じっとパトカーのルーフを見つめた。

「腕が疲れるから。洗って」

「はい…!」

彼の腕が伸ばされて、パトカーのルーフにも泡が広がっていく。

彼は愛おしげに、スポンジを持っていない方の手でも、ルーフを触り、指を滑らせた。

胸を押し付けるようにして腕を伸ばすものだから、露玉のような水滴を、彼のTシャツが吸い取って、色が変わっていく。

白いシャツがぺたりと彼の胸に張り付き、肌の色を透けさせていた。

昇降機、赤色灯。彼はこちらも愛おしそうに、スポンジで撫でた。

彼を地面に下ろし、ホースを掴んで泡を流す。

流れ落ちた泡が、フロントガラスを滑り、排水穴へと潜り込んでいく。

彼が隣で、ごくりと喉を鳴らしたのは、聞かなかったことにした。

「ほら、続きも」

「ん、あ…、はい…」

シャンプーをスポンジに足して、側面を洗い始める。

まだ少し泡が残っていることに気づき、赤色灯目掛けて放水すると、向こう側を洗っていた彼から悲鳴が上がった。

「ぶえっ…!おまわりさん…!つめたい…!」

「ああ、悪い悪い」

頭から水をかぶってしまった彼が、恨めしそうに俺を見る。けれど、洗車をやめる気にはならずに、くるくるとドアミラーの背中をスポンジで撫でた。

あとはまた彼に任せればいいだろうと、俺は少し離れて、交番の壁にもたれながら、短くなったたばこを消して、新しいものに火をつける。

ぷうっと煙を吐いて、彼が忙しそうにくるくるとパトカーの周りを動き回っているのを見ていた。

ワックス入りのシャンプーを使ったようだし、あとは拭き上げながらできるワックスを塗り込めば、梅雨の雨を弾くようになるだろう。

その後、ガラスにワックスを塗るのは、少し手伝ってやろうと思う。

びしょ濡れのまま、嬉しそうにパトカーの周りを歩く彼を見ながら、俺は穏やかな気持ちで、少し笑った。

「くらえっ…!」

穏やかでない言葉が聞こえた瞬間、俺の顔面に、冷たい液体が勢いよく発射された。

「ぐぶっ…!」

「あはははは…」

笑う彼に向かって走り、ホースを取り上げる。濡れて消えてしまったたばこを吐き出して、彼に向かって水圧を上げ、思い切り放水した。

「ゔあ゛っ…!つめたい…!ゔっ…!」

転がった彼の身体全体に、びしゃびしゃと水をかける。

わざと顔を狙って執拗にかけていると、水を飲んだのか、げほげほと咳き込みはじめた。

「降参?」

俺は水を緩めながら彼に聞く。噎せながら、こうさん…こうさん…と、彼は返した。

「でもほら…先にかけたのはおまわりさん…。うう…パンツ濡れてきもちわるい…」

「後で風呂入りゃいいだろ。はい、洗車終わらせて」

「ううっ…」

全身から水滴を垂らしながら、彼が残っていた部分を洗う。仕返しされないように、俺が泡を洗い流した。

びしょ濡れの彼が、せっせとパトカーの拭き上げをしているのは、少し面白い光景だった。

前髪から滴る雫が、頬を濡らし、首筋を通って、透けたTシャツへと流れていく。

普段は大きめの服の下に隠された彼の体躯が、存外に小さなものであると再確認した。

彼は、大人の体躯ではない、と俺は思う。

成長過程の中性的なまま、彼と出会った時から、なにも変わらない。一人称と外観だけで判断するなら、確かに彼は少年と呼ぶべきなのだろう。

俺は時折、そういったものを気にかけはするけれど、それ自体、あまり重要なものだとは思えずにいた。

彼も、自分が男であるとか女であるとか、そういう主張はしたことがない。

きっと彼にとっても、そういう決まり事は、大切なことではないのだろう。

先程の放水で、ほんのりと湿気ってしまったたばこに、苦労して火をつけながら、俺は彼の作業が終わるのを待った。

彼が道具を片付けて、こちらに戻ってくる。

「お疲れさん」

ポケットに入れていた千円札も、しっとりと湿っていた。

俺が毎回渡す、彼が洗車をした時の手間賃だ。

彼はそれを受け取って、自分のポケットに入れる。雫が滴るようなジャージに突っ込まれた千円札は、さぞ使い難いだろうと思うけれど、彼は別段気にしないようだった。

「風呂沸かすか…。入るでしょ?」

「あ、はい…」

サンダルをつっかけた彼の足跡が、交番に向かって続く。ぐっしょりと濡れた服のまま家に上がられると、廊下がひどいめにあいそうだ。

「玄関先でジャージとか脱いでよ。床拭くのめんどくさいし」

「そうですね…」

交番の前で、彼がびしょ濡れのTシャツを脱いで、ぎゅっと絞る。コンクリートの上に、びたびたと水が落ちていった。

引きこもりなぶん、彼はあまり日に焼けていない。赤いラインの入った黒いジャージと、白く丸い肩の色が、少しパトカーに似ているような気もした。


彼はあまり湯船に浸からない。

俺も、今の時期は湯船に浸かる回数が減っている。

