第33話噛んだり舐めたり

「おまわりさん…おなかすいた…」

じきに日付も変わるだろう時間に、彼が俺の隣でぼそりと言った。夕食を済ませて六時間弱。確かに、そろそろ小腹が減ってくる頃合ではあるのだが。

俺はうつ伏せになって、テレビを見ていた。今から身体を起こして夜食を作るのは億劫で、かと言って、彼は自分で調理できる技量は持ち合わせていない。

「もう深夜だし、諦めて寝なよ」

俺がそう言うと、彼はふるふるとかぶりを振って、

「おなかがすいて…ねむれません…!」

珍しくはっきりとした口調で訴えた。

さてどうするか。どうにも面倒臭くて、そんな彼を放置して、俺は深夜ドラマの続きに目を向ける。

ちょうど、主役の男が孤独なグルメを楽しむ真っ最中だ。

「ううう…おまわりさん…」

彼が俺の背中に乗って、ゆさゆさと揺さぶってくる。

それがちょうど背中をマッサージするようで、おろす気にならず揺すられるに任せた。勿論、夜食を作るつもりになんてなりもしない。

「このさい…おまわりさん…おまわりさんで…」

頭の後ろで不穏な発言が聞こえる。

身体をよじって、彼を落とすのは簡単だが、まだそれはしない。

彼は俺の首筋に頭をくっつけて、ふうっ、と、息を吐いた。あたたかい吐息が耳を触った。

小さな歯が、俺の首に当たる。固く薄い前歯が、おずおずと俺の皮膚を押す。

そうして、かぷりと唇が皮膚を包み、その直後にぎりりと歯が肩の肉に食い込んだ。

「……ッ!」

普段なら、すぐに身体をよじって彼を転がし、首根っこをつかんで放り投げてやるところなのに、俺はそのまま、皮膚に食い込む歯列の痛みを甘んじて受けた。

今日は、したいようにさせてやりたくなったのだ。

彼の歯が一度離れる。

痛みから解放され、俺は息を吸った。

「おまわりさん…」

小さな一言のあと、今度は一切の躊躇いもなく、彼の牙は俺の肉に突き刺さった。

「イ゛ッ…!」

みちみちと犬歯が肩に食い込み、肉を噛み切ろうと、万力のように挟み込む。

痛みがくるのがわかっていても、俺の身体がびくりと跳ねる。

「くっ…」

彼は餌を食いちぎる犬のようにかぶりを振って、俺の皮膚を剥がそうとする。けれど、厚い表皮と筋繊維で作られた生肉は、そう易々と引きちぎられるものではなく、ただただ、歯列で肉を挟み込み、強く引かれる鋭い痛みが俺を襲う。

