第34話脳みそが足りない

朝、目を覚ますと、おまわりさんが隣にいなかった。お布団はきちんと畳まれていて、随分前におまわりさんは起きていたようだ。

ぼくは目をこすりながら、台所に行って、作り置きの麦茶を飲む。換気のために開けられた小窓から、ひゅっ、ひゅっと、不思議な音が聞こえてきた。

外からだ。

ぼくは音の正体に挨拶をするべく、外に出た。

朝の空気のにおいの中に、おまわりさんが立っていた。首にタオルをかけて、上半身ははだかだ。腰から下は袴を履いていて、靴は、がっしりとした、地面をよく噛むブーツ。

おまわりさんが、木刀を頭の上まで上げて、一気に振り下ろす動作を繰り返している。

びっ、と、空気を切る音がした。

おまわりさんの肩の筋肉が盛り上がって、木刀を打ちおろすまでに、小さくなる。そして、かちかちに割れた腹筋がしなやかなばねを作って、木刀を腰の高さでぴたりと止めるのを補助している。

「おまわりさん…かっこいい…」

ぼくの口から出た言葉をきいて、おまわりさんは、タオルで汗をぬぐいながら「おはよう」と、低い声で言った。

制帽をかぶっていないおまわりさんを、まじまじと見るのは初めてかもしれない。

おまわりさんは、髪の毛を短く刈り込んでいて、濃いまゆのかたちがきれいだった。

目つきは相変わらずすごく悪くて、このままヤクザ映画に連れて行ったら、抗争で大活躍してくれそうなくらいだ。

「かっこいいですね…おまわりさん…ヤクザ屋さんみたい…」

「警官だよ」

そう言って、今度は構え方を少し変えて、袈裟懸けに木刀を振り下ろす。

足を踏み込むたびに、靴底が地面をがぶりと噛んで、足元をふらつかせるなんてことにはならない。

「あんまり近づいちゃだめだよ」

「はい…でも…」

ぼくは、かっこいいおまわりさんを、もう少し近くで見たくなってしまっていた。

できれば真正面から、固い木刀を振るうおまわりさんを見たくて、ぼくはふらふらと近づいていった。

「あ」

おまわりさんの頓狂な声。

ばがん!と、大きな音を立てて、袈裟懸けの振り下ろしが、ぼくのこめかみを思い切り当たった。

ぼくは地面に叩きつけられて、なにが起こったのかわからなかった。

「うわ、えー…。中身…まじか…」

おまわりさんが、ぼくのことを見下ろしながらなにか言っている。あたま。

さわると、あたまがへこんでいた。あなかもしれない。

「あな…」

おまわりさんは、まったくもう、とでも言いたげで、ぼくの頭を触って、また立ち上がった。

「近寄るなって言ったのに。もういいか…。的にでも使おう」

物騒な言葉が聞こえる。

また、ぼくのあたまに木刀が食い込んだ。

「あ゛ぁうっ…!」

あたまを抱えて身体を丸めると、そこら中、おまわりさんが木刀を打ち込んでくる。なんども、なんども。

いたい。いたいいたい。

でも近寄るなと言われて近寄ったのはぼくだ…しかたない…。

腕に木刀が当たって、骨が砕ける音を聞いた。

「あ゛ぁぁ…あ…。い゛だい…おまわりさ、い゛だい゛…!」

ぶらぶらの腕のまま、地面を転がるぼくに近づいてくる袴の裾。

じゃり、と音を立てて、ちからづよく地面を噛むかっこいいブーツ。

折れた腕にまた木刀を打ち込まれて、曲がる部分が増えていく。身体にも、たくさん木刀が食い込んで、みしみし音を立てる。横腹に食い込んだ木刀は、おなかのなかにまで衝撃を与えて、もしかしたらぼくの内臓を潰したかもしれない。

おまわりさんの与えてくる打撃は、ぼくの中に染み込んで、お腹の中で不思議なしあわせへと変わっていく。

ぼくはおまわりさんを見ているし、おまわりさんもぼくを見ている。

以前はおまわりさんをじっと見るなんてできなかったのに、今ではおまわりさんに向き合うことができる。

ぼくの視線に気づいたのか、おまわりさんがぼくに向かって、ふっと笑った。太陽の光を横から受けて、すごく優しい顔で笑った。

おまわりさんは、強くて、かっこいい。ぼくは本当にそうおもう。ひとの中で、ぼくはおまわりさんが一番すきだ。

ぼくのあたまに、おまわりさんが高い高い位置から振り下ろした木刀が、鈍い音を立てた。

「う、あ…」

あたまに手をやると、ざっくりとあたまの皮が削がれて、頭蓋骨が割れていた。どぷどぷと血が溢れてきて、あたまがぼうっとする。

おまわりさんが、その傷口を狙って、もう一度木刀を振り下ろす。割れた骨が砕かれて、視界の端っこに落ちてきた。その次の衝撃のあとに、ぼくの脳みそがひとかたまり、血まみれのままこぼれ落ちてしまって、ぼくはそれきり、なんにもわからなくなった。



