第36話 開腹 魂の通貨

「暇だな…」

勤務中にあるまじき独り言を吐いて、俺は事務机に座り、たばこを吸っていた。年中それなりに暇ではあるのだが、ここ数日は、年寄りが「畑を耕すのを手伝ってくれ」なんていう、警察官の職務でない仕事も無い。

俺は、とんとんと灰皿の上にたばこの灰を落としながら、エアコンから吐き出されるよく冷えた空気に身を任せていた。

正午過ぎの屋外は、灼熱よろしく陽炎を立ちのぼらせている。締め切った二重ガラスに遮られて届かないが、きっと、油蟬がじゃあじゃあとやかましくがなり立てているのだろう。

夏の暑さは、俺にも影響を与えていて、少しばかりバテている。食べる気になったら、素麺でも茹でようと思いながら、動く気にならず、口から煙を吐いた。

「あの…おまわりさん…」

彼の呼ぶ声がして、振り向くと、玄関の引き戸から、彼が顔だけ出して、手招きしている。そうだ。彼にはちゃんと食事をさせてやらないと。

そう思って立ち上がり、彼へと近づく。

「へ、部屋にきてください…!」

彼はそう言って、居間へと引っ込んでいってしまった。なにか用事でもあるのだろうか。

俺は靴を脱いで、言われるままに居間に足を踏み入れる。

「うおっ…」

エアコンでできる限りに冷やされた室内に、一瞬目眩がした。彼は暑さにとても弱いけれど、こうも冷やすのは珍しい。ドアを後ろ手に閉めて、座卓の前に座った彼へと向き合う。

「どうしたの?腹減った?」

「いえ…その…あの…。ご、ごめんなさい…!」

立ち上がった彼が、全体重を乗せて、俺にぶつかってきた。

「ゔっ…」

その手に握られていた包丁が閃いて、俺の腹に食い込もうとする。

けれど、俺が着た防刃ベストが機能を果たし、彼の刃は届かない。

「あ…あぁ…。うぁ…ど、どうし…ご、ごめんなさい…!ごめんなさい…!」

彼は俺の足元に、へたへたと座り込んでしまって、今にも泣きそうな声を上げた。

「あ…?」

俺の声に、びくっと身体を震わせて、彼は包丁を持ったまま、何度もごめんなさい、と繰り返した。

彼が俺を殺そうとするのは、何回もあったけれど、理由がなかったことはない。今回も、なにかしらの理由があるはずで、それがもし、腹が減った、だったら、山程素麺を茹でて、泣いて吐くまで喉に流し込んでやるつもりだった。

けれど。

「おまわりさんが…おまわりさんの…。う…あの…おなかを…ナカミが…」

彼はしどろもどろで、きっと今の気持ちを適切に表す言葉を探している。

俺は、彼が言葉を引き出すまで待った。

「おなかひらいて…ちゅーしたり舐めたり…。かんだりしたい…すきだから…」

漸く彼から引き出せた言葉はそれで、俺が予想していたものとはだいぶん違ったけれど、彼は、ひどく切実な声音で、俺に訴えたのだ。

「すきだから、したい」、と。

彼の愛情表現が、俺の常識に当て嵌まらなくて、しかもそれが彼のできる精一杯のものであることを、俺は知っている。

本来ならば、例えば、男女ならば、そこに性交渉だとかが当て嵌まるのかもしれない。ひとのできる最上の愛情表現が、性交渉だけとは思わないが。

それがたまたま、彼にはこれで、他にどうしようもないのだろう。

切望し、渇望するような、すきだからしたい。それを言われて、死なない俺でなければ、きっと相手ができないような、そんな愛情表現を、どう受けてやるべきか。

しかし、俺の痛覚は、未だ殆ど人並みで、きっと彼には腹を裂かれたら、相当な激痛を味わい、苦しむことになるだろう。

肉体の耐久度があがっている分、長く、だ。

俺は、彼を見ながら、心底躊躇った。泣き崩れるような激痛を腹に受けて、彼に殺されると言えども、それを俺が了承するのには、自殺に近い覚悟が要る。

それでもだ。

彼を抱えて、連れ帰り、全てを後悔しないと思ったのだから。

俺は、防刃ベストのジッパーを下ろして、床に放った。シャツのボタンを外し、それも丸めて床に投げる。

冷え切った部屋の温度が、素肌を撫で、ちくちくと鳥肌が立った。

「俺、なにしてんだろうなぁ…?」

誰にともなく独りごちて、彼の前に腰を下ろした。

涙で赤く充血した目が、驚いたように見開いて、俺を見つめている。

「いいよ」

俺がそう言うと、彼はほたほたと涙を零して、とてもとても嬉しそうに笑った。


「連れてきちゃったんだもんなぁ…。畜生…。じゃあ、もう受け入れるしかねぇよなぁ…」

壁に背を預け、彼の頭を撫でながら、俺はそう言った。彼は泣き止んでいて、包丁をぶら下げたまま、

「…やめますか……?」

と、切なそうに言った。

「いや、いいよ。したくてどうしようもないんだろ?」

「…はい……」

そんなに物欲しそうな顔をされて、今更やめたなんて、言えるわけがなかった。そんなに、渇望するような声で、言わないでくれ。こんな状況なのに、俺は嬉しくなってしまっていた。