俺は目を閉じて、彼の与える痛みに、動くまいと下唇を噛んだ。

「はぁ…」

疲れたのだろう、彼は息を吐くと、俺の肩口からそのあぎとを離す。ひりつく痛みに指を伸ばすと、彼の唾液に覆われて、ぬらりとした傷が口を開いていた。

小さく、皮を剥がれている。

そこから、ぷつぷつと血潮が浮かび上がり、漏れ出そうとしているのだろうが、俺にそれを視認することはできなかった。

指の爪の中に入り込んだ、己の血潮を舐めながら、彼が次になにをするのか待った。

彼は剥ぎ取った俺の肉片を噛み、ごくりと嚥下する。

すぐにまた傷口に唇をつけ、剥き出しの皮膚に、薄い前歯を押し当てる。

生皮を剥がれたそこに、食らいつく痛みを予測し、俺はまた身体を固くした。けれど、次にそこに触ったのは、ちろちろと蠢く彼の舌だった。

俺の傷口から染み出す血液を求めて、けれども、傷ついた部分を癒すように、彼は俺の肩に舌をつけていた。

柔らかい唇が傷口の周りを覆っている。舌が蠢き、その味蕾をもって俺の血肉を優しく味わっていた。

「おまわりさん…痛いね…。ごめんね…。でもすきだからしかたない…」

彼はぼそぼそと言った。

流れ出る紅血をすすりながら、切なそうにそう言った。

彼は、俺の肩をかぷりとして、今度はすぐに口を離した。

「そうだ…みえないところじゃないと…」

思い出しても、もうひとつめは、丸首のTシャツで隠れるか隠れないかの場所につけられているというのに。

彼は俺のシャツをめくると、頭を突っ込んだ。

背筋の盛り上がりを、ぺろぺろと舐め、ここに決めたと言うように、俺の肉を噛んだ。

「ぎっ……」

背中に彼の身体が密着して、肌に当たる息は温かい。

痛みに耐えながら、俺は彼の体重とあたたかさに気を取られていた。

背中に添えられたてのひら。

彼が肉を噛むたびにあたる鼻先と、額。

服の中で蠢いて、俺の身体を味わっている。

理由のわからない幸福感が空気中に浮き立っていて、俺はそれを吸い込んだ。

噛み、出血させ、舌で癒す、緩慢な作業。少しずつ取られ、かじられ星のように身体が減っていくような錯覚を覚える。

彼が俺の服の中から顔を出して、はぁっと息を吐いた。

俺は身体がよじって、彼を床に落とし、仰向けに転がす。

「あ…あの…」

「俺も噛む」

「ぼくなんか…たべてもおいしくないですよ…?」

おどおどと答える彼に、なるべく低く、優しい声で囁く。

「好きだからしかたないんだろう?」

彼は困ったように眉を寄せて、自分からTシャツをめくって腹を出した。

つるんとした日焼けなどしていない腹があらわになって、ここにあのおぞましい色の歯型をつけるのかと思うとぞくぞくした。

俺は彼の腹に手を添えて、一気に牙を立てた。

「ゔ、ぅぅっ…!」

俺の肌に比べると、皮が薄く、柔らかい腹の肉に、存分に牙を立てた。

噛みつき、引っ張り、離し、少し場所をずらして食らいつく。

肉に歯が食い込む感触は、なんともいえぬ好ましさだった。

腹を食い破り、彼の内臓を食い散らかす妄想が、頭の中を駆け巡る。

けれど、そんなことができる顎を俺は持ち合わせておらず、俺は彼の身体に傷痕をつけたいという欲求にだけ、素直に従った。

彼の身体に、血を浮かせる小さな傷口が増えていく。

愛咬に近いそれは、数が増えるほどに、俺の気持ちを高揚させ、満足感を膨らませた。

滲み出た紅血を舌で舐めとり、彼と同じように味わう。

血を舐められ、同じようにする。それはなんだか、性交渉のようで、じんわりと下腹部が熱くなった。

「ねぇ、しゃぶって」

腰を浮かせ、スエットを引き下げながらそう言うと、彼は緩慢な動作で起き上がる。

膨らんだ俺の股間に、ボクサー越しに顔を押し付け、息を吸った。

鼻先が頭をもたげた陰茎に当たり、やんわりとした刺激を与えてくる。

布越しに唇を動かされ、緩く勃起したものが徐々に張り詰めていく。

俺はボクサーパンツをずり下げ、彼の顔の前に昂りを露出させた。

彼は短い舌を出して、俺の陰茎を咥え込む。

膝立ちの俺の前で、彼は両手を床につき、口内に引き込んだ陰茎をたどたどしく愛撫する。彼の後頭部を押して、奥まで入れると、表情は途端に苦悶に変わる。

彼の口と喉を使って、陰茎をしごく。

吸い付いて欲しいところではあるが、彼に多く望むつもりはなかった。

苦しそうな彼の顔を見下ろしながら、乱暴なオーラルセックスを楽しむ。

彼の舌の上で射精し、陰茎を引き抜くと、唇からとろりと精液があふれた。

彼は口元を抑え、ん、ん、と、小さく声を漏らす。こくりと喉が動いて、俺が吐き出したものを飲み込んだ。

唇に垂れたものを指ですくってやると、その指に吸い付き、それも飲んだ。

俺は征服感を感じて身震いした。

「おなかすいたって…いったけど…」

「これは違うよな」

至極不満そうな彼の頭をくしゃくしゃと撫でて、俺も自分の腹の虫に気をやる。

「俺も腹が減ってきたな。ラーメンでも食いに行くか」

「ラーメン…!」

部屋着のままで出かける、深夜ラーメンの旨さを、彼に教えるいい機会だ。


少しパトカーを走らせたところにある、遅くまでやっているラーメン屋は、俺が以前よく利用していた店だ。

「ここの、うまいんだよ」

パトカーに鍵をかけながら、俺は言った。彼はパトカーを撫でてから、興味深そうに赤い暖簾を見た。

二人で、その暖簾をくぐる。

さすがに一時半を過ぎた時間には、客がおらず、大将が俺を見て「久しぶりだね」と声をかけた。

俺の横で彼が身体を固くする。

気にしないように促し、ひとつしかないボックス席へと腰を下ろす。

メニューを見ながらも、彼はおどおどしていた。

「あんまり…たべられないかも…」

「なら、俺のを分けよう」

俺は特盛ラーメンをひとつ頼み、冷えた水を飲んだ。

運ばれてきたラーメンを、子供用のお椀に取り、小さなラーメンを作って、彼に差し出す。

割り箸を割り、彼はラーメンに口をつけた。

「おいしい…」

「な。深夜の背徳感も相まって、だいぶうまい」

幸せそうに麺をすする彼を見ながら、俺もラーメンに箸をつける。

「チャーシューは?もう一個」

「それよりたまご…」

「たまごぉ…?」

たまごは一個しかない。なんてやつだ。少し迷っていると、彼は唇を尖らせた。

「やっぱりいい…」

俺は笑って、煮卵を追加で注文した。

彼のお椀ラーメンに、俺の器からぽいと煮卵を放り込んだ。

「食っていいよ」

そう言うと、彼は嬉しそうに笑い、よく味のしみた煮卵を口に運んだ。

小さな舌を出して、猫舌をこらえながら食べる姿を見て、俺はとても幸せだった。



20160514

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