第35話後悔しない

彼が、荷物をまとめて交番を飛び出していった。

足音はどんどん遠ざかって、しゃくりあげていた彼の横顔だけが、俺の網膜に焼き付いていた。

些細なことだった。

俺が出しっぱなしにした書類の裏側に、彼は鉛筆でパトカーの絵を描いた。伏せてあった紙は、ちょうど俺がメモに使うコピー用紙と同じ大きさだったから、彼はきっとそれも同じものだと思ったのだろう。

それは、描かれたパトカーの絵を、消しゴムで消して仕舞えば、問題なく使えるものだったのだから、俺が声を荒げ、彼を恫喝するような必要性は全く無かった。なのに、俺は彼を怒鳴りつけ、威圧してしまった。

彼はひどく怯え、俺から逃げる為に、泣きながら交番から出て行った。

冷静になった俺は、なんであんなにも感情的になったのだろうと後悔した。彼を追うことを考えたが、顔をあわせる気まずさが、俺の足を重くしていた。

電話が鳴る。

近くの交差点で起こった事故の通報だった。俺は、彼のことを後回しにしなければならない。制帽をかぶり直して、パトカーに乗る。

パトカーのアクセルがひどく重い。

ハンドルも、他人の車を運転しているような余所余所しさだ。

「なぁ、おい。あんたが拗ねてどうするんだ」

彼の真似をして、パトカーに声をかけても、返事なんて返ってこず、ただただ、ハンドルのあそびがずれるばかりだった。

調書を取り、一仕事終え、交番に戻ってきても、俺はパトカーから降りられずにいた。

交番に戻っても、彼がいないのだ。

彼がいない。そのことを自覚した瞬間、今となっては、彼がいかに、俺の生活の大半を占めているのかを思い知る。

警察学校に行く為に実家を出てから、この方ずっと一人暮らしだったのだ。

前の署にいた時は、大量の職務に忙殺され、寂しさを感じる暇もなく疲労困憊していた。あらゆることから、自分の感情を追い出す程に、消耗し尽くしていた。

そして、やってきたこの駐在所で、俺は毎日、漫然と過ごしていたのだ。

娯楽も少なく、交番にくるひともあまりいない。けれど、ここにひとつは、交番を置かなければいけない。俺は、ここに、ひとりでいなければいけない。それは決して悲しいことではなかった。

人付き合いの煩わしさから一時的に離れるという意味では、限りなく効果的だった。おかげで、俺は自分と向き合い、消耗したものを取り戻すことができた。けれど、そうして我に返ってみると、気付くのは浪費されるひとりきりの時間だった。

誰か来ないかと、待ってはみても、継続して交番に用があるひとはいない。

毎日毎日、交番にやってくるのは、彼だけだった。

いつしか、彼は俺の生活に染み込み、根を張るように、俺の中で大きなものへと変化していった。

パトカーは、彼が来たことで感情を持ち、ただの警邏車両ではなくなった。

この古いクラウンが、まるで何十年もここにいて、付喪神になったかのように。

そして俺も、彼がここに何十年もいるような。気の遠くなるような時間を共有したような、そんな、家族になったような気になっていたのだ。

今となっては、彼はすっかり俺の家族になっていて、彼の出自も、未だに彼の名前もわからないのに、俺の中ではかけがえのないものへと変貌していた。それは、時として猟奇的であったとしても、それすら、俺と彼の生活の営みの一部だったのだ。

