第37話 おまわりさんと骨折、ぼくと飲尿

「音がしない…」

おまわりさんが、受話器を耳に当てながら、そう呟いた。ぼくも耳に当てさせてもらう。普通なら、ぷーっ、ぷーっ、と、音がするはずの受話器からは、おまわりさんが言った通り、なんにも音がしなかった。

「困ったな、誰かからかかってきても通じないぞ」

「線の接触不良とかでは…?」

ぼくがそう言うと、おまわりさんは少し考えて、「倉庫を見てくる」と言った。

倉庫の中には、いろんな配線が通っているし、まわりにものがたくさんある。もしかしたら、荷物が崩れて、なにか切れてしまったりしているのかもしれない。

埃っぽい倉庫の中で、おまわりさんが脚立に乗って、ごそごそし始めた。

ぼくは、倉庫の中の古い家電を見たり、いらなそうな機械部品をポケットに入れたりしながら、おまわりさんを見ていた。

天井に届く棚の上に積まれたダンボール箱が、不安定で、それにおまわりさんは気づいていない。知らせてあげようと声を出そうとした。

その途端、ぐらりとダンボール箱が崩れて、おまわりさんの方に倒れていった。

おまわりさんが小さく悲鳴をあげて、脚立ごと倒れた。

がたん、がしゃん、大きな音がした。

その上に、ダンボール箱がどかどかと乗っていく。

「おまわりさん…!おまわりさん…!」

ぼくは慌てて駆け寄って、おまわりさんの上に乗っかったダンボール箱を退けていく。おまわりさんの呻き声が、荷物の下から聞こえてくる。

「ああ…。あぁ…」

おまわりさんを掘り出すと、腕が変に曲がってしまっていて、おまわりさんの顔色は真っ青だった。ぼくに向かって曲がっていない手を伸ばそうとしている。

「イッテェ…。あ…頭…。俺これ多分失神…」

そう言って、おまわりさんは伸ばしていた腕をぱたんと落として、気を失ってしまった。

「おまわりさん…。おまわりさん…!」

揺さぶっても、おまわりさんは動いてくれない。ぐちゃぐちゃに散らばったがらくたの山の中から、おまわりさんを引っ張り出そうとしても、ぼくのちからではうまくできない。

おまわりさんに乗ったがらくたを拾っては放り、どうにかしておまわりさんを交番のほうに連れていけるように道を作る。

はやく、気がついて欲しかった。

十分くらい経っただろうか。

おまわりさんが、呻きながら起き上がった。ぼくは嬉しくて、おまわりさんに飛びついた。

「イッテ、待って。おあ…」

おまわりさんの右腕は、やっぱり変な方向に曲がってしまっていて、軟体動物みたいにでろんと垂れている。

「救急車…。あ、電話繋がらない…?」

おまわりさんは、ポケットから自分のスマートフォンを取り出したけれど、それは画面がばきばきに割れてしまっていて、なにも表示してくれなかった。

「とりあえず…外…交番戻って…」

おまわりさんが立つのを支えて、ゆっくり倉庫を出る。けんけんして歩くおまわりさんの左足は、右腕に同じく、おかしな方向に曲がってしまっていた。

交番を抜けて、居間に入って、おまわりさんが横になれるように、布団を敷いてあげた。

「足もやってるわ…。電話…あ、君のスマホは?」

「えっ…ぼくのですか…。嫌です…!貸しませんよ…!」

いくらおまわりさんでも、ぼくはぼくのスマホを貸すことができなくて、だいたいぼくが電話をかけても、しらないひとがここにきてしまう。

そんな恐ろしいことに、ぼくは協力できない。

「ぼくが…ぼくが看病しますから…!きっとすぐ治ると思いますから…!」

ぼくの説得が通じたのか、おまわりさんも、

「ああ、明日にはどうせくっついてる気がする…」

そう言って、布団に座って目を閉じた。顔色がすごく悪い。

「うっ…」

おまわりさんが、近くのゴミ箱を掴んで、引き寄せる。

ゴミ箱に突っ込む勢いで顔を伏せて、げぇっ、と声を出して、吐いた。

「う゛っ…げぇっ…げっ…」

あんまり痛くて吐いてしまったのだろうか。ぼくは口をすすげるように、コップに水を入れて持ってくる。

おまわりさんは、コップを受け取って、ひとくち含んで吐き出し、残りを飲み干した。