ひとが恐ろしいと感じる彼の中で、切望される程には、俺が好かれているらしいことが、どうしようもなく、嬉しかったのだ。

両足を投げ出した俺に、彼が跨る。彼の持った包丁の切っ先が、俺の素肌に触った。

「真ん中じゃない。どっちかずらせ。動脈破ったら、すぐに死ぬぞ俺は」

彼は、こくんと頷いて、刺そうとする位置を変えた。

ぞぶり、と。

固く尖った切っ先が、俺の腹に潜り込む。一瞬だけ後悔して、けれどそれは横に薙がれた激痛に、あっという間に、押し流されていった。

「ゔ…お゛ぁ…。ぐうぅぅ…」

痛い。痛い。痛い。

頭の中がそれ一色で埋め尽くされてら四肢を振り回して、激痛を与える彼を排除しそうになる。

しかし、俺は、持ち上げた拳を解き、親指の付け根をがっぷりと咥えこんだ。

厚い肉に、自分の犬歯が突き刺さり、分散された痛みが、ほんの少し俺を冷静にさせてくれる。

「ふーっ…ふーっ……」

続けろ、と、俺は彼に視線を向け、顎をあげた。犬歯の下で、俺の皮膚がみちみちと音を立てて裂けていく。ぶつりと食い破った傷口から、鉄錆の味が口内へと流れ込む。今の状況では些細極まりない出血量に、呆れすら覚えた。

彼は眉根を下げて、けれども、安心したように、俺の腹の傷を広げていく。

腹圧に押され、俺の長いはらわたが、彼の膝の上へと流れ落ちた。

彼は、鼻を鳴らし、俺のはらわたへと手を伸ばす。けれど、まぁ傷口は小さく、こぼれ出したはらわたも、彼の望む量ではない。

彼は再び俺の腹に包丁を突き入れる。

「ぶふっ…ぐぅるるっ…」

俺の喉奥から、獣の唸りのような声が溢れ出してくる。彼は、俺が言った動脈を傷つけないようにする為か、時折俺の腹の中に手を入れて、それに近しいものがないか探っている。

その度に、俺は内臓を触られる不快感と、悍ましい痛みに、頭がくらくらする。

失神くらいすると思っていた。

だのに、意識を失う気配はなく、ただ、彼が俺に甘える痛みを、覚醒した神経で受け取り、いっそ麻痺してくれれば、もう少し楽しむ余地があるのにと思うばかりであった。

冷え切った部屋に、俺の血の匂いが満ちて、本来はどんなにおいの部屋だったのかもわからない。たばこのにおいがしたはずだ。

俺の腹から、血にまみれた小腸が、どろどろと流れ出している。彼はそれを両手にすくって、本当に愛おしそうに、唇をつけた。

彼が何度も、俺の腸を引き出し、抱きしめ、唇を押し付ける。

腸だけではなく、胃袋や肝臓、脾臓だとかも、大量の腸に隠れて、彼の前に溢れ出ているのだろう。

「ふーっ…ふーっ…」

俺の息をする音と、彼が俺のはらわたに口づけ、ぺちゃぺちゃと舐める音以外は聞こえない。

あんなにも喧しく鳴きじゃくっていた蝉の声が聞こえない。エアコンの稼働音すらも。

彼のためだけに、この部屋が世界から隔離されているような静けさだった。

下半身がひどく冷たく、それはきっと、俺の血を吸ったスラックスのせいだけではなくて、俺の身体が失血していき、その寒さが心の臓に届くまでは、俺は彼を見ていられるのだと思う。