俺は、それがずっと続くと思っていたし、それに対して、多大なる安寧を得ていたのだ。

だから、彼が、この交番の寝床でなく、彼の家に逃げ帰ったことに、ひどく動揺を覚えていた。

彼の帰る場所は、ここだけではなかったのを、忘れる程に、俺は彼を自分のものとしていた。

彼の名前を控えたメモはどこに行ったのだろう。

彼の生年月日、住所氏名。確かに俺は、どこかに書き控えたのだ。何度もそれを見たはずだ。

なのに、覚えることはできなかった。

彼の姿が、この交番から消えた瞬間に、あらゆるものが夢だったような、もどかしい喪失感を、俺は味わうことになったのだ。彼がここにいた証拠は、残っていない。

彼の家に向かいたい。けれどもし、記憶だけを頼りに向かった彼の家すら、もうなかったことになっていたら。

考えがそこに至るや否や、俺の全身の産毛が総毛立った。

ちりちりとした緊張感。昼間なのに寒気がする。

俺は手のひらで自分の上腕をこすりながら歯嚙みした。

彼と俺が出会って、何年経っているのか、思い出せない。薄れてしまう。

彼が俺を必要としなくなったとしたら、俺は彼を思い出すこともできなくなるのだろうか。

恐ろしかった。

俺は彼に救われていたのだ。

死んだように生きていた俺の前に彼が現れて、なにもかもをおかしくさせて、それでも、俺はそれに救われていたのだ。

彼と長く離れ続けていれば、俺はまた、死ぬ人間に戻るのだろうか。そうなったら、彼は。

彼はまた、生き続け死に続ける怪異のまま、ひとりで同じ世界を繰り返すのだろうか。

俺は、彼を忘れて、死ぬために生きていくのだろうか。

パトカーが身震いをした。

エンジンが回転している。俺に、早く彼のところに行けと言うように。

彼の家がないかもしれない、なんていう怯えに囚われるなと言うように。

俺はアクセルを踏む。

踏み慣れた重さが、思った通りの速度を出す。

ハンドルのあそびも、俺の身体にしみついた感覚そのものだった。

俺は、また、彼の家に向かう。

四度目の訪問だった。

彼の家の姿は、どうなっているのだろうか。


記憶通りの場所に、彼の家があった。

古い木造家屋は、瓦屋根を幾つか失って、表札に書かれていた読めない文字は、殆ど消えてしまっていた。

草が生えた玉砂利の道を歩く。

玄関の引き戸は、恐ろしく固い。

ぎっ、ぎっ、と、回数をかけて少しずつ開かせた家の中には、あの枯れ草にほんの少し鉄錆を混ぜたようなにおいが満ちていた。

玄関に揃えられた彼の靴。今朝見たものそのままに、けれど、家の玄関には、砂埃が薄く積もり、ざらついている。

靴を脱いで歩くと、白蟻に食われてしまったかのように、床が不自然にたわんだ。

この家は、彼のこころそのものだ。

俺がここを訪問するたびに、玄関の軋みが変わり、内側の空気が違うことを知っている。

今日の彼は、固く閉ざしたがっている。俺はそれを開き、彼を、俺のものとして持ち帰ることが目的なのだ。

砂埃の舞う空気は、とても静かだ。

息づくことなく、彼の持ち物が並んでいる。

視線すら感じない。この家は、死にかけているのかもしれない。

階段を上がると、みし、みし、と、今にも割れそうに踏み板がたわむ。

階段の手すりは、劣化し、木材に亀裂が入っている。砕けた木のかけらが、手のひらの中でちくりと俺を刺した。

彼の寝室のドアノブに手をかける。

がちり、と、施錠された音がして、それ以上ドアノブを下げることはできなかった。

「なぁ、いるんだろ」

ドアに耳を当てて、中の様子を窺う。小さな泣き声が聞こえる。

「なぁ。謝りにきたんだ。開けてくれないか」

彼の泣き声がする。起き上がる音は聞こえない。

俺は、二、三度、ドアを叩いた。そうして、そんな風に彼を急かしてもなにも意味がないのだと気づく。

俺はドアを背にして、頼りない床に腰を下ろした。