彼の頭部を砕き、俺は彼を見下ろしていた。

やり過ぎてしまったような、けれど彼はきっと、なんら恐ろしく思う事なく、受け入れてくれたのだろう。

静かになった彼は、ぽっかりと開いた頭骨の割れ目から、脳漿と脳を垂らし、地面に伏せている。

地面に散らばった脳を集め、中に戻してやろうと思ったが、うまく入らない。よくよく考えると、土のついた脳を戻されても、起きた時の彼も困るだろう。俺は彼と脳を持って、交番の中に入った。

彼の頭には、ガーゼと包帯を巻き、これ以上脳がこぼれないようにして、布団に寝かせる。土まみれの脳を水で洗い、後で戻せるか試してみようと、ラップにくるんで冷蔵庫に入れた。

俺はかいた汗を流したかったし、死んだ彼が蘇生するまで、ぼーっとしているわけにもいかなかった。

シャワーを浴び、制服に着替え、制帽を被る。ここに彼以外のひとが来る時に会うおまわりさんは、優しくて気さくな、愛されるおまわりさんだ。


執務を行い、パトカーに乗って警邏し、お年寄りの相手をしている間に、一日はあっという間に過ぎていく。交番の電話を、市の警察署に繋がるように設定を変えてから、俺は夕飯の準備に取り掛かった。

まな板の上で野菜を刻み、ボウルに放り込む。

彼は今夜起きるかもしれないし、起きないかもしれない。けれど、彼の分の食事を作ることは、すっかり日常のことになっている。

野菜嫌いの彼の為に、細かく刻んだ野菜を入れたハンバーグを焼き、それを煮込みにする。彼はデミグラスの類いをよく好むから。

くつくつと音を立てる鍋の具合を見ていると、俺の背後に裸足の足音が聞こえた。

「起きたのか」

彼に向き合って、俺が言うと、どこかぼんやりした風に、彼は首を傾げた。

「う…おまわりさん…」

彼は両手を伸ばして、俺の体に手を回す。きゅ、と、抱きつき、甘えるように俺の胸に頬をくっつけた。

「いいにおい…おなかすいた…。おまわりさんたべたい…あっ、ぼくを焼かないで…」

寝惚けているのだろうか、普段の彼はもう少し筋道だった会話をする。

ぎゅっと俺の身体に腕を回し、なにごとか言いたそうに、俺を見上げた。

「どうしたの」

「…おしっこが……」

あ。と、彼が声をあげた。

途端、彼のズボンの色が変わり、裾からぽたぽたと液体が垂れてくる。

「うぅ…う…おこ、おこらないで…。ちがうから…」

俺は訝しみ、彼の頭を触る。まだ、頭蓋骨は閉じていなくて、もしかしたら、脳が戻る前に、起きてしまったのかもしれない。

ともあれ、彼の漏らしてしまったものを片付け、新しい下着を渡そうと、箪笥を開けた。彼はそれを受け取るも、どうにもうまく履けないようで、畳に座り込み、どの穴に足を入れたらいいのかわからないでいる。