彼が俺に抱きついて、パーカーをべったりと血で汚しながら、俺の顔を覗き込んだ。

「おまわりさん…すき…。すきですよ…」

しあわせそうな彼の唇が、俺の唇に吸い付いて、むせるような血肉のにおいを、俺の口腔へと運んだ。

彼は、俺の臓腑を慈しむように舐めている。

それは、もしかしたら、あまりに愛おしいものを、唇で触れたくなってしまうことに近いのかもしれない。

ああ、それなら、もしそうだとしたら、俺にも少し彼が理解できる。

「あー…くっそ……いってぇ…」

俺の臓腑に向かって、顔を伏せる彼の頭を撫でた。

しっとりと俺の血潮で濡れた黒髪は、血まみれの彼の顔に張り付いている。

彼の目がよく見えない。

彼の目が、見たいのに。

前髪から赤い糸をひいて、彼の顔の赤に混じっていく。

俺は冷え切った指で彼の前髪を触り、その下の目を見た。

底無しの池のように、暗く、黒いまなこが、恍惚に歪められていた。

ひどく眠たくて、彼の目を見ているのに、瞼が重い。もう少し。もう少しだけ、意識を失いたくない。

俺のはらわたの上で、彼がしあわせそうにしているのだ。

掴み上げた臓物ひとつひとつに舌を這わせ、口づけ、愛してくれているのだ。

「すき…おまわりさん……うう…すき…」

答えてやらなければと思う。

ひとが恐ろしく、車の他を愛したことのなかった彼が、はじめてひとを怖がらずに済んだのが俺だ。俺は俺の責務を果たさなければならない。

「ああ、俺もすきだよ」

ごぽりとこみ上げてきた、赤黒い血液を口から零しながら、俺はそう言った。

明瞭でない発音だったが、きっと彼はきちんと聞き取っていて、それを忘れずにいてくれるだろう。

俺の口から溢れる血潮を、彼が唇をつけて吸ってくれた。

こくり、こくりと喉を鳴らし、俺の血を飲んでいる。もしまた、彼が真っ黒いかなしみに襲われた時に、体内の俺の血液がら彼を救うことになって欲しかった。

そして、俺も、彼のなにかを俺の中に欲しくなった。

口内の血は、彼に吸い出され、ひどく喉が渇いている。

俺は未だ俺の唇を舐める彼の後頭部を、手のひらで抑え、そうしてから、彼の柔らかな唇に歯を立てた。

渾身のちからで、彼の唇を、顎にかけての皮膚までも、俺はその牙を持って食い破り、溢れ出した彼の血と、肉を噛み砕いて飲み込んだ。

今の俺に、胃袋が機能しているとは思えなかったが、それでも、彼を俺の中に取り込んでおきたかった。

彼は剥き出しになった歯を、自分の指で撫で、俺が彼の血肉を食ったことに驚いているようだった。

彼の歯列に残った彼の血を、俺が舐め、飲み込む。目覚めた時、彼のなにかがわかるようになるといい。

ならなくても構いやしないのだけれど。そうしたことに、きっと意味があるのだ。

下半身の寒さは、すっかり俺の腕まで支配していて、腕を持ち上げることすら叶わなくなっていた。腹の痛みは、寒さにすっかり麻痺してしまって、痺れたような、鈍い痛みだけを俺に伝えてくる。

生命維持の危険を知らせることも、もうじきに必要なくなるのだろう。

彼は、俺の胸を、腹を舐め、そうしてまた、内臓の中に顔を埋めた。

ここで眠ってくれても構わないと思った。男の身体で母体回帰なんて、矛盾極まりない言葉ではあるけれど、彼が俺の中で安らいでくれるのは、とても気分が良かった。

「なぁ、眠いんだ…」

声帯に絡まる血で、途切れ途切れに、俺は彼に言った。

「先に、休んでいいか」

俺の言葉に、彼は頷いて、「ゆっくり休んでください」、と。

そう、法悦を滲ませる声で答えた。

彼の腕が、俺の頭を抱いて、とんとんと、寝かしつけるように指でリズムを刻む。

俺は彼に包まれているし、彼は全身を俺に浸している。

悪い気分ではなかった。

「おやすみなさい…」

彼の声だけが、なにも見えなくなった俺の世界に響いた。


目が覚めると、彼は俺の横で丸まっていた。

スマートフォンの電池が切れていて、日付がわからない。

充電器に繋いで、たばこを吸いながら起動する。

あれ程室内を支配していた血の匂いはすっかりと消え失せていて、何もかもが元に戻っているようだった。

「二日…」

丸二日、俺は眠っていたらしい。その間、彼はなにをしていたのだろうか。彼は、ひとりでなにを。

彼の頭を触ると、皮脂でべたついていた。エアコンは相変わらず限界まで部屋を冷やしていたけれど、きっと、この二日間、彼は俺の隣で身体を丸めて待っていてくれたのだろう。

食事をした形跡も、においもなかった。

ただただ、隣で、待ち続けていたのだろう。

「は、ふ…」

たばこの煙を彼の顔に吹きかけると、ぎゅっと眉が寄って、それから彼が目を覚ました。寝惚けている。

「なぁ、起きたよ」

俺の言葉に、ゆっくりと覚醒していく彼の意識が追いついてきたようだ。

「よかった…まってたんですよ…」

彼の腕が俺の頭に回されようとする。

「ばか…!火が…!」

咥えていたたばこを慌てて指で取り、遠ざけようとしたけれど、その火種は彼の頬を焼いて、横向きに線を引いた。

「よかった…。おまわりさん、まってたんですよ…おまわりさん……」

彼は俺を抱き込んで、何度もそう繰り返した。彼の汗のにおい。うっすらと残る鉄錆のにおい。ガソリンのにおい。

「風呂、入るか」

彼の腕の中でそう聞くと、彼は「はい…」と答えたけれど、すぐには解放してはもらえなかった。

もう少し、たばこの火種が焼け落ちるまでは、彼の好きにさせてやろうと、そう思って、彼のにおいの中で目を閉じた。





20160606

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