「あー…。これ、曲がったままにしといたら、変な風にくっついたりしない…?」

ひと心地ついたのか、おまわりさんが、左手で右腕を恐る恐る撫でながら、そう言った。

確かに、曲がってくっついたら大変だ。

「まっすぐに直して…副え木を…」

ぼくが言うと、おまわりさんはちょっと胡乱な目をぼくに向けた。

「ぼくがやりますよ…?」

しかないよなぁ、と、おまわりさんが言った。

使えそうな板切は倉庫にあったし、それを固定するのは、ガムテープでもできる。兎も角、おまわりさんの曲がった腕を、まっすぐに戻してあげないといけない。

ぼくは両手でおまわりさんの腕を掴む。

「まっすぐに…こう…」

「イ゛ッ…ぎぃ…!」

戻そうと、ぎゅっとちからを入れると、おまわりさんが悲鳴をあげた。

びっくりして離してしまう。まだまっすぐにはなっていない。

「ああ…あの、ちゃんとやりますから…」

もう一度握って、ちからをいれる。まっすぐになれ、まっすぐになれと思いながら、おまわりさんの腕をぐいぐい動かした。

「ヴッ…ぐぅぅ…。イ゛ッテェ…畜生…」

おまわりさんが悪態をついているけれど、どうにかまっすぐになった腕を、副え木で挟んで、ガムテープでぐるぐる巻きにする。

抜け落ちない限りは、副え木の役目を果たしてくれるはずだ。

同じように、足の骨も戻そうとするのだけど、腕よりも太い足は、うまくつかめなくてちからが入らない。

ぼくが手間取る間も、おまわりさんは痛みに呻いて、歯を食いしばっている。

「ごめんなさい…ごめんなさい…」

「いいから…」

ぼくが悲しくなってしまって、おまわりさんにそう言うと、おまわりさんが優しい声でそう言ってくれた。

「俺、大丈夫だから…」

そう言われて、ぼくはまた、おまわりさんの骨を戻すべく、足を掴んだ。

ぐい、と、一息にまっすぐにして、添え木をあててガムテープで巻く。

おまわりさんは、まっすぐになった足を見て、ぼくにひとこと、「ありがとう」と言ってくれた。

「なにか他に…あ、ごはん…ごはんを作ります…!ぼくが…!」

ぼくがそう言うと、おまわりさんは、ふふっと笑った。

「きみ、めだまやきも作れないでしょ。カップ麺でも食おうか。お湯沸かしてきてくれる?」

そうおまわりさんに言われて、ぼくは台所に走っていった。

やかんにお水を入れて、火にかける。ガスを吸った青い炎が、やかんの底をちりちりと炙って熱くしていく。底にたまった熱が、やかん全体へと広がって、お水をどんどん温めていく。

小さな気泡がお湯の中に浮かび始め、じきにくつくつと泡だつように沸騰する。

二人分のカップ麺にお湯を注いで、お箸を乗せて、居間に持って行く。

起き上がったおまわりさんが、一分半でカップ麺を食べ始める。

ぼくも蓋を開けて、お箸でぐしぐしとかき混ぜて、一本だけ口に入れる。

おまわりさんの時間は、ぼくには少し早過ぎて、芯の残った麺のためにもう少し待つことにした。

「おまわりさん、利き手じゃなくてもお箸持てるんですね…!」

「ん?ああ、摘むのは無理だけど、カップ麺くらいならね」

おまわりさんが、座卓の上のカップ麺に顔を寄せて、犬食いに近い格好で麺をすする。

普段ならしない、お行儀の悪いおまわりさんの食べ方に、なんだか新鮮さを感じてしまって、ぼくは少しだけ、おまわりさんが怪我をしたことを嬉しく思った。言わないけれど。

程よくほぐれた麺を、ぼくも食べ始める。

熱い麺を冷ましながら、少しずつ口に入れる。おまわりさんは、熱いのが平気だから、もうきっとカップ麺は残り少なくなっているのだろう。

ゆっくりとカップ麺を食べ終えて、お片づけをしたら、ぼくは少し眠たくなってしまった。

お昼寝がしたくなっているぼくに気づいたのか、先に布団に横になっていたおまわりさんが、隣をとんとんと叩いて、布団で寝るようにと言ってくれる。

傷だらけのおまわりさんの横で丸まって、ぼくは目を閉じた。あったかい。おなかのふくれたしあわせと、おまわりさんの優しいしあわせ。ぼくはうとうとしながら、そのしあわせをこころのなかに積んでおいた。