「俺は、もう怒ってないよ」

彼に聞こえるだろうか。

俺は、彼の失敗を咎め過ぎたこと、その失敗は、もうどうとでも取り返しがつくこと。そして、俺が彼に必要以上にひどい言い方をしてしまったこと。

それを順繰りに話し、最後に彼に謝った。

彼は、聞いているだろうか。

いつの間にか、しゃくりあげるような声は聞こえなくなっていた。

みし、と、扉の向こうで床板を踏む音がする。

かちり、と、施錠が外される音がして、俺は彼がドアノブをうごかすのを待った。

背中に触っていた扉が、向こう側に開き、彼が俺の背後に、ひた、と立つ。

枯れ草に微かに鉄錆を混ぜたにおいが濃くなり、俺の身体を包む。

彼の腕が、俺の頭を抱いて、頭頂部に、こつんと、彼の額が乗せられた。

彼の鼓動が、呼吸のたびに膨らむ胸が、背中から俺の中に染み込んでいく。彼がひとのかたちを留めていたことが嬉しくて、俺は手のひらで顔を覆って、少しだけ泣いた。

「「ごめんなさい…」」

二人分の謝罪の言葉が重なって、胸につかえていたものがとろけて無くなっていく。

「おまわりさんも…泣いてるんですか…」

俺のうわずった声を聞いて、彼がそう言った。俺のは、喜びの涙で、彼のそれとは違うのに、彼はひどく俺を心配するように、手のひらで俺の頭を撫でた。

「俺のは、いいんだ。君は」

俺は、顔をあげる。

彼に向き直って、涙を拭いてやりたかった。

けれど、彼の両眼にあったのは、涙でなく、どろどろに溶けてしまった眼球だったものだった。

「悲しくて泣いてるうちに、なんにも…みえなくなって…。おまわりさんも…なんにもみえない…」

彼がコールタール色の眼窩を俺に向けて、俺の頬に両手を添えた。

底なし沼のような彼の眼窩を見つめ、彼の本来の両眼を思い出す。

くるりとした、暗い色の、内側に魚を隠しているような底のない目。

俺が与えた哀しみが、彼の中で湧き立ち、こんなにもかたちを変えてしまったのなら、俺はそのことの責任を取らなければならない。

彼の哀しみを吸い出し、俺の腹の中に入れておかなければならない。

俺は、暗闇のような彼の眼窩に唇をつけた。

眼球だったものは、吸い出すと音もなく、俺の口腔に流れ込んでくる。

枯れ草に微かに鉄錆を混ぜたにおいが、俺の口腔で舌に絡みつき、痛ましいまでに濃くした血の味と、深い苦味を伴って、喉の奥へと流れていく。

ごくり、と、喉が鳴った。

内容物のなくなった彼の眼窩の中に舌を這わせて、哀しみが彼の中に残ることがないように、舐めとった。

ふたつの眼球だったものを飲み込んだ俺の腹は、ずっしりと重く、こぶし大の鉄球が、黒い塊となってごろりと留まっている。

そこから染み出した哀しみが、俺の内臓を溶かし、身体を崩していこうとする。

俺は彼の頭を抱いて、暫し、その濁流のような感情に向き合った。

「きみは、もう悲しくないか?」

俺が聞くと、彼はこくりと頷いた。

俺が肩代わりした彼の哀しみは、その小さな反応に、途端に萎縮し、俺の身体を浸食できなくなる。

枯れ草に微かに鉄錆を混ぜたにおいは、ゆっくりと薄れていく。顔をあげると、家はまた息づいていた。

「帰ろう」

そう言って、彼を抱き上げると、彼は素直に俺の首に腕を回して、従った。

降りる階段は、劣化しておらず、廊下もたわむこともなく、ただ、二人分の体重を受けて、小さく軋むばかりだった。

少し固いばかりの引き戸を開け、外に出る。風化していたものは、元に戻り、営みを始める。

目の見えない彼を、パトカーの後部座席に寝かせ、ハンドルを握った。

俺は、きっと、このことを後悔しない。

浸食する怪異を迎え入れ、それと共に生きることを、俺はもう、なにも後悔しない。




20160604

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