「立って。右足この穴。うん。左足こっち。肩掴んでな。転ぶなよ」

まるで、五歳そこらのこどもの世話をしているようだった。

ジャージも履かせようと、また彼の前に座り込む。がぷ、と、彼の前歯が俺の頭に刺さった。

いつもよりちからが弱く、大して痛くもない。

「なに、腹減った?」

「おなか…うん。おまわりさんが…おいしそうで…。ぼくはおいしくないから…だめです…」

そろそろ、煮込みも出来上がっているし、彼に夕飯を食べさせることにした。

けれど、彼は箸をうまく使えず、それどころかスプーンですら、うまく持てない。俺はハンバーグをスプーンで切り、彼に食べさせる。

湯気の立つハンバーグに息を吹いて冷まし、口に入れてやると、彼は顔を綻ばせながら咀嚼し、嚥下する。

「もっと…」

俺は自分の分を食べるのも忘れて、彼に食事を与えた。

先に食べ終わった彼は、食事を続ける俺の膝に入って、執拗に甘えている。

脳が足りないからだろうか、逐一行動が幼く、こどもをあやしている気分だった。

「おまわりさん…すき…」

ちゅ、と、彼の唇が俺の頬に触れる。ちゅ、ちゅ、と、触れるだけだった唇から、ほんの少しだけ舌を覗かせ、頬を舐める。

彼の拙い愛情表現は、普段ならもう少し適当にあしらってしまうのに、俺はしあわせな気持ちになってしまっていて、彼の頭を指でくすぐった。

包帯とガーゼに囲まれた頭蓋骨は、まだ穴があいているのだろうか。

もう少ししたら、彼の傷口を改めて、どのようになっているか見てやろう。入るようなら、足りない脳を押し込んで、勝手に癒着していくのを待てばいい。

B級スプラッタでも、そこまで簡単に人体改造しないだろうという気安さで、俺は考えていた。

「あ、パトカーさん…」

俺の頬に擦りついていた彼は、突然立ち上がり、車庫に繋がる窓を開けた。そこから素足のまま、車庫に飛び降り、パトカーにぺったりと身体をくっつけた。

ボディに唇を寄せ、きっとさっき俺にしたのと同じ愛情表現をしているのだろう。

俺は窓の外の彼を視界の端に入れたまま、残っていた夕食を腹に詰める。スパイスをうまく配合したハンバーグはさもありなん。それを煮込むデミグラスとの相性も最高で、俺は自分の腕に満足さを覚えた。きっと彼も、満足してくれただろう。

食器を流しに運び、食後のたばこを咥えて車庫を覗く。

彼はパトカーのトランクの上に身体を乗せて寝そべっていた。

腹が膨れて眠くなったのだろうか。

「おい。そんなところで寝るな」

俺が言うと、ふにゃふにゃとした声で何事か返し、こちらに戻ってくる。

窓の向こうで両手を広げ、持ち上げてくれという風に俺を待っている。

たばこを口に咥えて、彼の顔や身体にあたらないように気をつけながら抱き上げる。

部屋に引き入れ、彼を畳の上に下ろす。ひとくち吸ってから、咥えたばこを右手でつまんだ。

「ちょっと、頭の具合を見せてごらん」

「あたま…たべるんです…?」

違うよ、と言いながら、彼の包帯の結び目を解く。髪の毛がひっついてしまったガーゼを剥がすと、まだぽっかりと穴があいていた。

俺は彼を座らせ、冷蔵庫に脳を取りに行く。ラップに包まれた脳は、よく冷えていて、これをこのまま戻したら、頭が冷たくなってしまうのではないかと思う。

彼の前で、脳を手で押し込んで包み、あたためようとする。

「う、おえっ」

彼がえずいた。

脳を圧迫する手をどけると、彼はまたぼんやりとした表情に戻る。試しに、ラップ越しに脳を指で押した。

「おえっ」

吐く程ではないが、舌を出して、彼がえずく。

まるで押したら動くスイッチのようで、俺は面白く思った。指先で脳を押し、彼が舌を出す。それだけの動きがとても面白いのだ。

「おまわりさん…それ…」

「うん。面白いよ」

「おえ…」

プニプニした脳は、ラップ越しにはべたついたりもせず、手触りもいい。これが彼のスイッチを果たすなら、もうしばらく元には戻さないでおいて、おもちゃにしようと思い、彼の頭にまたガーゼと包帯を巻く。

しきりに眠たがる彼のために布団を敷いてやる。幼い思考のせいだろうか、普段よりも随分と早い就寝である。

寝付いた彼の脳を遊ぶのは、少し躊躇われた。今日の彼は幼すぎて、俺が楽しむには少し足りない。

「シャワー浴びてくるから、寝てなよ。トイレは?平気?」

「ん…へいき…。おや、すみなさい…」

布団を頭までかぶって、彼が眠る。寝息が聞こえてくるのを確認して、俺は風呂場に向かった。

シャワーを済ませて部屋に戻ると、やはり昏々と寝入っている。彼がいるけれど、彼のいない夜。俺も起きていても、あまりすることがない。一服して、俺も布団に入った。

ふと、夜中に目が覚めた。布団の中に、彼が入り込んでいた。

子供のように俺に身を寄せ、腕の中で眠ろうと身体を丸めている。なんだかあたたかい気持ちになって、彼の布団を引き寄せ、はみ出していた彼の背中にかける。敷布団は狭いが、こんな夜があってもいい。幼い彼と過ごす夜は、新鮮でとても穏やかだった。


朝、目が覚めた彼は、既にいつもの彼だった。俺に抱かれて眠っていたのに気付き、少し困惑してから、結局俺の胸に顔を埋めて二度寝した。

きちんといつもの声で「おはやうございます」そう言って、また寝たのだ。

きっと、彼の脳はもう元に戻っていて、冷蔵庫の中の脳は、なかったかのように消え去ってしまっているのだろう。もう少しあの幼い彼を楽しみたかったと思わなくもないけれど、やはり、いつもの彼が隣にいる方がしっくりときた。

なにより、この彼でなくてはいけないのだ。俺が彼を楽しむには。

すずめの鳴き声が外から聞こえる。彼はまだ寝息をたてている。もうトイレの世話をしてやらなくていいだろうし、俺ももう少し眠りたい。

包帯を巻いたままの彼の頭を指でくすぐりながら、俺もまた、惰眠を貪るべく目を閉じた。





20160531

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