怪我人なのだから、食後すぐに寝てもバチは当たらないだろうと、俺も彼の横で目を閉じた。

夢の中で、怪我をしていない俺が、彼を抱き締めて眠っていた。

彼のしあわせが、俺の胸にひっついた彼の額から伝わってくる。

ちいさなしあわせ。彼が拾い集め、積んでいるしあわせ。

それは着々と体積を大きくしていて、けれども、ただ積んだだけの、まるで賽の河原で積み上げられたもののような、危ういかたちをしていた。

今にも崩れてしまうのではないか、と思うその石積みの塔のようなものは、俺とパトカーが支えていた。

彼を掴んで、何度も殺そうとする黒い影たちを、俺とパトカーが跳ね返す。

きっと、今の彼は、こうしてしあわせを危ういながらも大きくしているのだろう。

そのしあわせが、充分なものになった時に、なにか変化があるのだろうか。

目を覚ました俺は、まだ寝息を立てている彼の額を触った。

触れられても目を覚まさない程に安心しきった彼が、ここにこうして丸まっていてくれるのを嬉しく思った。

しばらく彼の頭を撫でて、穏やかな思考に身を委ねていると、彼がぱちりと目を覚ました。

あくびをして、俺がいることを確認して、小さな声で「おはやうございます」と、寝起きの挨拶をした。

とっくに時間は夕方近いけれど、それを咎めるのは無粋だろう。

のそりと彼が起き上がる。

「おしっこ…」

そう言って、トイレへと向かっていった。水を流す音。

俺も尿意を感じて立ち上がろうとしたが、まだ治癒が進んでおらず、それは叶わなかった。

どうすべきか、ペットボトルでも使って用を足そうか、と考えている間に、彼が戻ってくる。

俺は、彼の反応が見たくて、わざと嫌がりそうな提案をする。

「トイレ行きたいけど、うまく立てないんだよね」

「あ…」

立たせましょうか?と彼は言ったけれど、立ち上がるのが億劫だった。

「面倒臭くて…ねぇ、飲んでよ。するから」

俺の言葉に、彼は少し躊躇する。

そりゃあそうだ。液体とは言え、排泄するものを飲め、と、俺は要求しているのだ。

彼は、どうするだろうか。

「が、がんばります…!」

随分と呆気なく承諾されてしまった。

だが、流石に横になったままは、俺の方が出しづらい。

膝立ちならば脛の骨折に負担をかけることはなかったので、膝立ちになる。

彼は俺の股間に顔を寄せて、俺が萎えた陰茎を取り出すのを待っている。

「零さないでよ」

彼の口が俺のものに吸い付いて、少しだけ妙な気分になる。妙なことをしているのは、今も同じではあるのだが。

下腹に少しちからを入れると、尿道を通った液体が、彼の口へと流れ込む。

彼は顔を顰めて、けれども、こくりこくりと小さなのどぼとけを上下させ、俺のしたものを飲んでいく。

出し終わった俺の陰茎に残る雫を舐めて、彼の唇が離れていった。

「ありがとう」

そう言うと、彼は困ったような顔のまま、

「ちゃんとできましたよ…!」

と、そう言った。

そして、妙な気分になってしまった俺の陰茎を見て、彼は臆面もなく言った。

「ちんちんのほうも…飲んだほうがいいですか…?」

断る理由もなく、俺はそれを承諾した。

横になった俺の陰茎に、彼は唇をつけて、拙い、口腔を使った性行為を行う。

彼のフェラチオは、けして巧みとは言えなくて、先端だけを口内に収め、ぺろぺろと舐め、時折吸う、そんな程度のものだった。

強い刺激もなく、ゆるゆるとマッサージされているような快感が、俺は嫌いではない。

いつか、俺の好みのやり方を彼に仕込むのも面白いかもしれない。

そう思いながら、彼の後頭部に手を伸ばし、ぐっと彼の頭を押し下げた。

「ん゛っ…!」

「吸ったまま、頭ごと動かしてしごいて。そう。そのまま、また奥までいれて。そう。いい子だ」

彼のミタメのせいもあって、子どもに性行為を仕込む悪い大人のような気分になる。

けれど、彼は一応成人しているし、なにより、彼が俺の好む通りにしようと、えずくのを堪えて努めているのが、ただ嬉しかった。

ごぷ、ぐぷ、と、くぐもったような粘性の音が聞こえる。

俺は目を閉じて、彼のことを考える。

いつか、意識のある彼と性行為の真似事をしてみたいと、淡く願っていたことを思い出した。

その時、彼はどうするだろうか。

拒絶するだろうか。受け入れるだろうか。

それがとても楽しみで、どう転んでも、きっと俺の欲しいものになる。

俺の吐き出した精液も、彼がごくりと飲み込んだ。

「おしっこより…こっちのが…うん…味は…」

「食レポまでしたか」

へへ…と、彼は笑って、まだ唇を気にしている。

「すっきりしたから、俺はもう少し寝るけど、君は?」

「ん…、ぼくももう少し…寝たい…」

彼も俺の隣に横になった。

彼の唇から、俺の精液のにおいがうっすらとした。

「おまわりさん、早く元気になって…。そしたら、また…おいしいもの作って…。ああ、あと警邏にも…連れてってください…」

半分寝言のような彼の言葉を聞いて、俺は穏やかな気持ちのまま、目を閉じた。

きっと、今夜にでも、折れた骨はあらかた修復されているだろう。

動けそうなら、彼に、彼の大好きなものを作って食べさせてやろう。

ゆっくりと世界が、回るように暗転していく。

彼のにおいが、よくわかる世界だった。





20160620

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る