昨夜一応沸かした湯が、誰も入浴しないまま、浴槽の中ですっかり水になっていた。

「行水するか…暑いし」

俺がそう言うと、彼は喜んで、絞った衣類を洗濯機に放り込んで浴室に入っていった。

バスタオルを出してから、俺も汗を流すべく浴室に入る。

浴槽から頭だけ出して、彼が涼しそうに、しあわせな顔でこちらを見た。

「なまぬるくて気持ちいいですよ…!」

「その表現だと気持ちよさそうには聞こえないけどね…」

カランをひねって、シャワーから湯を出す。

短い髪を濡らして、シャンプーをがしがしも泡立て、頭を洗う。流そうと、手探りでシャワーを探すが、置いたはずの場所にその手ごたえがない。

「ん?あれ、シャワー…」

「ふふ…」

彼のほくそ笑むような声が聞こえ、嫌な予感がして、すぐ。

きゅ、と、カランがひねられる音がして、恐らく出せるだけ思い切り出したのだろう水流が、俺の顔面を襲った。

「ぶぁ…!?がふっ…げほっ…おい…!」

「ははは…!」

彼からシャワーを奪い取った頃には、すっかり頭の泡が流れ落ちてしまっていた。

シャワーを止めて、俺は浴槽の隣にしゃがむ。彼がまだけらけらと笑っている。

「こいつ…!」

彼の頭をがしりと掴み、思い切り水の中に沈めた。

「がぼっ…!ごぼっ…!」

前屈のような姿勢のまま、彼がもがく。一瞬、彼をこうして殺した日を思い出した。けれど、今日はその日じゃない。

俺のこころを支配するのは、ただ、彼をこうしたいという欲求だった。

彼の髪を掴んで、顔を上げさせ、僅かに息継ぎをさせ、また押し込む。

彼が浴槽の中で手足をばたつかせる。

水が波打ち、浴槽から溢れ、俺の足元を濡らした。

彼の指が俺の腕を掴み、どうにか抜け出そうとするけれど、しかと捉えた髪から俺の指を解くことはできない。

「がぶぁっ…。おまわり、さ…ごぷっ…!」

息継ぎの合間に、彼が俺を呼ぶ。

髪を掴んだまま、彼の頭を水に沈めるのを繰り返した。

伏せた彼の後頭部。水面の中で浮かび、俺の指に絡みつく細い髪。もがく彼が水滴を跳ね上げ、俺の顔を濡らす。

水の中で、彼はどんな顔をして苦しんでいるのだろうか。

眉を寄せ、口を開き、酸素を求めて心臓が鼓動を早くし、窒息死の苦しみを味わって、あの幼い顔を歪ませているのだろう。

そう思うと、ぞくぞくした、たまらない気持ちが俺を苛んで、彼を苦しませることに没頭させた。

彼の爪が、俺の手首に食い込み、ぎちぎちと表皮を剥ぐ。

彼の薄い爪が、彼の持てるだけの握力を使って、露わになった肉の層を抉っていく。

赤く裂かれた皮膚から血が滲み、水に溶けて薄く広がり霧散する。

限りなく薄められた俺の血の中で、彼が溺れている。

「ぜ、はぁっ…!げほっ、げっ、ゔぁ…」

どぷん、と、水音を立てて、また彼を潜水させる。俺の手首の傷は広がって、彼の頭の上で血液が広がり、その中心から、彼が顔を出す。

たくさん水を飲めばいいと思う。

酸欠と抵抗で、彼の体力は削ぎ落とされ、俺に食い込む爪のちからが弱まっていく。

どこまで追い込んで楽しんでいいだろうか。

できるならば長く、こうしていたい。

彼はきっと、水に責められる苦しみと、そこから逃すまいとする俺の腕のことだけを考えている。

俺も、彼のことだけを考えている。

顔を上げさせ、長めに息継ぎをさせる。

彼は噎せ、咳き込みながら、空気を求めて口を開く。

黒いまなこが、俺を見て、三日月型に歪んだ。水に濡れた髪の隙間から、俺を見る底のない沼地に、俺はぞくりとした快感を覚える。

「おまわりさん…」

俺は返事をする代わりに、腕にちからを入れた。

彼の顔面を深く押し込み、長く、水に浸ける。

数分程のことではあった。けれど、水面下で呼吸をするなんてできない彼は、ぐったりとして、顔を上げさせても、なにも言わなかった。

小さく呼吸をしていることを確認して、俺は彼を浴槽から引き上げた。

抱き上げた彼は、くったりと俺に身体を預け、意識を失っている。

その身体をバスタオルでくるみ、水滴をとってやる。

脱衣所に寝かせた彼を横目に見ながら、俺も自分の水滴を拭い、腰にタオルを巻いて、彼を寝室に運んだ。

まだ濡れたままの彼の髪を拭き、枕が濡れないようにタオルをかけてから、全裸の彼を布団に寝かせてやった。

穏やかな寝顔に思えた。

彼が小さく咳き込んだ。唇の隙間から漏れ出した水が、タオルに吸われていく。

彼の腹の中にある、薄まった俺の血液を、ゆっくりと彼が体内に取り込んでいくのだと思うと、法悦に近い感情を覚え、俺は自分の腕を握った。

彼のつけた傷痕が、未だに血を吐き出して、それをまた愛しく思い、俺は己の手首を、ずるりと音を立てて吸った。




20160702

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